新潟県立歴史博物館で行われている
展覧会に行ってきた。
それは、
新潟県中越大震災復興支援展覧会
「震度7 それでもわが大地を愛す」
雪解けの季節を迎え、いよいよ本格的復興を目指して
動き始める被災地を応援するための展覧会だ。
この展覧会では、今回の震災で大きな被害を受けた
山古志村を4回訪れたことがあり、村を題材にした絵も
描いている画家の原田泰治氏の作品や、地元写真家による
村の人々が写った写真や、村の風景の写真が飾られていた。
きょう4月3日で終わってしまうのだ。惜しい。
展示を見て、
「どうしても春には山古志に行きたい。」そう思った。
---
「美しい村だった。」と言うと、実に陳腐になってしまう。
が、山古志村には、里山と密接に結びついた暮らし、
水田と農耕により形作られた伝統的な日本の農村の
やはり美しい風景があった。
大学時代、北海道出身の友人が、新潟の風景を見て、
「日本の正しい風景だね」と言ったことがあった。
田んぼと山と川と人と動物とが一緒に仲良く暮らしている。
そんな越後の風景をそう表現したのを覚えている。
そんな「日本の正しい風景」とも言える風景が、
山古志にはあった。
田んぼがあって、最近は減っただろうが、茅葺きの
大きな家があって、錦鯉がいて、牛が散歩していて、
子どもが走り回り、耕耘機がゴトゴトゆっくり走り、
おじいちゃんおばあちゃんが歩いていて、見知らぬ
道行く人とも挨拶が交わされる、気張る必要などない、
ホッと出来る、そんな村だった。
が、良いこと、便利なことばかりではない。
自然は厳しい。山は深いし、冬の雪の降る量は半端では
ないし、街までは遠い。歩けば坂ばかりで、決してお年寄り
にも楽なことの多い村ではないだろう。
どうしてこんなに山奥に住むのか?と都会の人なら、
思うかもしれない。いや、自分も最初はそう思った。
しかし、村には村にしかない美しさがあった。都会が
どんなに逆立ちしたって手に入れることの出来ない
自然の厳しさと背中合わせの美しさと、豊かな農村の
暮らしがあった。
しかし、村の美しさを言い表す言葉は、すべて過去形だ。
もはやその村の美しさも、そこには残っていない。
自然と共存してきた山古志の人々が長い年月をかけて
作り上げてきた美しい村は、もうない。
---
では、この展覧会の写真や絵は、かつて栄えた美しい村を
賛美して、過去の村の繁栄を残そうというだけのものなのか。
いや、そんなセンチメンタルなものではないのだ。
これらの展示は、美しい村の情景を決して「額縁」の中だけに
とどめてしまうのではなく、「博物館の中の展示物」にしてしまう
のでなく、そこで暮らし、生きていくための「ふるさと」として
取り戻していこうと、今も懸命に努力を重ねている、被災地の人々、
村の人々へのエール、応援であるのだ。
牛の角突きで使われる「面綱」や、「足掛け綱」が展示されていた。
面綱も、足掛け綱も、こんなガラスケースの中に本当は入れてほしく
なんかない。
あの杉木立の間の、泥にまみれた、人々の喝采の中の、闘牛場で、
力強く、勇敢な山古志の男達の手にしっかり握られてこそ、本当の
意味があるのだ。
---
展示室の入り口にあった、歴史博物館友の会会長・鈴木氏の
「あいさつ」の言葉が印象的だった。
川上は涙が出た。鈴木氏も涙を流しながら書かれたに違いない。
「平成16年10月23日午後5時56分、中越地域を最大震度7の
地震が襲った。
あたかも神話の「八岐大蛇(やまたのおろち)」がのたうつが如く、
私たちがこよなく愛して止まない「ふるさと」が……。
(中略)
しかし、ようやくつらく長かった冬も終わりに近づいた。
確実に春はやってくるのだ!そこには希望がある。
新たな夢もある。どうしていつまでもめそめそしていられよう。
なくなった御霊に対しても…。
私たちの明日はあの美しい「ふるさと」にある。私たちは誓う!!
今再び不死鳥のごとく勇気を振り絞って明日に向かって
生きることを!!
それがどんなに苦しくとも……必ず。必ず。
さあ!愛すべき人、愛すべきふるさとのため、今こそ心を
一つにして、立ち上がろうではないか!!
この展覧会はそんな熱い思いを伝えたい。そして、ふるさとの
復興に向かってみんなで力を合わせて前進しようという趣旨で
企画したものです。
一人ひとりの胸に在る「ふるさと」をもう一度見つめ、新たな
時代を創って行こうではありませんか。」
新潟県立歴史博物館友の会
会長 鈴木重壱氏 の「ごあいさつ」より抜粋
---
ガンバロウ長岡!!!
