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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(20) ― A. シュライヒャー

2005-11-07 00:00:05 | Quotation
「諸言語は自然の有機体であって、それは、人間の意志にかかわりなく成立し、一定の法則にもとづいて成長し、発展し、やがて老いて、死滅する。言語にもやはり我々が〈生命〉と呼んでいる一連の現象がある。」
(『ダーウィン理論と言語学』)

A. シュライヒャー(August Schleicher. 1821 - 68)
19世紀ドイツの言語学者。シュライヒャーは、「科学の世紀」である19 世紀において、ダーウィンの進化論を取り入れ、言語の変化の歴史の解明に用いようとした。印欧歴史言語学において言語の「系統」を、樹状図で表現した最初の人であることは有名。

上記の引用は、ドイツへのダーウィン思想の定着に努めた、生物学者のエルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel. 1834 - 1919) へ、シュライヒャーが送った公開書簡の一説。ここで、シュライヒャーは、言語を生物学的な比喩で語っている。一方、ブルークマンやジェーフェルスなどの青年文法学派(Junggrammatiker)は、このような生物学的な比喩を否定し、「音韻変化は例外のない一定の法則に従って起こる」というような物理学的な定式によって音韻や音韻法則を説明しようとした。

参考資料 田中克彦『ことばとは何か』(筑摩書房)
      〃  『国家語をこえて―国際化のなかの日本語』(筑摩書房)

今日のことば(19) ― T. マン

2005-11-06 00:06:42 | Quotation
「聴かれず、見られず、感じられず、出来ることなら感性の、そして情念の彼岸で、純粋に精神的な領域で、理解され観照されることこそ、音楽のもっとも深い願望なのです」
(『ファウストゥス博士』)

T. マン(Thomas Mann. 1875~1955)
北ドイツ、リューベック生れの小説家。1901年に出版された『ブッデンブローク家の人々』が出世作(本邦の北杜夫が、この小説にインスパイアーされて『楡家の人々』を書いたことは有名)。1929年には、ノーベル文学賞を受章。
1933年には、ヒトラーがドイツ首相に選ばれたため、国外講演旅行に出たまま亡命生活に入る。1938年にアメリカに移住、1944年にはアメリカ市民権を獲得する。
代表作に『魔の山』『ヨゼフとその兄弟たち』『ファウストゥス博士』『トニオ・クレーゲル』『ヴェニスに死す』などがある。

上記の引用は、小説中で登場人物の音楽教師が語ったことば。必ずしも、マンの意見であるとは言えないが、ヨーロッパ(特にドイツ)音楽の1つの特徴を表しているとは言える。
彼らにとって、音楽とは、ラテン的な感覚の愉悦ではなく、彼岸にある精神的な何物かに近づくための手段、あるいは精神的な何物かを表したもの、それ自身なのである。

参考資料 『ファウストゥス博士』(円子修平訳、新潮社『トーマス・マン全集6』)
     岡田暁生『 西洋音楽史ー「クラシック」の黄昏』(中央公論新社)

今日のことば(18) ― 伊藤博文

2005-11-05 00:05:41 | Quotation
「満州は決して我国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でも無い所に我が主権の行なはるる道理は無いし、従つて拓殖務省のやうなものを新設して、事務を取扱はしむる必要もない。満州行政の責任は宜しく之を清国政府に負担せしめねばならない」

伊藤博文(1841 - 1909)
説明する必要もないであろう。明治期の政治家であり、明治18(1885)年に成立した内閣制度での初代総理である。

上記の引用は、日露戦争後の明治39(1906)年に開催された、満州問題に関する協議会における発言である。当時、伊藤は朝鮮統監の職にあった。
このような彼の発言に対して、戦争中の占領状態を続け、軍政を継続しようとしていたのが、児玉源太郎参謀総長を中心とする軍部である。
会議の結果、伊藤の主張が通り、軍政は廃止され、満州に関しては、通常の外交ルートによる清国との交渉が行われるようになる。

