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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(110) ― 横井小楠

2006-03-19 03:32:08 | Quotation
  尭舜孔子の道を明らかにし
  西洋機器の術を尽くす
  何ぞ富国に止(とど)まらん
  何ぞ強兵に止まらん
  大儀を四海に布(し)かんのみ

 (甥の左平太・大平を渡米させた際に与えたことば)

横井小楠(よこい・しょうなん、1809 - 69)
幕末維新期の論策家。熊本藩士大平の二男として生まれる。通称は平四郎、別号は沼山。1839(天保10)年江戸に遊学、翌年帰藩後は藩校時習館の保守的な学風を批判、長岡監物、元田永孚らと実学党をつくる。1858(安政5)年、福井藩に招かれ政治顧問となる。1862(文久2)年、政事総裁職となった福井藩前藩主・松平慶永(春嶽)を助け活躍。明治新政府の参与に起用されたが、1869(明治2)年、血統世襲否定論を天皇に当てはめるのではないかと疑われて、京で暗殺される。

小楠は「儒教原理主義者」と呼んでもよいであろう。
つまり、江戸時代に幕藩体制の教学として歪曲・矮小化された儒教ではなく、四書に基ずく正しい理解・解釈を行なう儒教を実践しようとするのである(それを「実学」と称する。「尭舜孔子の道を明らかに」すること)。

それを行なうことにより、幕藩体制による官僚支配は覆る。
なぜなら、元来の儒教によれば、世襲武士は支配階級とはならず、藩主や将軍も徳のない人物は最高支配者とはならないからである。
「藩主と家臣団とは、儒教の政治的理想に従って人民に奉仕する政治運動集団になる。その運動の先頭に立って指揮できないような藩主は藩主としての資格がないのだからクビにして、政治的道徳的に最もすぐれた人物を藩主にする必要がある。(中略)武士を、元来の儒教でいう『士』に切換え、その切換え能力の無い輩は廃業させるのである。」(松浦玲『明治維新私論』)

このような原理は、ペリー来航への対応問題にも適応される。
小楠は、開国/攘夷という選択肢を採らず、有道/無道という考えを選ぶ。
「儒教国家の場合、まず第一に判断すべきは、相手の言い分が道理か道理でないかである。道理なら受け入れ、非道なら拒絶する。拒絶するために武力が必要なことも多いから武備を怠ってはならないけれども、第一義的なことは、相手の要求について道理にもとづく判断を下すことである。」(松浦、前掲書)

ところが、実際の幕府の対応は、「相手が弱いとみれば、要求を聞きもしないで攘ち払う。強そうでとてもかなわないとみれば、要求の是非を判断することを初めから放棄して屈伏し、国内向けには、追い払うために武備を強化しなければならないという政策を打ち出」すというものであった。

そしてまた、反幕府側も、「攘夷論でつっぱしって、攘夷が戦力的に不可能とわかると百八十度転換して相手側の文化を全面的に採り入れる」ということになる。
明治政府の行なった政策は、まさしくこの路線である。

この路線が、アジアで帝国主義的な(覇道的な)政策を進めることにもなり(「植民地主義は西欧に学んだだけだ」という理由付け)、アジア・太平洋戦争にまでつながってくる。

そこには、小楠の路線に先にあった「中国・朝鮮との連帯による、アジア型近代」(「大儀(=大義に同じ)を四海に布(し)かん」)などというものは、微塵も見えてはこない。
あったのは、西欧型近代を基準(「富国強兵」)にして「遅れた隣国」から離れる「脱亜論」だけだったのである。

参考資料 松浦玲『横井小楠』(朝日新聞社)
     松浦玲『明治維新私論 アジア型近代の模索』(現代評論社)

今日のことば(109) ― J. ゲイ

2006-03-16 10:14:04 | Quotation
 "Life is a jest, and all things show it.
  I thought so once, and now I know it."
(人の世は戯れにこそ、世のすべてをば示せり。 
 然(しか)は我思いいたれど、今は知る真(まこと)なりきと。)

(J. ゲイの墓碑銘)

J. ゲイ(John Gay, 1685 - 1732)
イギリスの劇作家、詩人。代表作『乞食オペラ』"The Beggar's Opera" (1728年初演) は、ブレヒトの『三文オペラ』"Die Dreigroschenoper"の原作になった。この作品は、サー・ロバート・ウォルポールの腐敗政治に対する風刺を意図したもので、主人公はロンドンの泥棒稼業の支配者ビーチャム。

