ディズニーが日本を「世界一のモノレール大国」にした?意外な接点とは
ダイヤモンドonnline より 230131 枝久保達也
モノレールの魅力を発信する「第1回モノレールサミット」が1月21、22の2日間、神奈川県藤沢市の湘南モノレール湘南江の島駅ビルで開催された。モノレールはヨーロッパで発明されたものの、今や日本は営業路線長の合計が世界一のモノレール大国である。なぜ日本でこれほど普及したのか、その歴史を解説する。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
🚝日本は世界でもまれなモノレール大国
今回の「第1回モノレールサミット」は、大船~湘南江の島間を結ぶ湘南モノレールの全線開通50周年を記念して開催したもので、本来は2022年2月の開催を予定していたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で1年延期になっていた。
筆者は1月21、22の両日とも、別の取材旅行に行っていたため残念ながら参加できなかったが、湘南モノレールのツイッターや報道によれば、モノレール・鉄道ファンの著名人のトークイベント、全国モノレール事業者の物販、展示イベントが盛況だったそうだ。
モノレールには不思議な魅力がある。モノレールはかつて次世代の交通手段として期待され、SFイラストレーター小松崎茂の未来予想図にも描かれた「レトロフューチャー」な交通機関だった。そうはならなかった現代においても独特の存在感があり、非日常を感じさせる乗り物だ。
日本で現在、営業運転を行っているモノレールは総延長の長い順に大阪モノレール、東京モノレール、沖縄都市モノレール(ゆいレール)、多摩都市モノレール、千葉都市モノレール、北九州高速鉄道、湘南モノレール、舞浜リゾートラインの8事業者。合計約114.4キロは世界一である。
もっとも中国はここ20年、重慶市に重慶軌道交通2号線31.3キロ、3号線67.1キロもの長大なモノレールを建設するなど、猛烈に日本を追い上げている。近い将来追い抜かれることになるだろうが、それでも日本は、世界でもまれに見るモノレール大国であることは間違いない。
🚝欧米でモノレールが注目された理由
2本のレールを使う鉄道に対し、1本のレールを意味するモノレールは、鉄道の変形、発展形として1820年代にヨーロッパで発明された。これは高い位置に設けたレールにぶら下げた滑車付きバケットを馬や人間が引く簡素なもので、2本のレールを用いるより小規模かつ安価に設置できることが利点だった。
「未来の交通機関」としてのモノレールは、1872年にフランス・リヨンで開催された万国博覧会で旅客を乗せて会場内を走ったことに始まるようだ。これ以降、モノレールは万博の定番出展物となった。
モノレールの利点は路面と立体交差する点にある。当時、欧米主要都市では道路上の混雑が問題化しており、既にロンドンでは1863年に世界初の地下鉄、1868年にはニューヨークで高架鉄道が開業していたが、従来式の鉄道では建設の困難さと莫大な工費を要した。そのため、空中を有効利用でき、建設費も比較的安価なモノレールが注目されたのである。
世界初の営業運転を行った旅客用モノレールは1901年、ドイツのルール地方南部に位置するブッパータールに開業した。これは同国の技術者オイゲン・ランゲンが開発した、客車が桁からぶら下がる懸垂式の「ランゲン式」モノレールであった。このブッパータール空中鉄道は現在も営業を行っている。
ブッパータールの成功は日本にも影響を及ぼし、1910~1930年代まで上野~浅草間1.8キロを結ぶ「高架単軌道」や深川~北千住間14.3キロを結ぶ「東京単軌鉄道」など日本各地に10以上のモノレール路線の免許申請がなされたが、免許が下りたのは江ノ島電気鉄道(江ノ電)が出願した江ノ島~片瀬間0.7キロが唯一で、これも結局、実現しなかった。
🚝米ディズニーランドに開業後日本で多くのモノレール計画が浮上
