goo blog サービス終了のお知らせ 

一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(164) ―『戦争指揮官リンカーン―アメリカ大統領の戦争』

2007-07-12 00:11:37 | Book Review
南北戦争の死者は、推定で北軍36万人、南軍26万人、計62万人にも及んだ。
本書によれば、1860年当時の人口は約3,100万人(奴隷400万人を含む)。総人口の「50人に1人は戦争で死んだのである。」
ちなみに、第二次世界大戦での米軍の死者は405,399人、死亡率は0.3%であるから、南北戦争がいかに凄惨な戦争であったかが分るであろう。

その南北戦争は、著者によればアメリカの戦争の原型として捉えられるという。
「アメリカの戦争の原型とはなにかといえば、戦争のはじめ方、国民を戦争に向かわせる説得力や宣伝力、最高司令官である大統領の指導力、軍部の掌握、情報、通信、兵站、物量作戦、兵器の改良、戦闘のやり方、戦争に勝つために行われる敵の産業や資源の破壊、等々を指す。これらはすべて、試行錯誤を繰りかえしながら、南北戦争で本格的に実験され、検証された。」

そして、近代戦争で重要な役割を果すことになった情報と通信との始まりを、この戦争でのモールス電信に見ている。
「情報の収集、情報の伝達、コミュニケーションの手段として、モールス電信は、あの広大な大陸で行われた南北戦争で決定的な役割を果たした。リンカーンは電信で戦争を行った、といってもいいのである。」

そして、忘れてはならないのは、この戦争によって、アメリカは「民主主義は怒りに燃えて戦う」(G. ケナン)という信仰が、アメリカの軍部、政治家のみならず、一般国民に至るまでその心理深くに焼き付いたということである。
現代でも、ブッシュ大統領は、次のように語っている。
「リンカーンは兵士たちに犠牲を求め死なせました。(中略)そして今日、同じ状況がアフガニスタンやイラクなどで起きており、同じ勇気がためされています。」(2005年4月19日「リンカーン博物館」開所式でのスピーチ。本書より再引用)

われわれが、本書によって南北戦争を振り返る意義は、このような「アメリカ人の頭のなかにたたきこまれている」「正義の戦争は必ず勝利する、いや、どんな犠牲をはらっても勝利しなければならない」とする信念を、歴史的事実の中に確認することであろう。

内田義雄
『戦争指揮官リンカーン―アメリカ大統領の戦争』
文春新書
定価:903円 (税込)
ISBN978-4166605620

最近の拾い読みから(163) ―『夕陽将軍―小説・石原莞爾』

2007-07-08 00:06:10 | Book Review
戦後六十数年経った今でも、石原莞爾を顕彰する人が少なからずいるようです。典型的な例が、福田和也『地ひらく―石原莞爾と昭和の夢』(文藝春秋刊)でしょう。
一方で、このような風潮に対してノンを突きつける人もいる。こちらの典型は、佐高信『石原莞爾―その虚飾』(講談社文庫)。

どちらも、その評価の基準となるのは、判定者の歴史観であり戦争観です。
例えば後者では、
「私にはいま、キッシンジャーと石原莞爾が重なって見えてならない。対中国戦争不拡大と東条英機との衝突によって、石原はあたかも平和主義者のように偶像視されている。しかし、満洲事変の火をつけ、それから十五年に亘る戦争の口火を切ったのは明らかに石原であり、その後いかに〈平和工作〉を進めたからといって、放火の罪は消えるものではない。」

しかし、それらの歴史的評価を別にして、さまざまな「伝説」を剥いだ上で、人間として見た場合、石原莞爾という存在は、なかなか興味深いことも確かなことです。

同じ陸軍軍人にしろ、東条英機や辻政信、牟田口廉也などには、小生、人間としての興味を持てません。
というのは、彼らは典型的な昭和の陸軍軍人であり、それにも増して軍事官僚であるからです。昭和の陸軍軍事官僚の行動パターンを決してはみださない東条英機などは、人間としての面白味などまるでありません。
また、辻や牟田口などは、戦前思想界における簑田胸喜を連想させる「狂気」の部分が、病的な偏執性を感じさせ、これもお近づきになりたくない。

