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旧精神科医療は思想警察なのか?

性的なネーミングセンス、車メーカーが意図的に行っている車名についてが笑い話にならない、笑い話にしている現実

2018年01月15日 | 洗脳からの解放

今回の記事は、日本の国産自動車メーカーが意図的に性的な名前を車名に使っているという小話です。

彼らが、何故そのようなことをするのか?

という理由については、こちらのブログではっきりと説明してあります。

RAPT | 性の乱れが文明を崩壊させる。その原理について。

RAPT | 〈閲覧注意〉チベットは悪魔崇拝の聖地です。

RAPT | 本当の自由とは。本当の幸福とは。悪魔の作った偽物の宗教に

RAPT | 〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。

以下記事転載します。

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海外の人に好印象の日本車名 逆に赤面・笑ってしまうものあれこれ

◆なぜわざわざ……?
 フォーブス誌が挙げるのは、赤ちゃんをさらう野犬種を意味する三菱ディンゴ(Dingo)、日本語の風雅から来ているがイタリアでは「逃げる」を意味し、英語話者には腐ったキノコのようなイメージを抱かせる日産フーガ(Fuga)、そして絶滅危惧種の羊を意味し、その名の通り消えてしまったいすゞのビッグホーン(Bighorn)などだ。三菱レグナム(Legnum)も足の痺れであるnumb legを想起させ印象が良くないようだ。

 英サン紙では、悪いイメージとまではいかないものの、三菱ミニカ レタス(Lettuce)から、平凡で退屈な野菜のイメージが漂うとしている。イメージ戦略の一端を担う車名だが、英語話者が抱く印象はかなり異なる場合があるようだ。

◆車らしくない名前
 意味は通じるものの、車の名前としてはあまり適していないものもある。サン紙は、ホンダのザッツ(That’s)が未完成の文のようだとしている。他にもいすゞのミュー(Mu; Mysterious Utility Wizard)は何がミステリアスなのか不明、マツダのスクラムワゴン(Scrum Wagon)はラグビーを連想させるという。ホンダのライフ ダンク(Life Dunk)はバスケットボールのダンクシュートを意図しているのだろうが、優れた名前ではないとしている。Dunkには液体に浸る、水に突っ込むという意味があるからだろう。

 他にも、イギリスのオート・カー誌は、日産グロリア(Gloria)が同名のテレビ司会者を想起、マツダのボンゴ フレンディ(Bongo Friendee)が楽器のボンゴを連想させるとする。ダイハツのアプローズ(Applause)がヨーロッパ市場でも販売されていたことに触れている米中古車情報サイト『オート・トレーダー』の記事では、拍手や賞賛を意味するアプローズは肯定的で良いネーミングなのではと思いきや、ナンセンスなネーミングに厳しいイギリスでも売られていたことが信じられないという調子だ。

◆うっかり下品に
 言葉の壁という落とし穴にはまり、意図せず下品な意味を持ってしまった車種もある。フォーブス誌はダイハツのネイキッド(Naked)を、日本語で「全裸」という車を発売するようなものだと表現する。さらに前掲のいすゞビッグホーンもクスクス笑いを誘うとしているが、これはbig hornが大きな男性器を連想させるためだろうか。また、世界中に話者の多いスペイン語で、思わず眉をひそめる意味になってしまうものもあるようだ。マツダのラピュタ(Laputa)はスペイン語で夜の商売の女性(La puta)を意味し、三菱パジェロ(Pajero)に至っては記事に直接書けないほどの意味を持つという。パジェロはヨーロッパではShogunと名を改めて発売されたとのことだ。

 サン紙もいくつかの下品なネーミングに触れている。フォードがマツダと共同開発したプローブ(Probe)は、棒を持ったエイリアンを想起させるという。英語圏では、エイリアンが地球人を拉致し、お尻に棒を差し込んで検査(Probe)するというジョークがあるようだ。「この車の名前を言うとき、クスクス笑いを堪えるのは難しい」という。マツダ・タイタンのダンプ(Titan Dump)も、Titanは巨人、Dumpは排便するという意味があるため、あまり良い印象にはならないらしい。

 フォーブス誌では成功したネーミングの一つとして、スリーレターのパターンを挙げている。ホンダNSX、日産GT-R、スバルWRX、マツダRX-7などは、覚えやすく発音もしやすいそうだ。不用意な勘違いを避けたければ、略語にしてしまうというのも一つの有効な戦略かもしれない。

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(転載ここまで)

スペイン語でpajeroとは「自慰行為にふける男性」

という意味です。

彼らは意図的にやってますね。

以下、参考記事転載します。

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悪魔崇拝では、人肉や人糞を食べたり、同性愛をしたりと、普通に考えたら気持ちの悪いことばかり行うわけですから、最初は誰しもイヤイヤ悪魔崇拝を行うはずですが、何度もそういった行為を繰り返しているうちに、いずれそれが癖になってやめられなくなってしまうわけです。