戦後になると東京都は、自動車の増加で運行が困難になりつつあった路面電車(都電)を、利用者が多い区間は地下鉄、中規模の区間は懸垂式モノレールで置き換えようと考えた。そこで東京都交通局は1957年、ランゲン式をベースにゴムタイヤで走行する独自方式のモノレールを上野動物園に設置したが、後は続かなかった。
こうした中、1950年代に西ドイツで、コンクリート製の桁上をまたいでゴムタイヤで走行する跨座(こざ)式の一つである、「アルヴェーグ式」モノレールが開発されると、モノレールに新たな波が押し寄せた。ゴムタイヤの採用で鉄道が苦手とした急勾配に対応可能で、また騒音も低減されるなど、都市交通としての適性をさらに高めた。
これに強い関心を持ったのがウォルト・ディズニーだ。その未来性、非日常性に注目した彼は、カリフォルニアのディズニーランドにモノレール建設を決定し、1959年に開業した。都市交通ではなく園内の移動手段(アトラクション)としての位置付けではあったが、その成功は大きな注目を集めた。
すると日本国内に次々とモノレール計画が浮上。1960年にアルヴェーグ社と技術提携した日立製作所の関与の下、同年に東京モノレール、名古屋鉄道犬山ラインパークモノレール(2008年廃止)、1962年によみうりランドモノレール(1978年廃止)、1953年に熱海モノレール(未成)が免許申請した。
1960年代には方式の異なる跨座式である、ロッキード航空機と川崎航空機が開発した「日本ロッキード式」や、東京芝浦電気が独自開発した「東芝式」を採用した路線も開業している。これらはいずれも遊園地や観光地の交通機関であり、東京モノレールを除き、現存する路線はない。
アルヴェーグ式は1961年のイタリア・トリノで開催された建国百年博覧会、1962年のアメリカ・シアトル万博に出展され好評を博したが、1961年11月に産みの親アクセル・レンナルト・ヴェナー=グレン(アルヴェーグとはAxel Lennart Wenner-Grenの頭文字を取ったものだ)が死去すると下火になり、いくつかの技術的欠点を克服できないままアルヴェーグ社は倒産してしまう。
🚝大阪万博でお披露目され都市交通機関として注目
この頃、本気でモノレールに向き合っていたのは日本だけだったといっても過言ではない。
運輸省は1967年に日本モノレール協会を通じて「都市交通に適したモノレールの開発研究」を委託。最終的に、跨座式はライバルだった日立・東芝・川崎が協力してアルヴェーグ式を改良した「日本跨座式」、懸垂式は愛知県の東山公園モノレールや湘南モノレールで採用実績があり、三菱が主導する「サフェージュ式」を統一規格とした。現在につながるモノレールの歴史はここからスタートする。
日本跨座式モノレールは1970年大阪万博の会場内交通機関としてお披露目され、次世代の都市交通機関として大きな期待を集めた。
そこで1972年に「都市モノレールの整備の促進に関する法律」が成立し、1974年に都市モノレールの橋脚と橋桁(インフラ部)を道路管理者が公共事業として実施する補助制度が創設。1970年代末から1980年代初めにかけて都市モノレール事業として北九州、千葉、大阪、多摩、沖縄の計画が動き出し、各地域の事情で開業時期は大きく異なるものの順次、完成していった。
この他、東京都心でも地下鉄12号線(後の大江戸線)に代わる構想として、恵比寿から王子付近まで環状5号線に沿って北上し、そこから浅草、両国、月島、浜松町を経由する環状モノレール計画があり、都市モノレール事業の第一弾として有力視されていた。
また札幌、仙台、岐阜、京都、神戸、熊本など全国各地にもモノレール構想が興ったが、詳細な検討の結果、想定より建設費がかかることが明らかになり、さらにオイルショックや交通局の財政悪化の影響で歴史の中へ消えていった。
🚝急速にモノレール整備が進む中国・重慶市きっかけとなった「北九州モノレール体験」
モノレールに代わって都市部の中量輸送機関として脚光を浴びたのが新交通システムである。独自技術で競争原理が働かなかったモノレールに対し、自動車技術を応用した統一規格を制定することでコストの低減を図り、さまざまな需要に柔軟に対応できるとされた。