その点、石原莞爾は、その欠点も含めて、人間存在として興味が持てるのはなぜでしょうか。

杉森が書いた本書は、長所・欠点を含め、総合的に石原を捉えようとしています。その意味で、「伝説」に加担することなく、かなり客観的な視点を持っている点に共感することができます。
そのような視点は、主人公たる石原だけではなく、外交分野での幣原喜重郎などへの評価にも現れています。

さて、著者が、石原の持つ最大の限界と判断しているものは、「文化」に対する無理解ということでしょう。
「石原が東条の祖父について述べるとき、能役者という職業を軽んずるかのような言い方をしているのは、彼の文化あるいは芸術、教養についての理解力の限界を示すものといっていいであろう。こういう理解力の狭さは、彼の最終戦争論などにもあらわれていて、彼は農工一体とか、簡素生活とか、生産や節約について熱心に語る割には、消費とか享楽とかについては冷淡にしか語っていないのである。結局、彼もまたすべて享楽は悪であり、贅沢は敵だとする古風な武士道徳の継承者だったといっていいので、彼の崇拝者が主として農村地帯に限られ、都会地にすくなかったのも、そのあらわれであろう。」
以上のような高級軍人特有の通弊(理由は、幼年学校→陸軍士官学校→陸軍大学校という純粋培養の教育システムにあり)はあるものの、石原独自の「頭の冴えと、着想の非凡と、横紙破りの性格」は、やはり人間的な魅力を形づくっていることは間違いないところでしょう。

杉森久英
『夕陽将軍―小説・石原莞爾』
河出文庫
定価:630円 (税込)
ISBN978-4309400174

最近の拾い読みから(162) ―『ユダヤ陰謀説の正体』

2007-06-25 15:31:58 | Book Review
この国ほど、ユダヤ人が少ないにもかかわらず、ユダヤ陰謀本が多量に作られている国は珍しいようです。
それはどのような原因によるものかを明らかにしたい、というのが本書での著者のねらいです。
「本書の目的は、ユダヤ人が数えるほどしかいない日本で奇妙に猖獗(しょうけつ)する反ユダヤ主義の消息を戦前から跡づけ、欧米の反ユダヤ主義の影響と日本人のユダヤ人に対する意識をあらためて問いなおすことである」

戦前はともかく、ここ近年の反ユダヤ主義とでもいうべき動きは、ことごとく欧米からの影響だある、というのが著者のまず指摘するところ。

旧聞に属しますが、雑誌「マルコポーロ」に「ナチ ガス室はなかった。」という記事が載り、ついには雑誌そのものの廃刊にまで追い込まれた、という事件がありました。

この記事そのものが、記事を書いた西岡某の独自な取材によるものではなく、その根拠自体が、ことごとく「欧米のサブカルチャーで猖獗している反ユダヤ主義の逐語的な受け売り」である、というのが著者の指摘。
いわゆる「リヴィジョナリスト(歴史修正主義者)」のホロコースト否定論が、輸入されたわけですな。

これに、「ファンダメンタリスト(聖書原理主義者)」系の反ユダヤ主義を合わせれば、ほぼ欧米の反ユダヤ主義の潮流が明らかになるようです。

そではなぜ、反ユダヤ主義(かつてナショナリズムの一つの現れでもあった。「ドレフュス事件」や、ロシアにおける「ポグロム」など)が、ここに至って、その勢力を強めてきたのか。

著者の意見によれば、
「情報・経済や文化のグローバル化が進行するなかで、これまで当然視されてきた国内の習慣にさまざまな変更が余儀なくされ、その結果人々の間に新たなストレスが生じ、ナショナリズムを養う腐葉土が堆積している。そして、ユダヤ人のコスモポリタン的性格にまつわる古典的な比喩が欧米でも日本でも新たな装いを凝らして動員されているというわけである。」
となります。
つまり、反ユダヤ主義が、ナショナリズムの一つの現れであることは、かつても現在も変わりないというのです。

