ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

巡りあえたということ。

2011-10-21 | 日記
ラティハンをやったからといって、次の日からなんでもわかったり、良くなったりする
訳はない。

そんなことは誰でもわかっているけれど、わからないのは、いつになったら「その日」
が来るのかということである。


オープンされて、しばらくたつと自分の意志でもないのに「体が動き始める。」

最初のころはそれで十分に満足している。

でも、そのうちにそれでは満足できなくなってくる。


「ラティハンの成果」というものは、いったい何なんだという話になる。

それからが長い長い。

この長さに耐えきれなくて、人はせっかくのラティハンをやめていってしまう。


いままで生きてきた中で、何が残っているのかと言えば、ラティハンに連れてこられた
もののみである。

あとは、その時その時に「これがなくては一大事。」と思っていたものの、
振り返ってみれば人生のひとコマをなすものばかり。

連綿として続いてきているものは、ラティハンのみ。


バパにいわせりゃこの「続き」は「死を超える」ものだとか。

それがウソか本当かわからないけれど、バパが「こうだ。」といままで説明したことで
違っていた事例を私は知らない。

自分の理解よりはよほど「バパの説明」の方が信頼できる。


そのようなラティハンに巡りあえたということは、感謝すべきことなのだろうと
思っているじゃらんじゃらんでした。

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