これはもはやアルコール中毒やギャンブル中毒の患者と全く同じです。彼ら中毒患者はアルコールやギャンブルをやることが癖になり、それをやらないとどんどんストレスが溜まってしまうわけですが、その一方で、アルコールやギャンブルをやる度に自分が嫌になるので、それはそれで余計にストレスが溜まります。

つまり、一度何かの中毒になってしまうと、精神的にどんどんおかしくなってしまうばかりなのです。彼らはそんな自己矛盾に延々と苦しみつづけなければならないのです。それはもはや地獄のような苦痛ではないでしょうか。

しかも、悪魔崇拝者たちは今でもせっせと自分の仲間を作ろうとしています。それが何よりも恐ろしいところです。

彼らは先ずキリスト教やら仏教やら神道を看板にして宗教団体を作り、その信者を増やします。

 

そして、その信者の中から特に教祖に忠実な人を選んで、これこそが「秘密の奥義」だと言ってその人に「悪魔崇拝」を教え、自分と同じような悪魔崇拝者へと作り変えていくわけです。

しかしこの世の中には、そうとも知らずに某かの宗教団体に入り、何か変だなとは思いつつも、その宗教から抜け出すのは不安だからといって、その宗教を信じつづける人たちが今でも大勢います。しかし、そんな宗教をいくら熱心に信じたところで、人生がよくなるはずがありませんので、いずれその宗教に嫌気がさしていきます。

そのためでしょうか。ここ最近は、私のところにも「自分の信じている宗教は大丈夫なのでしょうか」といったメールを送ってくる方が何人かいらっしゃいます。しかし、私も全ての宗教団体を詳しく把握しているわけではないので、そういった方にはおおよそ次のように返答することにしています。

「その宗教を信じることで自分の徳が高くなったと少しでも感じるなら、その宗教は本物です。しかし、そう感じられなければ、その宗教は偽物です。」

カルトと呼ばれる宗教の大半は「奇跡」を売りにします。かのオウム真理教も、麻原彰晃が宙を浮いたことを大々的に宣伝しながら信者を集めていました。バチカンとて同じです。彼らも様々な「奇跡」を演じて見せながら、多くの信者を獲得しようとしてきました。

中にはそれらの奇跡を信じられず、そのトリックを見破ろうとする人も大勢いますが、そんなことを調査・研究するだけ時間の無駄です。それが本物の奇跡かどうかが重要な問題ではないからです。

そんなことよりも、その宗教の教えによって自分自身の徳が高くなるかどうかがより大きな問題なのです。

宗教を信じる目的は、奇跡を起こすことではありません。幸福になることでもありません。まして、自分の願いを叶えることでもなければ、自分の悩みを解消することでもありません。

はっきり言って、自分の徳を高めさえすれば、自然と幸福になれるし、自然と自分の願いも叶えられるし、自然と自分の悩みも解消することができます。

しかし、人々はそこのところがよく分かっていません。そのため、先ず最初に幸福を手に入れようとし、欲望を満たそうとし、悩みを解消しようとしますが、そんなことだから、いつまで経ってもかえって何も得られずに苦しみつづけることになるのです。

では、徳を高めるとはどういうことなのか。一言で言うなら、それは「完全な人になる」ということです。

人の心は「知・情・意」から成り立っていると一般的には言われています。「知」とは「知識・学問」のこと、「情」とは「人情・感情」のこと、「意」とは「意志・倫理」のことを指しています。

こういったものを育て伸ばしていくこと、そして完全にしていくこと、それが「完全な人になる」ということです。

もっとも、この世の中で「完全な人になる」のはとても難しいものです。この世の中が余りに邪悪なので、自分一人だけ完全になろうとしても、実に様々な壁にぶつかってしまうからです。ときに自分を作るなど不可能だと思えることもあります。

しかも、この世のほとんどの人たちが「人間が完全になれるわけがない」と言います。キリスト教の牧師の中にすら平気でそんなことを言ってくる人がいます。「あなたが完全でなくても神様はあなたのことを愛しておられる」などと言ってその場限りの気休めを言ってくるわけです。聖書にははっきりと「完全な人になりなさい」と書かれてあるというのに。(マタイによる福音書5章48節)

もちろん、神様は私たち人類のことを基本的には愛してくれています。それは確かな事実です。しかし、本当に神様に愛されるためには、やはり人間がそれなりの努力をしなければなりません。

例えば、ある親に二人の子供がいて、そのうちの一人は自分を伸ばそうと努力もせず、毎日のように遊びほうけて生きていて、もう一人は勉学に励み、自分を磨こうと懸命に努力していたとします。果たしてその親はどちらの子供をより愛するでしょうか。