ただ、ここに問題があります。
というのは、著者は「ドレフュス事件以降の文学と思想を現代ヨーロッパ社会の諸問題とのかかわりにおいて研究」しているそうなので、日本のナショナリズムとの関連については、本書でも少ないという傾向があります。
むしろ、欧米における資料的な紹介の部分(かなり詳細)を減らしても、その方面の記述を増やすことはできなかったのでしょうか。

松浦寛(まつうら・ひろし)
『ユダヤ陰謀説の正体』
ちくま新書
定価:693円 (税込)
ISBN978-4480058232

黒須紀一郎と「網野史観」「騎馬民族征服王朝説」など

2007-06-24 19:50:30 | Book Review
「網野(善彦)史観」が隆慶一郎に大きな影響を与えたのは、よく知られています。
本ブログでも「ビルドゥングスロマンとして『吉原御免状』を読む。【その2】」という記事で、その辺のことをご紹介しています。

その後も、「網野史観」は、何人かの作家に示唆を与えているようですが、最近読んでものだと、黒須紀一郎の書いたものに明らかな影響が見られます。
特に戦国ものだと、隆慶一郎の影響なのか、それとも「網野史観」によるものなのかが、判然としないほどの内容になっています。
例えば、『鉢屋秀吉』などは、秀吉が「道々の輩(ともがら)」であり、そのつながりを通じて、さまざまに成果を上げていく、というストーリー。

それでは、黒須紀一郎のオリジナリティはないのか、といえば、そうではありません。
この作家独自なものは、戦国ものではなく、古代ものに如実に現れています。
例えば、『役小角』『覇王不比等』などでしょう。

そこでストーリーの背後に使われている概念は、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」。
「騎馬民族征服王朝説」は、例えば豊田有恒などが、かなり早くから作品に描いてきました(『親魏倭王・卑弥呼』など)。

さて、黒須作品は、それらの考え方に影響を受け、また古代の東アジア情勢と日本の支配者に関しては、小林惠子『興亡古代史―東アジアの覇権争奪1000年』風の説を基にしているようです。

この辺り、松岡正剛のコメントによれば、
「小説ではあるが、著者の歴史上の仮説をかたちにするために書かれたとおぼしい。
 この小説の仮説はいろいろ多岐にわたっているが、根幹となっているのは、やはり天武が朝鮮系で、不比等がその一族だったかもしれないというものである。」(「松岡正剛の千夜千冊『埋もれた巨像』上山春平」)
となります。

まあ、小説=フィクションの世界ですから、トンデモ説でも面白くて、説得力があれば、それで十分なんですけどね。
問題があるとすれば、それをノン・フィクションのように受けとってしまう読者の方でしょう。

黒須紀一郎(くろす・きいちろう)
『覇王不比等』第一部 鎌足の謎
作品社
定価:各 840 円 (税込)
ISBN9784878934759

最近の拾い読みから(161) ―『歌舞伎という宇宙―私の古典鑑賞』補遺

2007-06-20 03:42:58 | Book Review
前回、渡辺保『歌舞伎という宇宙―私の古典鑑賞』をお勧めしましたが、これ傑作といっても過言ではないんじゃないかしら。

それでは、なぜ傑作かという理由を。

その1は、「あとがきに代えて―または歌舞伎の見方」にあるように、歌舞伎の本には珍しく「理性的な見方」をしているから(多くの書物は「感性的な見方」をしている)。
「この本は、その二つの見方のうち、理性的な見方を意識的に構築したものである。なぜそうしたかといえば、歌舞伎というものを、もう一度演劇として裸のまま見直したいというつよい欲求が、私のなかにあったからである。この欲求が私にうまれたのは、歌舞伎を含めて演劇というものは一つだという考え方があったからだ。(中略)私にはその(歌舞伎の)特殊性をみとめつつも、歌舞伎を演劇一般のなかに位置づけることが是非とも必要に思えた。そうするためには、歌舞伎の普遍的な側面――人間のドラマという側面を見なければならない。しかし、歌舞伎の人間の姿はその見事な様式のなかに埋没してしまっている。」

その2は、文章がなかなかよろしいこと。
本ブログでも、渡辺保の作物(さくぶつ)を、『千本桜―花のない神話』と『歌舞伎―過剰なる記号の森』と2度ほど取り上げてきましたが、この2冊では、その文章に今一つ感心しなかった。
しかし、この歌舞伎作品評論集には、なかなかと思わせる文章が、結構あります。

