ラティハンをやったからといって、次の日からなんでもわかったり、良くなったりする
訳はない。
そんなことは誰でもわかっているけれど、わからないのは、いつになったら「その日」
が来るのかということである。
オープンされて、しばらくたつと自分の意志でもないのに「体が動き始める。」
最初のころはそれで十分に満足している。
でも、そのうちにそれでは満足できなくなってくる。
「ラティハンの成果」というものは、いったい何なんだという話になる。
それからが長い長い。
この長さに耐えきれなくて、人はせっかくのラティハンをやめていってしまう。
いままで生きてきた中で、何が残っているのかと言えば、ラティハンに連れてこられた
もののみである。
あとは、その時その時に「これがなくては一大事。」と思っていたものの、
振り返ってみれば人生のひとコマをなすものばかり。
連綿として続いてきているものは、ラティハンのみ。
バパにいわせりゃこの「続き」は「死を超える」ものだとか。
それがウソか本当かわからないけれど、バパが「こうだ。」といままで説明したことで
違っていた事例を私は知らない。
自分の理解よりはよほど「バパの説明」の方が信頼できる。
そのようなラティハンに巡りあえたということは、感謝すべきことなのだろうと
思っているじゃらんじゃらんでした。
訳はない。
そんなことは誰でもわかっているけれど、わからないのは、いつになったら「その日」
が来るのかということである。
オープンされて、しばらくたつと自分の意志でもないのに「体が動き始める。」
最初のころはそれで十分に満足している。
でも、そのうちにそれでは満足できなくなってくる。
「ラティハンの成果」というものは、いったい何なんだという話になる。
それからが長い長い。
この長さに耐えきれなくて、人はせっかくのラティハンをやめていってしまう。
いままで生きてきた中で、何が残っているのかと言えば、ラティハンに連れてこられた
もののみである。
あとは、その時その時に「これがなくては一大事。」と思っていたものの、
振り返ってみれば人生のひとコマをなすものばかり。
連綿として続いてきているものは、ラティハンのみ。
バパにいわせりゃこの「続き」は「死を超える」ものだとか。
それがウソか本当かわからないけれど、バパが「こうだ。」といままで説明したことで
違っていた事例を私は知らない。
自分の理解よりはよほど「バパの説明」の方が信頼できる。
そのようなラティハンに巡りあえたということは、感謝すべきことなのだろうと
思っているじゃらんじゃらんでした。