答えは明白です。後者をより愛し、その子の願いをもっと聞いてあげようとするはずです。

神様もこれと同じです。ある人が自分を完全に作ろうと努力するならば、神様はその人のことをより愛し、その人のためにもっと何かをしてあげようとします。

しかし、悪魔どもは巧妙にこの宗教の本質をすり替えてしまいました。彼らは先ず人々の前で「奇跡」を起こして、その「奇跡」を売り物にして宗教を信じさせようとします。あなたが善い行いをしようとしまいと、この宗教を信じれば何かいいことがあるよ、幸福になれるよ、といって宣伝するわけです。

そのため、この世のほとんどの宗教は、どんなに熱心に信じても、本物の善人を生み出すことができません。

この世の中には実に多くの宗教が氾濫していますから、本当ならマザー・テレサのような聖人がもっと数多く出てきても良さそうなものですが、現実にはそうなっていません。

それがなぜかといえば、この世の宗教の大半が腐りきっているからです。この世のほとんどの宗教の中枢に悪魔を拝む連中がいて、宗教の本来の目的をねじ曲げてしまっているからです。だから、この世の宗教のほとんどが完全な善人を生み出すことができないのです。

善人を生み出せない宗教、完全な人を生み出せない宗教に、果たして何の存在意義があるというのでしょうか。

私個人としては、自分を完全に作ってくれる人、自分を完全につくれる教えを説いてくれる人でない限り、むやみやたらと敬ったり、崇めたりすることはありません。ましてその人の後をついていくようなこともしません。

この世では「天皇」や「ローマ法王」が最も偉いということになっているようですが、「天皇」も「ローマ法王」も私を完全な人間に作ってはくれません。彼らがそのような教えを説くこともありません。

「天皇」はただ誰かの作った原稿を棒読みするだけですし、「ローマ法王」に至っては「同性愛者を歓迎する」などとトンチンカンなことを言っています。幾らそんな話を聞いたところで、自分を完全な人間に作ることはできません。

ですから私は、彼らのことを信じることも敬うこともしません。そんなことをする気にもなれません。

ましてや「チベット仏教」や「密教」のように性的なものを推奨するような宗教など論外です。そんな宗教は最初から信じるに値しません。

宗教に限らず、セックスをしないと人間がダメになる、性欲がない人間はダメだ、みたいなことを言っている人もみんな同じです。欲望というものは、なければないに越したことはありません。ない方がずっと楽です。

もし仮に欲望を持つとしても、自分を作ることに欲望を燃やせばいいのです。

それ以外の無駄な欲望を持って生きるから、満たされない心も大きくなり、満たされない心が大きくなるから、不平・不満が大きくなり、心配も悩みも増えていくのです。

しかし、最初から無駄な欲望がなければ、不満や不平も生じませんし、誰かを嫉妬したり恨んだりすることもなく、むしろ自分のやるべき仕事に没頭できるようになります。よそ見をすることなく、まっすぐに生きられるようになります。

そうすると、無駄なことを全くしなくなるので、それだけ時間を有効に使うことができるようになります。人が二時間かけてやることを一時間でできるようになります。そうすると、その人は他の人よりも二倍長く人生を生きたも同然です。長生きしたければ、そのように生きればいいのです。

そもそも、世的な欲望の強い人を誰が尊敬するでしょうか。中にはそういう変わり者もいるかも知れませんが、一般的にはそういう人は誰からも尊敬されることはありませんし、むしろ誰からも見下されるのが落ちです。

悪魔崇拝者たちもそうと分かっているからこそ、淫乱な儀式を人に見付からないように陰でこそこそと行っているわけです。で、自分の惨めさを慰めるために、性的なことを無理やり人にも薦めたりしているわけでしょう。

性的なことを行ってストレスが解消したり、一時的に悩みから解放されたりしたとしても、性的なことに中毒になったら、それだけでその人は人間として終わりです。そして、この世の多くの人たちがそのことを理解できず、悪魔の理論に騙されて、どんどん性的なところに流されていっています。

本当に哀れな人たちです。そうやって「できちゃった婚」などして自分の人生をダメにしている若者たちを見ていると、こっちまで情けない気分になります。

そんな悪魔の理論に騙されないためにも、私たちは自分を作ることに努力するべきです。「知・情・意」を開発する努力をすべきです。そして、そのような努力を続けている限り、悪魔の理論に騙されることは決してありません。

なぜなら悪魔は、人の体を支配することはできても、人の心まで支配することはできないからです。そして、そのような状態になってこそ、人は初めて真の幸福、真の自由を得たと言えるのではないでしょうか。

少なくとも、私自身はそう考えて、悪魔の罠から自分を守っています。

僭越ではありますが、今日は悪魔から自分の身を守る方法について述べさせていただきました。

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(転載ここまで)

これ以上言うことがありません。

私達は、欲望を満たすために生まれてきたのでなく、幸福になるために生まれてきたのですね。

富や名誉、権力をどれだけ持っていても、心の中に平安がなければ幸せではありません。

それらのものは、手に入れても支配欲や他者からの承認欲求などの一時的な欲望を満たしてくれる

幸福感を与えてくれるだけだからです。

大切なのは、常に幸福を感じてるかといった心のあり方ではないしょうか?


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