分りやすい例として、瀬川如皐の『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』の項目を挙げておきましょう。
「与三郎は、その女のことをはじめ人の話できいた。
深川の芸者富吉が落籍(ひか)されて土地の親分の妾になっているという。与三郎は富吉なら知っていると思った。深川ではわりと名の通った妓(おんな)だし、一、二度は座敷で出逢っているかも知れない。別に馴染(なじみ)の女という程ではないが、知らぬ仲でもない。木更津のようなところへ来ていると滅多矢鱈(めったやたら)に江戸の人間がなつかしいから、富吉にも一度折があったら逢ってみたい、逢って江戸の色街の遊びの話でもしてみたい。そう思ったが、別にそれだけのことであった。それからしばらくあとに、その女に出逢い、そのために自分の人生が急転直下、破滅に向かうほどのことがおきようとは想像もしなかった。」
ストーリーの紹介と同時に、「普遍的な側面――人間のドラマという側面」を表に出した表現になっていることに注意していただきたい。けっして、江戸時代に特殊な心理などは、そこにはありません。

というような理由から、小生は、本書を「傑作」と評価しているのであります。

最近の拾い読みから(160) ―『歌舞伎という宇宙―私の古典鑑賞』

2007-06-19 08:55:43 | Book Review
著者による、歌舞伎の原テクスト(Ur-text) の「読み」を示したのが、本書です。

ですから、いかなる名優の演技でも、原テクストの解釈が間違っていると思われた場合には、解釈の方を採る、という正攻法で迫ってきます。その演技と解釈とのせめぎ合いが、なかなかスリリング。

というのも、著者は、今日の歌舞伎に対して、
「もう一度歌舞伎は、原曲にかえって、そこに生きている人間や、人間の劇的なシチュエーションを再発見する必要がある」
と強く想っているからです。

したがって、取り上げられる作品は、ほとんどが「丸本歌舞伎」(=「義太夫狂言」。人形浄瑠璃のための戯曲を歌舞伎化したもの)。
つまり、著者は、歌舞伎化によって失われた原テクスト(=原戯曲)の「核」がある、という認識に立っているともいえましょう(人間が演技することとともに、時代背景の違いもある)。

『恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)』の例。
由留木家の調姫が、政略結婚のための東下りをいやがる「場」は、浄瑠璃では「由留木家の玄関先に近いところ」なのに対して、歌舞伎では、ほとんどの場合「輿入れ道中の途次、水口駅の宿舎の玄関先」なのです。
これについて、5代目の歌右衛門の藝談では、
「この宿屋の玄関口の方が本当なので、私は大抵この方にしました。(中略)その時の狂言の並べ方で、金襖物の必要な場合は、由留木家の奥座敷にしても宜しいので、私も二三度この場面で演じたことがあります。」
とあるそうです。
けれども、著者によれば、この歌舞伎役者のいい加減さはとんでもないことで、
「浄瑠璃を書いた近松は、いい加減に場所を設定したのではないので、場所が違えば、当然ドラマの内容も違ってくる。ちょっとした、しかし重要な見落しが、そこにあるので、それを『狂言の並べ方』なぞで解決されては、たまったものではない。」
となります。
「浄瑠璃でいくと、調姫が東下りをいやがるのは、知らない土地へ行くのがいやだということのほかに、父や母とわかれるのがいやどということがふくまれている。いざ出発の間際になって、十一歳の子供の心を別離のつらさがひきさいたのである。水口駅まで来て、急にホームシックにかかったのではなく、出発の別れが、つらい。由留木家が舞台だから、当然、奥には父母がいるので、だからこそ、彼女の機嫌がなおると奥へ入って『ま一度大殿様お袋様とお盃』ということになる。滋野井と三吉の子別れが演じられるのは、この間であって、滋野井と三吉の子別れの舞台の背後では、〈もう一つの子別れ〉が進行しているのである。(中略)実は、この〈もう一つの子別れ〉の方が、滋野井・三吉の場合よりも、もっと残酷である。」
「この〈子別れ〉の二重構造が、近松の発明したドラマの主題である。」
「ところが、旅行の途中の水口駅旅館となると(中略)〈もう一つの子別れ〉は、当然なくなってしまう。〈もう一つの子別れ〉がなくなれば、ドラマの主題は半分失われてしまうのだが、それでもどっちでもいいというのだから、要するに、主題そのものがわかっていないということであろう。この問題がわからなければ、由留木の奥座敷にしたところで、たいして意味がない。」
というような正攻法で、歌舞伎役者の下手な演出演技による、原テキストの破壊を痛烈に批判するのです(もちろん、解釈を深めている場合には、褒めている)。