ブレヒトは秘書の勧めによって、1920年から23年にかけてロンドンでリバイバル上演され人気を得ていた J. ゲイの『乞食オペラ』を翻案することになった。
当初、音楽も原作に付いていたヨハン・クリストフ・ペプシュのものを編曲する予定だったが、前衛作曲家のクルト・ヴァイルが手掛けることになり、まったく新しい意味をもった音楽劇(ミュージカル)となっていった。

ヴァイルの師であるブゾーニは、彼にこう尋ねたという。
「いったい何になろうと言うのかね、貧乏人どものためのヴェルディかね?」
ヴァイル答えて曰く、
「それがそんなに悪いことなのでしょうか?」

1928年8月31日、初演の幕が上がった。
「厩のシーンまでは、客席は冷淡で、無関心で、まるでこのドラマが確実に〈空振り〉に終ることを見越しているかのような感じでした。やがて『大砲の歌』のあとで、信じられないような叫びが湧き起こったのです。それからあとでは、観客が私たちの側に立っているのだということは、もはや誰の眼から見ても明らかになったのです。それはまるで酔っているかのような感激でした。」
(ロッテ・レーニャ。初演でジェニーの役を演じる。後にヴァイルの妻となる)

参考資料 ジョン・ゲイ、海保真夫訳『乞食オペラ』(法政大学出版局)
     ベルトルト・ブレヒト、岩淵達治訳『三文オペラ』(岩波書店)
     THE BEGGAR'S OPERA Original Songs & airs (harmonia mundi

今日のことば(108) ― 池上嘉彦

2006-03-15 08:49:15 | Quotation
「新しいことば遣いも、ある表現があることを意味している(あるいは、意味しているように解せる)という限りは、やはり〈記号〉であることに変わりはない。しかし、それは、すでに定まった内容を慣習に従って何かが表しているというような〈符号〉ではない。むしろ、新しい〈記号〉が生み出され、その〈記号〉によって捉えられた新しい内容がわれわれの世界に新たな知見として加えられる。それは一つの創造的な営み――神学的な意味とは別の意味での〈言語創造〉の営みである。」
(『記号論への招待』)

池上嘉彦(いけがみ・よしひこ、1934 - )
言語学者、英語学者。昭和女子大学大学院教授・東京大学名誉教授。京都市生まれ。1961(昭和36)年東京大学大学院博士課程修了。主な著書に『ことばの詩学』『意味論』『意味の世界』『詩学と文化記号論』『「する」と「なる」の言語学』『英詩の文法」などのほか、エーコ『記号論』ウォーフ『言語、思考、現実』などの訳書がある。

「もの」が生まれるから「ことば」が生まれるのか、それとも、「ことば」が生まれたから「もの」が生じるのか?
ことが具体的事物の場合においても、「ことば」が生まれたがために、「もの」の外縁が決まってくる。名づける前には、アモルフな「もの」も、名前が生じてカッキリと輪郭を生む。

「劇画」なる語が生まれる前は、「漫画」はあっても「劇画」は存在しなかった。
「空飛ぶ円盤」ということばが普及する以前、人びとは空中に円盤状の物体を見ることはなかった("Flying Saucer"という「ことば」も、目撃者はその飛び方を示しただけで、形状を指したものではない)。

つまりは、「ことば」が人間の思考(場合によっては視覚すら)を規定するのである。

具体的な事物の場合でもそうなのだから、話が抽象的なレベルになれば、一層その傾向は強まる。
過去の人は、「名前」(=「もの」に付けられた「ことば」)が、「内容」(=「ことば」によって示された「もの」の意味)と一致しないことを、「名分の乱れ」と称した。
ごく大まかに言ってしまえば、「名」が「体」を表していないものを、「名分の乱れ」とする。そこには、人間の思考が「ことば」によって間違った規定をされてしまうことへの慮りや虞れがある(「敗戦」を「終戦」、「占領軍」を「進駐軍」としたのは、明らかに事態の本質にそぐわない「名分の乱れ」であろう。今、仮に「占領軍」を「解放軍」と呼び替えてみれば、その本質を誤らせること大なことが良く分る)。

しかし、現代では「名分の乱れ」は日常茶飯事、ほとんどの広告は大なり小なりそうだと考えられる。
しかし、意識的に「名分の乱れ」を操作するものとしての、
 1. 「ネーム・コーリング」:攻撃したい対象に負のイメージを植えつけるようなレッテルを貼る。
 2. 「カード・スタッキング」:都合のよい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽する。
 3.「バンド・ワゴン」:大きな楽隊が人目をひくように、ある事柄が世の趨勢であるかのように喧伝する。
などの、プロパガンダの手法は、いかがなものであろうか。