しかし、軍部は依然として、その後も満州侵出を図ろうし、一説によれば、目の上のたんこぶである伊藤を実力をもって排除しようと、謀略による暗殺事件を起こしたという。

参考資料 上垣外憲一『暗殺・伊藤博文』(筑摩書房)

今日のことば(17) ― 勝 小吉

2005-11-04 00:00:05 | Quotation
「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもう。故(ゆえ)に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能(よ)く不法もの、馬鹿者のいましめにするがいいぜ」
(『夢酔独言』)

勝 小吉(かつ・こきち。1802 - 50)
言わずと知れた、勝海舟の親父殿。本名は勝左衛門太郎惟寅。旗本男谷平蔵の妾腹の三男として生まれる。7歳にして、貧乏御家人勝家の養子となる。生涯、小普請組(無役・特に役職のない幕臣)の御家人として、市井の無頼漢たちに交わり生活を送る。37歳で隠居、夢酔と号す。
『夢酔独言』は、隠居した小吉が書き留めた自叙伝。

上記の引用のように、口語を元にした語り口が、なんともユニークな一書。しかも、自らの送ってきた無頼な生活を、あけすけに語っているので、当時の江戸の一面(下層社会)をのぞかせてもくれる。

口語での記述という面から見ると、明治時代の言文一致の動きよりも100年近く古い。当時正式なものとされた〈漢字仮名混じり、文語崩し〉に不慣れだったところが、かえって面白い文体を生んでいる。
前に触れた海舟の『氷川清話』が、聞き書きだったことから、彼の語り口が分かるのと同様。父子両者の語り口を比較すると、興味深い点も多々あることだろう(江戸時代後期の江戸下町方言をベースにしているのは、両者共通)。

参考資料 勝部真長編、勝小吉『夢酔独言他』(平凡社)

今日のことば(16) ― 加藤友三郎

2005-11-03 00:02:53 | Quotation
「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。(中略)平たくいえば、金がなければ戦争はできぬということなり」
(旧海軍記録文書)

加藤友三郎(1861 - 1923)
海軍軍人、政治家。広島藩士の息子として広島に生まれる。海軍兵学校7期卒業。日清戦争時には巡洋艦〈吉野〉砲術長として、日露戦争時には連合艦隊参謀長として戦艦〈三笠〉に乗組み、戦闘に参加。
日露戦争後は、第一艦隊司令長官、海軍大臣を務める。大臣在任中に、戦艦8隻、巡洋艦8隻の〈八八艦隊〉の予算獲得に努める。これにより、国防費が国家予算の3割を超え、数年後には4割を超過する見込みだった。
大正10(1921)年、軍縮会議に海軍全権として出席。〈八八艦隊〉の計画を葬ることになる海軍軍備制限条約(ワシントン条約)締結に賛成する。

上記のことばは、この会議の直後に加藤が言ったことば。
「軍備競争は国家的財政破綻をきたし、とうてい総力戦に耐えないことになる」
との趣旨である。
なお、この文書の後段には、
「結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。」
とある。

ワシントン条約締結(締結は大正11年2月)により、国防費は2割台に激減し、国家財政の危機は回避された。
大正11(1922)年6月、加藤は総理大臣となり、海軍軍縮、シベリア撤兵を実行したが、在任中に病死した。

『日本海軍史』に曰く、
「ワシントン軍縮会議はまさに『天佑』だったと言えよう」
と。

参考資料 半藤一利、横山恵一ほか『歴代海軍大将全覧』(中央公論新社)

今日のことば(15) ― 陸奥宗光

2005-11-02 00:01:47 | Quotation
「わが国民の熱情は、諸事往々主観的判断のみに出で、毫も客観的考察をいれず、ただ内を主とし、外を観ず。進んで止ることを知らざる形勢なり。」
(『蹇蹇録(けんけんろく)』