もっと分りやすい例だと、『妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の「雛渡し」(舞台正面の吉野川を、雛鳥の首とともに遺品の雛人形が渡って行く場面)。
「9代目団十郎は、こんな急流では、流したものが真横に背山に到着するわけがないといって、定高の遠見を出してわざわざ上流から流したという。余計なことである。」

近代リアリズムを、安易に歌舞伎に取り入れるのではなく、今日でも通用する「そこに生きている人間や、人間の劇的なシチュエーション」を再発見する、という著者の意図に納得するところ大であります。

あらすじ紹介ではないので、歌舞伎初心者の方には、難しい書かもしれませんが、歌舞伎を見慣れた方には一読をお勧めします。

渡辺保(わたなべ・たもつ)
『歌舞伎という宇宙―私の古典鑑賞』
筑摩書房
定価:2,314円 (税込)
ISBN978-4480871848

最近の拾い読みから(159) ―『中村勘三郎楽屋ばなし』

2007-06-17 02:01:40 | Book Review
17代目中村勘三郎の聞き書きです(知っている人も多いと思いますが、現在の18代目の父親です)。
ですから、生い立ちあり、藝談あり、その他、歌舞伎関係のさまざまな種類の内容が、愛嬌のある、例のあの声で蘇ってくるような気がします。

話題で一番多いのが、6代目の尾上菊五郎と、彼と伴に「菊吉時代」をつくった初代中村吉右衛門のこと。
というのは、勘三郎にとって、菊五郎は岳父、吉右衛門は異母兄に当たるからです。

菊五郎と吉右衛門とは、対照的な性格だったようで、本書には、
「何によらず、二人は正反対でした。
親父さん(=菊五郎)は声はよくなかった。兄(=吉右衛門)は名調子と言われた人でしょう。
親父さんは太ってて、兄はやせている。
親父さんは汗かかずで、兄は汗っかき。
踊りの名人と、踊らない役者。
軽妙洒脱と、謹厳実直……。」
と、その違いが描かれています。
その点、血縁はないものの、勘三郎の陽気で、どこかお茶目な藝風は、菊五郎譲りという気がします(この藝風、今の勘三郎にも引き継がれているみたい)。

また、触れている分量は少ないのですが、15代目市村羽左衛門の藝風に触れた部分が小生には示唆的でした。
というのは、
「何しろ勘平やっても、勝頼やっても、勝元やっても、だいたいおんなじ、ってわけね。つまり何やっても市村羽左衛門、だったんだね。それでお客は大満足なんだからすごいよね。」
という藝で、これはカラヤンの指揮振りにぴったりの評価じゃないか、と思ったからですね。やはり、お客さんを相手にする藝能の世界には、同じような人がいるものです。

その他、笑える歌舞伎の話もあり、なかなか楽しめる1冊でありました。

関容子(せき・ようこ)
『中村勘三郎楽屋ばなし』
文春文庫
定価:428円 (税込)
ISBN9784167457013

最近の拾い読みから(158) ―『ドンネルの男 北里柴三郎』

2007-06-14 04:16:40 | Book Review
細菌学者北里柴三郎の評伝小説です。
もっとも、北里は、著者の言い分を借りれば、
「象牙の塔に安住した単なる細菌学者ではない。(中略)我が国の公衆衛生をリードした指導者であり、多くの研究者を育てた教育者でもある。(中略)慶応義塾大学・医学部を創設した。また、日本医師会の初代会長も務め、オーガナイザーとしての才も発揮している。幅広い視野を持った桁外れの人物である。」
ということになります。

