一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「畏怖」という感情と「宗教」

2007-10-13 03:48:19 | Essay
「畏怖」という心理状態/感情・感覚が、人にはあります。
何か人間存在を超えたものに対するときに覚える感情・感覚です。
ですから対象としては、いろいろな形がある。
ある人は、大自然に対して抱くでしょうし、またある人は藝術作品にも覚えることがあるでしょう。

このような感覚がないと、どうしても人間というのは傲慢になりやすいようです。ただでさえ「万物の霊長」と自己中心的に思っているのですから、近代に入ると、すべてのものは人間に所属するもののように思え、大自然でさえ人間に都合のいいように改造可能なもののと思ってしまう。

この辺りが、近代科学技術が批判される点でありましょう。
特に二十世紀も後半になり、遺伝子への操作や臓器移植などが可能になると、その限度の基準をどこに持つかが問題になってきました。

そうなると一つの反省基準として、「畏怖」を持つことが必要になってくるのではないでしょうか。

古くは、「畏怖」が「神」と結びつけられ、宗教が生まれてきた。
アブラハム宗教だと、この世の存在を形作った「神」という概念ですな。また、ありとあらゆる存在には「神」が宿る、という考え方も一方にはあります。
いずれにしても、人間存在を超えたものに対する「畏怖」が元になっているのでしょう。

一方では「畏怖」の対象を掴みたい/「合理的」に理解したいという欲求から、世界の説明原理としての「教義」「経典」が生まれてきます。
現在、このような「説明原理」としての宗教は、科学に取って代わられています。

一方では、超越的存在に何らかの働きかけをして、自分に都合がいいように操作する、という態度もある。
いわば「現世利益」を求める宗教活動です。これも古くからの宗教の機能の一つなのでしょうが、あまりにもご都合主義的なのは否定できないでしょう。

それでは、これからの「宗教」はどうあるべきか。
「畏怖」を元にした感情と科学とに、どのように折り合いをつけていけばいいのか。
この辺りが、小生の個人的な問題意識を含めて、今後の課題になっていくようです。

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