一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「恥の感覚」雑考

2006-05-05 13:04:00 | Essay
R.ベネディクト (Ruth Fulton Benedict, 1887 - 1948)

アメリカの人類学者 R.ベネディクトが「恥の文化」として、日本およびポリネシアなどの文化に特有の型(パターンであり、タイプではない)を発見したことは言うまでもないでしょう。
彼女は、この「恥の文化」に対して、キリスト教文化圏を中心とする「罪の文化」があることを言ったわけですが、それぞれの文化の特性は、
「『罪の文化』は内面的な行動規範を重んじ、『恥の文化』は外面的な行動規範を重んずる」
とするものでした。

しかし、ここには、土居健郎が指摘したように、彼女の価値判断が含まれています。
つまり、
「ベネディクトの主観において、前者(「罪の文化」)が優れており、後者(「恥の文化」)が劣っているとされていることは明らかなのである。」(『「甘え」の構造』)

それに「外面的な行動規範」を重んずる、というのは「恥」によるものなんでしょうか。
むしろ、そこに名づけられるのは「面子(メンツ)」とか「世間体」ではないでしょうか(「世間体」には「恥」の感覚がいささか感じられるが)。
確かに、ここは同調圧力が強い社会ではあるが、それは「恥」の問題とはまた別に考察すべき問題でありましょう。

さて、ここで実際に、自分のことを考えてみると、どうも「恥の感覚」というのは、「倫理観」や「美意識」と呼ばれる領域に極めて近い部分にあるようです(ここで「倫理観」というのは、内面化されたもので、「良心」や「超自我」と呼ばれているものとも関係がある)。

これ以上の考察をする場合に役立ちそうなのが、作田啓一が『恥の文化再考』で述べた所論です。
作田は、ベネディクトを批判する形で、次のように整理しています(番号は、今便宜的に付けた)。
(1)「羞恥心というのは『人見知り』や『間のわるさ』などからくる『恥ずかしい感じ』といった意味である」

(2)「この羞恥心が、『恥』と『罪』両方の源泉となる感覚である」

(3)「その羞恥心の行動原理の上での現われ方が、〈優れている/劣っている〉という基準(『優劣基準』)から出現すると『恥』になり、〈善/処罰されるべき悪〉という基準(『善悪基準』)から出現すると『罪』になる」

基本的には、納得させられるところ大ではありますが、(3)に関しては、「優劣基準」とするよりも、「美醜基準」とした方が、小生の実感にはあっている気がします。

 「日本人に倫理観などはない、そこにあるのは美意識だけだ」
と喝破したのは、かの福田恒存だったように記憶していますが(違っていたら御免)、ある意味で、当っているのではないか。

「『こんな行動をしたら〈美しくない〉』
という内面の声を聴き、もし、そのような〈美しくない〉行動を取らざるを得ない場合に『恥しく』思う」
というところが、小生の実感に近いように思えます。

それでは、何を〈美しい〉とするようになったかは、別の機会に語りたいと思いますが、成長する過程での「羞恥心」の積み重ねに原因ありと思っていることだけを今は述べておきましょう。

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