さて、評伝小説には、それなりの定石があり、その一つに、全体の「色彩感」、あるいは基調というものがあります。
この小説のケースでいえば、タイトルにある「ドンネル」(ドイツ語で「雷」の意)というものがそれです。

確かに、下巻では「雷親父」としての北里の様子が描かれています。
「作業手順が悪かったり、報告書に不備があると、
『莫迦者っ、やり直しだ』
と雷(ドンネル)を落した。完璧にできるまで講習生の実験は何度でもやり直しだった。柴三郎の雷と執拗な指導に嫌気がさして脱落する者も珍しくなかった。」

「雷なら、どんなに激しくても耐えていればいつかは通過して終わる。終われば爽快感さえも覚える晴天が待っている。いわば陽の雷鳴だった。」

このような「癇癪」の爆発が起きるのは、外部からは権威者としての「横暴」とも捉えられていたようですが、著者は、感情の分量の多さとともに、肥後人特有の「筋」の通らないことに対する怒りの爆発と捉えているようです。

その典型的な例が、ベルリンのコッホの元で修業中の柴三郎へミュンヘンへ移動するように命令する石黒直悳に対する、雷の爆発でしょう(ミュンヘンへ移動すると、コッホとは学説が対立するペッテンコーフェル教授の指導を受けることになる)。

同様の「筋」の通らないことに対する怒りは、伝染病研究所の文部省移管問題の時にも現われます(与党が政友会から立憲改進党になるに伴い、伝研も内務省から文部省の管轄となる。政治上の問題以外にも、青山胤通ら帝大派の巻き返しという面もある)。

以上のように「ドンネルの男」として北里柴三郎を描いた作品ですが、はたして小説としてはどうか、という面になると、疑問を感じさせられます。
どちらかと言えば、ノン・フィクション系の文章で、事実を述べ、関連する事柄を説明する、というスタイルになっているからです。
もし、ノン・フィクションとしてデータが乏しいために、「小説」を名乗っているのなら、それは「逃げ」ということになるでしょう(この作品以外にも、世の中には、そのような「小説」が余りにも多い)。

「医学・薬学の世界を執筆の分野と決めて」いる著者には、早まって「小説」とはせずに、自分でも満足できるデータを集めて、ノン・フィクション作品を物してほしいものです。

山崎光夫(やまざき・みつお)
『ドンネルの男 北里柴三郎』(上)(下)
東洋経済新報社
定価: (上) (下) 各1,785円 (税込)
ISBN (上)978-4492061336, (下)978-4492061343

最近の拾い読みから(157) ―『カブキの日』

2007-06-12 00:54:19 | Book Review
冒頭から、現実とは微妙に異なった、もう一つのカブキの世界に引き込まれます(あるいは、カブキが最大の国民的娯楽であるパラレル・ワールド)。
手漕ぎ舟に乗って「世界座」という琵琶湖に沿った劇場へ、一日だけの「顔見興行」(=「カブキの日」)を見に向かう主人公「カブキ好きの十五歳の少女」蕪(かぶら)。
このシーンは、基本的に現在形で通されていて、その臨場性を高めてくれます。
「やがて手漕ぎ舟は染屋筋を左に曲がり、芝居堀に出る。この芝居堀の正面つきあたりが世界座である。
真正面から世界座の威容に臨んだ蕪は、一瞬息がとまるような思いになる。
こんな晴れやかな風景が世界にあるだろうか。なんだか魔法の空気がたなびいているみたいだ。何もかもがきらめいている。冷蔵庫から出したばかりのゼリーのようにすべてが新鮮なのだ。」

芝居茶屋に到着し、大阪蓮華座の座主塩野清十郎の座敷に、蕪の家族が招かれるところから、ストーリーは、二方向に分かれていきます。

一つは、茶屋の若衆月彦(副主人公)に案内されて、世界座の探索へと赴く蕪のストーリー。
もう一つは、カブキ界での「伝統派」水木あやめと、「改革派」坂東京右衛門との対立抗争。その対立が、あやめの陰謀によって、今回の顔見興行の切(きり。大トリの芝居)で混乱の内に頂点に達する、というストーリー。