ガンバロウ新潟!!!
by 川上
展覧会に行ってきた。
それは、
新潟県中越大震災復興支援展覧会
「震度7 それでもわが大地を愛す」
雪解けの季節を迎え、いよいよ本格的復興を目指して
動き始める被災地を応援するための展覧会だ。
この展覧会では、今回の震災で大きな被害を受けた
山古志村を4回訪れたことがあり、村を題材にした絵も
描いている画家の原田泰治氏の作品や、地元写真家による
村の人々が写った写真や、村の風景の写真が飾られていた。
きょう4月3日で終わってしまうのだ。惜しい。
展示を見て、
「どうしても春には山古志に行きたい。」そう思った。
---
「美しい村だった。」と言うと、実に陳腐になってしまう。
が、山古志村には、里山と密接に結びついた暮らし、
水田と農耕により形作られた伝統的な日本の農村の
やはり美しい風景があった。
大学時代、北海道出身の友人が、新潟の風景を見て、
「日本の正しい風景だね」と言ったことがあった。
田んぼと山と川と人と動物とが一緒に仲良く暮らしている。
そんな越後の風景をそう表現したのを覚えている。
そんな「日本の正しい風景」とも言える風景が、
山古志にはあった。
田んぼがあって、最近は減っただろうが、茅葺きの
大きな家があって、錦鯉がいて、牛が散歩していて、
子どもが走り回り、耕耘機がゴトゴトゆっくり走り、
おじいちゃんおばあちゃんが歩いていて、見知らぬ
道行く人とも挨拶が交わされる、気張る必要などない、
ホッと出来る、そんな村だった。
が、良いこと、便利なことばかりではない。
自然は厳しい。山は深いし、冬の雪の降る量は半端では
ないし、街までは遠い。歩けば坂ばかりで、決してお年寄り
にも楽なことの多い村ではないだろう。
どうしてこんなに山奥に住むのか?と都会の人なら、
思うかもしれない。いや、自分も最初はそう思った。
しかし、村には村にしかない美しさがあった。都会が
どんなに逆立ちしたって手に入れることの出来ない
自然の厳しさと背中合わせの美しさと、豊かな農村の
暮らしがあった。
しかし、村の美しさを言い表す言葉は、すべて過去形だ。
もはやその村の美しさも、そこには残っていない。
自然と共存してきた山古志の人々が長い年月をかけて
作り上げてきた美しい村は、もうない。
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では、この展覧会の写真や絵は、かつて栄えた美しい村を
賛美して、過去の村の繁栄を残そうというだけのものなのか。
いや、そんなセンチメンタルなものではないのだ。
これらの展示は、美しい村の情景を決して「額縁」の中だけに
とどめてしまうのではなく、「博物館の中の展示物」にしてしまう
のでなく、そこで暮らし、生きていくための「ふるさと」として
取り戻していこうと、今も懸命に努力を重ねている、被災地の人々、
村の人々へのエール、応援であるのだ。
牛の角突きで使われる「面綱」や、「足掛け綱」が展示されていた。
面綱も、足掛け綱も、こんなガラスケースの中に本当は入れてほしく
なんかない。
あの杉木立の間の、泥にまみれた、人々の喝采の中の、闘牛場で、
力強く、勇敢な山古志の男達の手にしっかり握られてこそ、本当の
意味があるのだ。
---
展示室の入り口にあった、歴史博物館友の会会長・鈴木氏の
「あいさつ」の言葉が印象的だった。
川上は涙が出た。鈴木氏も涙を流しながら書かれたに違いない。
「平成16年10月23日午後5時56分、中越地域を最大震度7の
地震が襲った。
あたかも神話の「八岐大蛇(やまたのおろち)」がのたうつが如く、
私たちがこよなく愛して止まない「ふるさと」が……。
(中略)
しかし、ようやくつらく長かった冬も終わりに近づいた。
確実に春はやってくるのだ!そこには希望がある。
新たな夢もある。どうしていつまでもめそめそしていられよう。
なくなった御霊に対しても…。
私たちの明日はあの美しい「ふるさと」にある。私たちは誓う!!
今再び不死鳥のごとく勇気を振り絞って明日に向かって
生きることを!!
それがどんなに苦しくとも……必ず。必ず。
さあ!愛すべき人、愛すべきふるさとのため、今こそ心を
一つにして、立ち上がろうではないか!!
この展覧会はそんな熱い思いを伝えたい。そして、ふるさとの
復興に向かってみんなで力を合わせて前進しようという趣旨で
企画したものです。
一人ひとりの胸に在る「ふるさと」をもう一度見つめ、新たな
時代を創って行こうではありませんか。」
新潟県立歴史博物館友の会
会長 鈴木重壱氏 の「ごあいさつ」より抜粋
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ガンバロウ長岡!!!
ガンバロウ新潟!!!
by 川上