陸奥宗光(1844 - 97)
紀州藩士の息子として和歌山に生まれる。伊達小二郎、陸奥陽之助とも称する。
神戸海軍塾で海舟に学び、1867(慶応3)年には海援隊に加わり、坂本龍馬、桂小五郎、伊藤俊輔(博文)とも交友を結ぶ。
当時の陸奥は、海舟の『氷川清話』では「うそつきの小二郎」とさんざんな言われようで、完全な小僧扱いされている。
明治維新後は、官界で活躍したが、西南戦争時に挙兵の密謀を行ったとして禁獄に処せられる。
このように、一癖も二癖もある、山っ気の多い人物であるが、見るべきものは見ていると評価せざるを得ない(たとえエリートによる民衆観の臭いはあったとしても)。

上記の発言は、「陸奥外交」によって引き起こした日清戦争後の「三国干渉」に際してのことば。
彼は、外務大臣として、下関条約はそのままとして、別個の条約として遼東半島を清国に還付すべき、との意見を貫いた。これに対して、当時の日本国民は「三国干渉」に怒り、ロシアへの敵愾心を高めた。正しく「進んで止ることを知らざる形勢」だったのである。
これが、国民世論を日露戦争へと導くことになる。

*「『蹇蹇録』は、明治期に外務大臣をつとめた陸奥宗光が記した著作です。 内容は、日本帝国の外交の舞台裏、とりわけ明治27年(1894年)から明治28年(1895年)の日清戦争と三国干渉に関する真相をまとめたものです。」(「国立公文書館 アジア歴史資料センター」HPより)

参考資料 猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へ』(中央公論社)

今日のことば(14) ― 石橋湛山

2005-11-01 00:12:18 | Quotation
「政治家も軍人も新聞記者も異口同音に、我が軍備は決して他国を侵略する目的ではないという。勿論そうあらねばならぬはずである。我輩もまたまさに、我が軍備は他国を侵略する目的で蓄えられておろうとは思わない。しかしながら我輩の常にこの点において疑問とするのは、既に他国を侵略する目的でないとすれば、他国から侵略せらるる虞れのない限り、我国は軍備を整うる必要はないはずだが、一体何国から我が国は侵略せらるる虞れがあるのかということである」
(「大日本主義の幻想」、「東洋経済新報」1921年7月30日号)

石橋湛山(1884 - 1973)
早稲田大学文学部卒業後、明治44(1911)年、東洋経済新報社に入社。「東洋時報」から「東洋経済新報」に移り社説を担当した。上記の文章を書いた時、湛山36歳であった。
自由主義の立場に立った湛山は、軍国主義への道をひた走る軍部と対立した。昭和16(1941)年、東洋経済新報社社長に就任するが、軍部との妥協を排し、戦争中も持論を貫く。
戦後の昭和31(1956)年には、岸信介を自民党総裁選で破り、総理大臣となるが、病気のため2か月で辞職した。

さて、今日この文章を読んで思うこと1つ。
「一体何国から我が国は侵略せらるる虞れがあるのか」
との湛山の疑問に、明確に答えられる向きはあるのだろうか?

参考資料 半藤一利『戦う石橋湛山』(東京経済新報社)
     佐高 信『石原莞爾 その虚飾』(講談社)

今日のことば(13) ― 勝海舟

2005-10-31 00:00:17 | Quotation
「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。(中略)今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらいのものサ。」
(『氷川清話』)

勝海舟(1823 - 99)
人物の説明は必要もあるまい。
しいて解説するなら、明治維新後の海舟のことであろう。
戊辰戦争後、徳川家の駿府移住に従い静岡住いをしていた海舟は、新政府に呼び出され、海軍大輔、海軍卿兼参議などの官職に就く。
しかし、西南戦争での西郷の自刃を契機に、官職を退き、赤坂元氷川町(現在の港区赤坂六丁目)の自邸で、隠居生活を送る。
海舟の持論は、日清韓三国提携論であり、外債反対論であったから、日清戦争には大反対。上記のような発言になったわけである。

ちなみに、同趣旨の、次のような漢詩も作っている(読み下しは、半藤著による)。
 「隣国兵を交える日 その軍さらに名なし 憐れむべし鶏林の肉 割きてもって魯英に与う」(「鶏林」は朝鮮半島のこと。魯はロシア、英はイギリス)