1980~90年代にかけて
大阪南港ポートタウン線(ニュートラム)、横浜シーサイドライン、
神戸新交通(六甲ライナー)、広島高速交通(アストラムライン)、ゆりかもめ
が整備されたが、結局これも想定通りとはいかず、モノレールと同程度の建設費になってしまった。
栃木県宇都宮市のLRT整備に代表されるように、地方中核都市では公共交通の整備が検討されており、その中でモノレールも候補に挙げられることがある。だが空中を走行する性質上、旅客避難や保守性に問題があるため、モノレールは避けられる傾向にあるようだ。
さて、そんな浮き沈みの激しいモノレールだが、冒頭に記した通り近年、急速に整備を進めているのが中国の重慶市だ。
在重慶日本国総領事館ウェブサイトの「重慶モノレール誕生物語」は、重慶がモノレールを選択した理由を「重慶市の中心部(特に渝中区)の地形は山の凹凸が激しく、外から見るとまるで香港を思わせるような外観である。坂が多い中に建物が密集しているため、その隙間を縫う道路は狭い上に直線部分がほとんどない」と記している。
これまで見てきたように急勾配で道路が狭いところでも整備可能なのはモノレールの利点であり、重慶はモノレールに適する都市だった。だが面白いのはその先だ。重慶市政府関係者によれば、当時の重慶市長は北九州モノレールに乗車して以来すっかり魅せられてしまい「将来はこれを重慶市の観光名物にしたい」と述べていたというのである。やはりモノレールは人を魅了するようだ。
先述のウォルト・ディズニーもドイツ・ケルンのアルヴェーグ式実験線を何度も訪れ、試乗して魅せられていったというが、同じ頃、同様にモノレールのとりこになったのが当時、名古屋鉄道副社長を務めていた土川元夫(後に社長、会長)だった。
土川は犬山遊園~ラインパーク間にモノレールを開業させ、続いて東京モノレール計画に参加。計89人の社員を出向させ、また東京モノレール社員の研修を受け入れている(ただし東京モノレールの経営不振で開業翌年には手を引いた)。
そう考えるとモノレールの歴史の少なくない部分は、技術やコストの優位うんぬんではなく、その姿に魅了された人の思いでつながれてきたとも言えるかもしれない。
21世紀に入ってから新規開業したモノレールは、舞浜のディズニーリゾートラインと沖縄のゆいレールのみ。それも20年前の出来事だ。
21世紀に入ってから新規開業したモノレールは、舞浜のディズニーリゾートラインと沖縄のゆいレールのみ。それも20年前の出来事だ。
だが多摩都市モノレール、大阪モノレールの延伸計画が動き出すなどモノレールの灯が消えたわけではない。
また久方ぶりの新路線となりそうなのは、2019年に運行を終了した上野動物園モノレールの代替交通手段だ。東京都は2026年度までに「コンパクトな乗り物(小型モノレールなど)」を整備する意向で、モノレールが有力とされているが、詳細は検討中だ。
モノレールファンの筆者としては、モノレールサミットなどの取り組みでモノレールに魅せられる人が一人でも増え、モノレールの歴史が未来に受け継がれることを願っている。
🚝参考文献
佐藤信之『モノレールと新交通システム』グランプリ出版(2004年12月発行)
網本克己「モノレール法ができるまで」『モノレール』82号 日本モノレール協会(1994年8月発行)
また久方ぶりの新路線となりそうなのは、2019年に運行を終了した上野動物園モノレールの代替交通手段だ。東京都は2026年度までに「コンパクトな乗り物(小型モノレールなど)」を整備する意向で、モノレールが有力とされているが、詳細は検討中だ。
モノレールファンの筆者としては、モノレールサミットなどの取り組みでモノレールに魅せられる人が一人でも増え、モノレールの歴史が未来に受け継がれることを願っている。
🚝参考文献
佐藤信之『モノレールと新交通システム』グランプリ出版(2004年12月発行)
網本克己「モノレール法ができるまで」『モノレール』82号 日本モノレール協会(1994年8月発行)
💋道路上にモノレール 胡坐式の大阪モノレール🚝見晴らしよくいい感じ!