少なくとも論争において、プロパガンダはルール違反だとするのは、小生の考えが「保守的」なのであろうか。

参考資料 池上嘉彦『記号論への招待』(岩波書店)

今日のことば(107) ― 小林秀雄

2006-03-14 08:53:11 | Quotation
「信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そのような知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。」
(『信ずることと知ること』)

小林秀雄(こばやし・ひでお、1902 - 83)
文藝評論家。東京神田生まれ。東京帝国大学文学部仏文科卒。1929(昭和4)年『様々なる意匠』で雑誌「改造」の懸賞論文に二席入賞(第一席は宮本顕示『〈敗北〉の文学』)、文藝評論家として認められる。著作には『志賀直哉』『私小説論』『ドストエフスキイの生活』『無常といふ事』『モオツァルト』『考へるヒント』『本居宣長』など多数。1967(昭和42)年文化勲章授章。

小生、小林秀雄のよい読者ではない。ましてや好きな作家でもない。
というのは、レトリックや啖呵で読ませるだけで、論理性が乏しく説得力がないからである。
その点は、内容が晦渋なのではなく、趣旨が曖昧なのだと思う。

けれども、『信ずることと知ること』などは、平易な表現であり、趣旨も取り易い。というのも、学生たちに実際に語ったことを筆記しているためだろう(1974年の語り)。

ベルクソンがどう言ったかはしらないが、科学的知識と信念とが違うことは、基本中の基本である。
それでもなお、科学的知識で語るべき内容に、信念的価値基準を持ち込む例がいかに多いことか(イデオロギーも、最終的には信念的価値基準に行きつく)。

それでは「歴史」とは、「知ること」か「信ずること」か。
小生は「歴史」は「知ること」と思うが、だれかが「歴史」を「信ずること」とするのなら、それは自由である。けれども、誰もが同じ信念的価値基準を持つようにすること=強制的に「信じさせる」こと、は、けっして自由ではない。
信念的価値基準は、他人に強制することはできないのだから。
「信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。」

参考資料 小林秀雄『考えるヒント3』(文藝春秋)

今日のことば(106) ― A. グラムシ

2006-03-12 10:36:27 | Quotation
「歴史の外にあり、人間の外にある客観性が存在するということは可能であるように思われるが、しかし、誰がそのような客観性について判断するのだろうか。誰がこの『宇宙そのものの見地』に立ち得るだろうか。このような見地とは何を意味するのか。これが、神の概念、まさしく知られざる神についての神秘思想における神の概念の残滓であるということは、極めて容易に主張し得るのだ。」(『教育原理の探求のために』)

A. グラムシ(Antonio Gramsci, 1891 - 1937)
イタリアの思想家。イタリア共産党創設者の1人。
「サルデーニャ島のアレス生まれ。トリノ大学文学部近代言語学科に入学。大学以来の友人にトリアッティがいる。
1913年、イタリア社会党トリノ支部に入党。1915年、イタリア社会党機関紙『アヴァンティ!』トリノ支部に入る。1919年、トリアッティ、タスカらとともに社会主義文化週刊紙「オルディネ=ヌオーヴォ」を発刊し、労働者による自主管理を軸とする工場評議会運動を展開。工場占拠闘争をはじめとするトリノの労働運動に積極的に参加。1921年、イタリア共産党の結成に加わり中央委員に選出。1922~23年まで共産党代表としてモスクワ滞在
翌1924年、下院議員に当選するが、1926年、ファシスト政権に逮捕され、20年4か月の禁固刑判決。この様な獄中生活の中で、グラムシの思索の大部分がなされた。1937年の釈放直後に死亡。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

今日のことば(105) ― O. フリードリク

2006-03-11 00:08:07 | Quotation
「大戦末期の数カ月間には、米戦略爆撃機の大編隊が連日ベルリンの上空に轟々たる爆音をとどろかせ、RAF(英空軍)もまた、夜ごとこの戦場に舞い戻ってきた。合計三六三回の爆撃はベルリンの中心部一〇平方マイルを破壊しつくし、市内一五〇万棟の建物中およそその三分の一をたたきつぶし、約一五万人の市民を殺戮し、あるいは重傷を負わせた。かつて一国の首都に対して行なわれた最も壊滅的な攻撃だったろうと思われるが、それでも一九四五年四月、空襲が終ると、それまでベルリンを包囲していたソ連軍が合計二万二〇〇〇門の途方もない数の大砲を移動させ、残っていた建物のすべてに対して、組織的な砲撃に取りかかった。」
(『洪水の前』)