『氷川清話』は、晩年の海舟がその自邸で、歯に衣着せず語った辛辣な人物評、痛烈な時局批判」を、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らが聞き書きしたもの。

参考資料 勝海舟『氷川清話』(江藤淳、松浦玲編、講談社)
     半藤一利『それからの海舟』(筑摩書房)

今日のことば(12) ― P. カザルス

2005-10-30 00:00:20 | Quotation
「私の考えでは、人はもっぱらバッハの宗教的な面に傾倒しすぎている。(中略)もちろんこの巨匠は心から宗教的な精神の持主であって、受難曲や聖歌のなかに、彼はこの感情をもっとも完全で壮麗なかたちに表現しているのだが、私は霊感が彼の作品のすべてではないと主張するのだ。
 私にとっては、バッハはすべての高貴な感情を音楽に移す必然性を感じた詩人なのだ。」

(『カザルスとの対話』)

P. カザルス(Pablo Casals. 1876 - 1973)
スペイン、カタロニア生れのチェリスト。11歳でチェロへの道を志し、バルセロナ市立音楽院に学ぶ。13歳の時に、スペインを訪れたサン-サーンスと出会い、チェロ協奏曲の独奏部分を演奏して、作曲者を感動させたというエピソードがある。
1939年にスペイン内戦が勃発。反フランコ、反ファシストのカザルスは、祖国を去りフランスに亡命する。1945年、第二次世界大戦が終わり、演奏活動を再開するが、各国政府がフランコ独裁政権を容認する政策をとることに反撥、同年11月13日の演奏会を最後にして、演奏活動の停止を宣言。
1950年からはカザルスを音楽監督とするプラド音楽祭が開催されるが、1955年頃からは本拠を母の故郷、プエルト・リコに移し、1959年からは指揮活動を再開する。
1971年にはニュ―・ヨークの国連本部で演奏会を開き、アンコールで初めて『鳥の歌』を演奏する。以後、これが、カザルスのテーマ曲のようになる。
1973年、プエルト・リコの病院で、亡命生活のまま世を去った。

『カザルスとの対話』"Conversations avec Pablo Casals" は、カザルスと親交のあったホセ・マリア・コレドールが、フランスの片田舎にカザルスを訪れて交わした対話録。この巨匠の演奏家・作曲家としての波乱に満ちた足跡、バッハ、ベートーヴェンからワーグナー、現代音楽にいたるまでの彼の音楽観が淡々と語られている。

参考資料 コレドール、佐藤良雄訳『カザルスとの対話』(白水社)

今日のことば(11) ― 桐生政次(悠々)

2005-10-29 00:07:45 | Quotation
「小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎居候も、唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。」
(「他山の石廃刊の辞」)

桐生政次(悠々)(きりゅう・まさつぐ(ゆうゆう)。 1873 - 1941)
本名は政次、悠々は号。金沢生れのジャーナリスト。28歳の時に入社した「下野新聞」を始め、「大阪毎日新聞」「大阪朝日新聞」「信濃毎日新聞」で論説記者となる。明治末期に「信濃毎日新聞」の主筆となり大胆な論説を書くも、経営陣と対立、「新愛知」に転ずる。昭和3(1928)年、ふたたび「信濃毎日新聞」主筆となる。昭和8(1933)年、陸軍関東防空演習に際して、「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」という題の社説で、
「敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落とすこと能わず、その中の二、三のものは、自然に我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。
(中略)断じて敵機を我領土の上空に出現せしめてはならない。
(中略)こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、又如何に度々それが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう」
と正論を述べたが、陸軍は激怒、信濃毎日新聞に圧力を掛けた。桐生は、社に迷惑を掛けるのを良しとせず、自ら身を引き、昭和9(1934)年から名古屋で「他山の石」という個人雑誌を発行する。
「他山の石」は、内務省により度重なる発禁・削除処分を受け、ついに昭和16(1941)年、廃刊を決意する。その際、読者に送った最後のメッセージが上記の文章である。

参考資料 保阪正康『昭和史の謎』(朝日新聞社)
     奥住喜重、早乙女勝元『東京を爆撃せよ』(三省堂)