2003年5月22日号の『タイムズ』紙。
「ヨーロッパでは音楽に対する嗜好は特定の文化階級に帰属することの表徴であり、そのような趣味は『文化資本』として家庭や学校を通じて身体化され、そのことがヨーロッパ社会における『階級』と『文化』の実定性をともに支えている。」(若林幹夫『距離と反復ークラシック音楽の生態学』)という。
同論文からフランスでの音楽趣味の例を挙げれば、
「『平均率クラヴィーア曲集』やラヴェルの『左手のための協奏曲』、ある種の芸術志向のジャズやシャンソンの愛好者は高学歴の支配階級に多く見られる趣味であり、ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』やリストの『ハンガリー狂詩曲』、ジャック・ブレルやジルベール・ベコーのシャンソンは中間階級に、また『美しき青きドナウ』や『椿姫』『アルルの女』、”芸術的野心や欲望を完全になくしてしまったシャンソンは庶民階級に、それぞれ頻繁に嗜好されるという。」
しかも、この「文化資本」たるや、音楽に対する趣味にとどまらず、文学や美術などの芸術分野から、毎日購読する新聞にまで到る(新聞で言えば、英国での『タイムズ』『ガーディアン』などの高級紙と、『サン』『デイリー・メール』など大衆紙などの違い)。
そこには、「家庭で自然と身についた文化資本」と、「学校で努力して身につけた文化資本」とがあるということが、ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu, 1930 - 2002) らの研究によって明らかになっている。
翻って、現在の日本を考えると、「格差社会」とは言われてきているものの、それほどはっきりした「文化資本」の差異は見受けられないのではないか(江戸時代には、武家層は能、上層町人は歌舞伎、下層町人は落語・講談といったように、差異があったが)。
というのは、日本の場合、「文明開化」による文化の断絶があり、趣味の多くが「学校で努力して身につけた文化資本」になったからだろう(この辺りの分析は、竹内洋『立志・苦学・出世―受験生の社会史』参照)。
さて、団塊の世代が社会の第一線を退き、新たに「生き甲斐探し」を始めた時、このような「文化資本」はどのような役割を果たすのであろうか。
gegengaさんは、学校図書館が役立ったようですが、
小生の場合には、地域の図書館がかなり昔にできたので、
ほとんどの本は、そこで借りてきていました.
また、その図書館でレコードの貸し出しも
始めるようになったので、
それもまた、有効に活用させてもらっていました。
そんなわけで、自分で興味関心を持たないと、
どうしようもないみたい。
地域や学校での環境の整備はもちろん必要ですが、
最終的には、「向上心のない奴は馬鹿だ」
ということになってしまいそう。
特に、中年過ぎると、その差がはっきりしてくるみたいですね。
さて、その点、gegengaさんは
興味旺盛だし、向上心もあるし、文章もしっかり書けるし、
「文化資本」が身についていないとは
言えないんじゃないかしら。
多少なりとも、拙稿がお役に立てて幸甚です。
では、また。
昨日このエントリーを読んでビックリした!
というエントリーを書きました。
ので、ビックリついでに貼らせていただきました。
「文化資本」の話、大変興味深く読ませていただきました。
私にはあまり「文化資本」が身についていないようです・・・。