O. フリードリク(Otto Friedrich, 1929 -1978)
ボストン生まれのアメリカ人ジャーナリスト。ハーヴァード大学で歴史を専攻、卒業後ヨーロッパに渡り、ドイツで「スターズ・アンド・ストライプス」の記者として働く。帰国後、「デイリー・ニュース」「ニーズウィーク」「サタデー・イヴニング・ポスト」で編集者を勤めたが、「サタデー・イヴニング・ポスト」の廃刊の過程を描いた『崩壊の十年』で注目を集める。"Going Crazy: A Personal Inquiry" (1976) "The End of the World: A History" (1982) "City of Nets: A Portrait of Hollywood in the 1940s" (1986) "Glenn Gould. A Life and Variations" (1990) "Olympia. Paris in the Age of Manet" (1992) "The Kingdom of Auschwitz"(1994) など著書多数。

第二次世界大戦は、今までには考えられなかったような、戦略爆撃を大きな特徴とする。

東京大空襲に代表されるような日本へのそれだけではなく、ドイツでもベルリン、その前にはドレスデンが、アメリカ軍・英国空軍によって大規模な空爆を受けた。
また、英国も、ロンドン、コヴェントリーなど、ドイツ空軍(「ルフトヴァッフェ」)による空襲を蒙っている。

第一次世界大戦で兵器として使用され始めた航空機は、ついには一つの都市を壊滅させるような爆弾を搭載するようになり、ヒロシマ、ナガサキの悲劇を生む。

「私の主題は戦争であり、戦争の悲しみである。詩はその悲しみの中にある。詩人の為しうる全てとは、警告を与えることにある」
というのは、B. ブリテン『戦争レクイム』のスコア冒頭に置かれた W. オーウェンのことばである。

そして、いまだに「空襲」をなくすことのできない我々にできることは、何なのであろうか。

参考資料 オットー・フリードリク、千葉雄一訳『洪水の前―ベルリンの1920年代』(新書館)

今日のことば(104) ― J. キーガン

2006-03-06 10:43:25 | Quotation
「もし戦争の起源を紀元前四〇〇〇年とするならば、その後五〇〇〇年の間に戦われた戦争の大部分は、名誉ある人間や高潔な戦士が加わる余地などは、ほとんどないものだった。(中略)実際には、彼ら(=騎士道精神を重んじる騎士たち)はみな、少なくとも数のうえでは、粗暴な一般の兵卒、愚鈍な徴用兵や荒くれた傭兵、獲物を狙って蹴散らし回る騎馬民の群れ、ロングシップを操る海賊などに圧倒されていたのである。」
(『戦争と人間の歴史』)

J. キーガン(John Keegan, 1934 - )
イギリスの軍事史家。ロンドン近郊のクラッパムで、アイルランド系カトリックの家に生まれる。ウィンブルドン・カレッジ、オックスフォード大学バリオル・カレッジを卒業。1960年から1986年まで、サンドハースト陸軍士官学校で教鞭をとる。
その後、デイリー・テレグラフ紙の軍事担当論説員として勤務。
『戦略の歴史 抹殺・征服技術の変遷』『戦争と人間の歴史』など、軍事史に関する著書多数。

キーガンの説く「戦争」に多少なりとも国際的なルールが生まれたのは、近代になってからのことで、大は「開戦法規」(jus ad bellum) から、小はジュネーヴ諸条約に至る国際法が整備されてから。

それ以前の戦争は、「リアリズム」の世界で、例えば「だまし討ちを無自覚に肯定する」(佐伯真一『戦場の精神史』)。「勝利」を最大の価値とする世界に、もし、倫理があったとしても、それは「戦場の倫理」であって、ヤクザの世界にもルールがあるのと同様である。

近代になってすら、国際的なルール違反は絶え間がない。
特に問題になるのは、非戦闘員の殺害であろう。
これは、戦前の日本陸軍刑法ですら(そして多くの国家における陸軍刑法においても)、犯罪とされてきた。ましてや、非戦闘員の大量殺戮においてをや。