前者のストーリーは、死んだはずの蕪の祖父(カブキの立作者)河井世之介に会いにいく、という幻想的なもの。
ここでは、世界座の楽屋三階の奥の奥にある「迷宮」を、蕪と月彦が廻り歩くという構成となっています。
この辺り、筒井康隆の世界から、グロテスクな部分を希薄にし、よりポップにした印象。というのも、主人公と副主人公とが現代の少年少女であることによるのでしょうか。
ファンタジーやRPGめいた迷宮巡りも、細部に凝っているところが、そのリアリティを保証しています。
「総菜の類も豊富。どれも大皿に山のように盛られ、なんともうまそうな匂いを放っている。
炊き合わせは巨大な鍋に入れられている。ざっとみただけでも海老芋に高野豆腐に湯葉にインゲンに南瓜にこんにゃくが入っている。食べてみればもっといろいろなものが発見できるだろう。あ、筍も入ってる。
ついでに菜っぱを炊いたもの。もろこの南蛮漬、菜の花のおひたし、青唐(ししとう)とじゃこの炒り煮、鯛の子。
大徳寺麩、蓮根のすりみのつくね、小芋、みずな煮、真魚鰹味噌漬、茄子田楽、大根と鮹のぶつぎりを煮たもの。」
これが迷宮内部の給食所のメニューだというのですから、細部の凝りようがお分かりだと思います(ちょっと「旬」が混乱している節もあるけれども……)。

一方、後者のストーリーは、カブキ界の「三奇」の一つ、京右衛門が守る名古屋山三郎の佩刀「名古屋丸」が紛失した、というところから、舞台の破局へと向かって走り出していきます。

そして、その二つのストーリーが一つにまとまるクライマックス。

歌舞伎論、藝術論的な登場人物の科白や述懐には、やや鼻白む点もありますが、感動的でよく出来た小説だと思います。

ちなみに本作品は、第十一回の三島由紀夫賞受賞作です。

小林恭二
『カブキの日』
新潮文庫
定価:579 円 (税込)
ISBN978-4101478128

最近の拾い読みから(156) ―『美食探偵』

2007-06-09 09:22:37 | Book Review
明治時代に『食道楽(しょくどうらく)』というグルメ小説で有名になった、村井弦斎(むらい・げんさい)という人がおりました。
どのような小説か、本書の「あとがき」から引きますと、
「この小説は、主人公大原と親友中川の妹お登和さんを中心とする物語のなかに、じつに七百あまりもの料理のレシピがわかりやすく紹介されるハウツーものになっている。」
というものです。

その実在の小説家村井弦斎を主人公(探偵役)にした探偵小説、ということで期待したのですが……。

結論は、ガッカリというところ。
というのは、小生のイメージでは、謎解きに美食ないしはレシピが重要な役割を果たす推理小説、ということだったのですが、それとは反し、ストーリーの中に料理が出てくる、というだけの話。
しかも、探偵小説、推理小説としてみれば、何とも他愛のないストーリー。
さほど凝った謎があるわけではなく、不可能興味というやつも、大したことではない。

そうなるとお楽しみとしては、明治30年代の風俗や、実在の人物が、架空の話にどのように絡んで来るか、ということになります。

第3話では大隈重信、第6話では松本順、伊藤博文といった人物が登場します。
第3話では、政党と藩閥との対立を原因として、大隈の行方不明事件が起こり、第6話では、戊辰戦争の因縁からの事件に、旧幕府側からは松本順、長州からは伊藤博文が絡んでくる、という趣向になっています。

とはいえ、さほど深刻な内容ではなく、小説としては「趣向」程度。
全体に軽量級で、探偵小説の風味のある時代小説(もはや、明治時代を舞台にしたものも「時代小説」と呼んでいいでしょう)といったところでしょうか。

小生の好みからすれば、まあまあ許せる程度の出来で、けっしてお勧めに値する作品集(全6話収録)ではありませんでした。
*ちなみに『食道楽』は、上下2冊本として岩波文庫から出ています。

火坂雅志(ひさか・まさし)
『美食探偵』
講談社文庫
定価:730 円 (税込)
ISBN978-4062738255