「テロリズム」と国家の行なう暴力行為である「戦争」とを区別するものは、唯一「非戦闘員の殺害」を公然と認めているかどうかという一点のみと言っても過言ではない。
その違いすら曖昧になるようなら、もはや「テロリスト」と「軍人」とを区別するものはなくなるのだが。

参考資料 ジョン・キーガン『戦争と人間の歴史 人間はなぜ戦争をするのか?』(刀水書房)

今日のことば(103) ― 鶴見和子

2006-03-01 10:16:01 | Quotation
「マートンの図式と比べてみると、抵抗の類型として、反抗主義が、柳田*の著作の中には見られない。それは、日本の抵抗伝統の中に、反抗主義―革命伝統―が欠落しているということではない。むしろわたしは、柳田が、自分の守備範囲を、常民と日常性とに限定していたことからきていると考える。柳田は、ハレの場の抵抗よりも、そしてエリートによる抵抗よりもむしろ、ケの場の、そして大多数の常民が実際に日常生活の中で、これまでおこなってきた抵抗の原型をとりだそうとしたのである。そして、儀礼主義および隠遁主義が日本の常民の抵抗の原型であることを示したのである。」
(「社会変動のパラダイム」)
*柳田:柳田國男(→「今日のことば(21)」参照)

鶴見和子(つるみ・かずこ、1918 - )
社会学者。戦前期の政治家鶴見祐輔(つるみ・ゆうすけ、1885 - 1973) の子、評論家鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ、1922 - ) の姉。戦前・戦後にアメリカに留学、比較常民学の立場から日本土着の社会変動について研究。1969(昭和44)から長らく上智大学教授をつとめた。1995(平成7)年に南方熊楠賞、1999(平成11)年に朝日賞を受賞。一方、1995(平成7)年には脳出血で倒れ、左半身麻痺になりながらも、強靭な意志力で驚くべき回生を成し遂げ、 その過程で歌人としても名をなしている。

マートン(Robert King Merton, 1910 - 2003。アメリカの社会学者) の図式とは、「社会規範に対する個人の反応のタイプ」を5つに分類したもの。

(1)「同調」(価値においても、それを達成すべき制度化された手段においても同調)
(2)「革新」(価値において同調、制度化された手段において同調せず)
(3)「儀礼主義」(価値において同調せず、制度化された手段においてものみ同調)(4)「逃避(隠遁)主義」(価値においても、制度化された手段においても同調しない」
(5)「反抗」(戦って、価値においても、制度化された手段においても同調しない」

柳田は、「山人」(=先住民)がたどった「絶滅」への道筋を6つに分類している。
鶴見は、この柳田の分類をマートンのそれと合わせて考え合わせている。

特に、今問題にしたいのは「信仰」について。
柳田は、
「式内(延喜式)の古社が殆ど其名を喪失したやうに、力(つと)めてこの統一の勢力に迎合したらしいが、之と同時に農民の保守趣味から、新たな社の祭式信仰をも自分の兼て持つものに引付けた場合が少なくは無かったらしい。」(『山の人生』)
と述べている。
つまりは、マートン分類の「儀礼主義」を採ったわけである。

鶴見は、それを、
「おなじ『神道』という名でよばれながら、民間信仰としての神道は、国家神道とは内容が異なることを明快に指摘し、民間信仰としての神道を究めることに賭けた」
のが柳田民俗学の功績であるとする。

これは「神道」だけではなく、新しい考え方が、この列島に入ったきた際に、どのような変容を被るか、という問題にもつながってくるようだ(「隠れキリシタン」におけるキリスト教の変容、民主主義の土着化、など)。

参考資料 鶴見和子、市井三郎編『思想の冒険』(筑摩書房)

今日のことば(102) ― ナポレオン三世

2006-02-28 10:07:21 | Quotation
「皇帝(ナポレオン一世)がかくも大きな規模で行わせた公共事業は、たんに国内の繁栄の主要な原因となったばかりか、大きな社会的進歩をもたらした。すなわち、こうした公共事業は、人と物とのコミュニケーションを促すという点で、三つの大きな利点を持つ。」
(『ナポレオン的観念』)

ナポレオン三世 (Napoleon Trois。本名:Charles Louis-Napoleon Bonaparte、1840 - 1914。在位:1852 - 70)
ナポレオン・ボナパルトの弟、ルイ・ボナパルトの第3子。
イギリスで亡命生活を送っていたが、二月革命に乗じて帰国、議員を経て第二共和国の大統領に就任、さらに人民投票で皇帝に就任、第二帝政を開始。産業振興やパリ近代化などに尽力。
クリミア戦争などの対外政策で人気獲得に務めたが、1864年~1867年のメキシコ干渉に失敗したことで威信を失墜させ、さらに1870年にビスマルクの罠にかかって普仏戦争を開始してしまい、自ら捕虜となる大敗を喫して帝政も崩壊した。(『はてなダイアリー』より)

従来のナポレオン三世の評価は、「バカで間抜け」とか「ゴロツキ」「軍事独裁のファシスト」といったもので、まことに芳しからざるものだった。
「すなわち、ナポレオンの輝かしい栄光をなぞろうとした凡庸な甥が陰謀とクー-デタで権力を握り、暴力と金で政治・経済を20年間にわたって支配したが、最後に体制の立て直しを図ろうとして失敗し、おまけに愚かにもビスマルクの策にはまって普仏戦争に突入して、セダン(スダン)でプロシャ軍の捕虜となって失脚した。
ようするに、ナポレオン三世は偉大なるナポレオンの出来の悪いファルスしか演じることはできなかったというものである。」(鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』)

しかし、サン-シモン主義の社会改良家でもあった、というのが近年の再評価。
「この意味で、ナポレオン三世は、それまでのどの君主とも異なる、世界で最初のイデオロギー的な君主であった。すなわち、彼は、民衆生活を向上させるために社会全体の変革を目指すという一種の世界観、すなわちイデオロギーを持つ君主であり、かつ、そのために自ら率先して政治を行う政治家だったのである。」(鹿島、前掲書)

上記『ナポレオン的観念』は、公共事業の3つのメリットを、次のように列挙する。
「その第一は、職のない人々を雇い入れることにより、貧困階級の救いにつながる。」
「第二は、新しい道路や運河を開通させて土地の価値を増し、あらゆる物品の流通を促すことで、農業や鉱工業や商業を振興させる。」
「第三は、地方的な考え方を破壊し、地方相互あるいは国家相互を隔てている障壁を崩す。」

徳川慶喜の政権構想には、ナポレオン三世の〈第2帝政〉がモデルにあったようだが、このような社会改良的な視点はあったのだろうか?

参考資料 鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』(講談社)

今日のことば(101) ― A. T. マハン

2006-02-27 07:28:41 | Quotation
「大海軍の建造がまずアメリカにとって重要だ、二番目には世界各地に植民地を獲得する必要がある。三番目には、そのために海軍が世界各地に軍事基地を設けなければならない。それを踏まえてアメリカは世界貿易に雄飛すべきであり、その対象はとりわけて中国市場に目を向けなければならない。」
(『海上権力史論』)

A. T. マハン (Alfred Thayer Mahan, 1840 - 1914)
父親の意思で、セント・ジェームズ神学校からコロンビア大学に学び、宗教者としての教育を受ける。しかし、1856年にアナポリス海軍兵学校へ入学、2番の成績で卒業する。その後、海軍兵学校の教官や艦長などを歴任、海軍大学校の校長もつとめる。

『海上権力史論』(原題 "The Influence of Sea Power upon History, 1660-1783" 『海の支配力(シー・パワー)の歴史に及ぼす影響』) は、海軍大学校での講義をまとめたもので、1890年の刊行。

マハンからは、秋山真之(あきやま・さねゆき、1868 - 1918)がアメリカ留学当時に影響を受けたと言われるが、現在、本書は「主力艦(戦艦)の過大評価、固定観念化」として、ほとんど、その有効性を失っている。
けれども、19世紀後半のアメリカの戦略を考える場合には、史料としての価値がある。
特に、日本の開国に当り、ペリー艦隊にどのような意図があったのかを知る上では、避けて通れないであろう。

まず、考えねばならないのは、当時のアメリカの最大の関心は、中国市場の開拓であり、日本は、石炭・水・食糧などの供給地として必要と見られていたということである(ペリー艦隊が、最短の太平洋横断ルートではなく、大西洋―インド洋経由で日本へやって来たことを想起せよ。当時、太平洋には燃料・物資の補給基地がなかったのである)。

その上で、幕末当時、日本が欧米列強によって植民地化される可能性を考えるべきであろう。
当時の人びとの主観を、今日のわれわれが踏襲する必要はないのである(アヘン戦争のショックによる危機感が、過剰な被害者意識を生み、それが東アジア諸国への侵略につながったのではないのか)。

参考資料  アルフレッド・T.マハン著、 井伊順彦訳、戸高一成監訳 『マハン海軍戦略』(中央公論新社)