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旧精神科医療は思想警察なのか?

ライシャワー事件とは精神衛生法を改悪しただけでなく、売血制度を献血制度に変えて、日本赤十字社がぼろ儲けできるシステムを隠蔽したものである。

2020年05月31日 | 精神科医療とRAPT理論

手術や救急の現場では当たり前に行われている「輸血」

かつて、内海聡氏と船瀬俊介氏が「血液の闇」という著書で「輸血が危ない」という意見を発表しました。

 かつて私も「輸血はだめだ」と考えていましたが、父が急変した際、貧血が続いていたため成分輸血である赤血球MAPを受けて、劇的に症状が改善しました。

 その後、父親は免疫の異常もありませんし、元気に生活しています。

 このように、治療法として輸血という方法が確立されており、「人間の血液」は高値で取引される「薬」としての側面を持っていました。

 実は、輸血の歴史を見ていくと、1950年に「日本ブラッドバンク(日本血液銀行)」が大阪に設立されます。

 この設立メンバーが、731部隊関係者で占められており、内藤良一は元軍医・陸軍軍医中佐)であり、旧日本軍731部隊を取り仕切っていた石井四郎軍医中将の片腕の一人にあたります。

また、顧問に就任した北野政次は一時期731部隊長を務めており、取締役の二木秀雄は元731部隊二木班班長であるとともに右翼系政界誌「政界ジープ」の発行者でした。

この731部隊の関係者に出資したのが、三井住友銀行の前身である神戸銀行でした。

売血というイメージがありますが、製薬会社が血液製剤を作るために血液を集めていたという側面があります。

しかし、それを嫌う考えがあり、肝炎ウイルスが含まれている血液を「黄色い血」と俗称がついていました。

売血事業を禁止させ、日本赤十字社の献血事業一本にしたのが「ライシャワー事件」による、ライシャワー駐日大使刺傷事件でした。

1963年には厚労省では「精神障害者の地域移行案」が出されており、精神病院ブームが止める予定でした。

しかし、1964年にアメリカ大使館内に19歳の少年が忍び込んでアメリカ駐日大使のライシャワーの太ももを包丁で刺した事件によって、精神障害者の地域移行支援は頓挫することになります。

しかもこの少年は何度もアメリカ大使館んい忍び込んでいたそうです。

大使館の警備は警察の機動隊が行っており、厳重であるため、一般人では侵入不可能です。

このライシャワー事件、調べれば調べるほど、怪しい事件だと分かってきます。

それでは事件の概要をみていきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・ライシャワー大使刺傷事件 昭和39年(1964年)

https://www.cool-susan.com/2015/10/22/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%BC%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E5%88%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6/

 昭和39年3月24日正午頃、エドウィン・ライシャワー駐日アメリカ大使(53)が東京・赤坂の大使館の裏玄関から車に乗ろうとした時、刃渡り16センチのナイフを持った工員風の少年に襲われ、右大腿を刺され負傷した。少年はその場にいた書記官や海兵隊らに取り押さえられ、駆けつけた赤坂署員に引き渡された。この殺傷事件は外国の要人が襲われた戦後初の事件であった。

 書記官がネクタイで止血の応急処置を行い、直ちに虎ノ門共済病院に運ばれた。刺された大腿部の傷口は2.8センチ、深さ10センチで出血量は3000ccを超え、1000ccの輸血が行われた。虎ノ門共済病院医師団と横須賀米軍病院医師団による手術は4時間に及んだ。

 このような突然の事態となったが、ライシャワー大使はあくまで冷静だった。手術室に運ばれる途中、駆けつけたハル夫人に親指と人さし指で「OK」のサインを送るほどの余裕をみせた。手術の翌日、「わたしは日本で生まれたが、日本人の血はない。日本人の血液を多量に輸血してもらい、これで私は本当の日本人と血を分けた兄弟になれた」と言って周囲を笑わせた。「この小さな事件が日米間の友好関係を傷つけないように」と何度も繰り返した。この日本国民を慰める言葉に、日本国民はライシャワー大使にいっそうの親しみを覚えた。

 駐日アメリカ大使が治外法権の大使館内で危害を加えられたことで、この不祥事への対応に注目が集まった。日本政府はこの事件を重要視し、池田勇人首相はアメリカのジョンソン大統領に遺憾の意を表明し、早川崇国家公安委員長は引責辞任し、天皇、皇后、皇太子夫妻が見舞い品を贈った。

 

 犯人の少年は、静岡県沼津市に住む精神に障害を持つ少年(19)であった。少年は高校生の時から統合失調症を患い、沼津の病院で治療を受けており、犯行は精神障害によるもので思想的背景はないとされた。

少年は「世間を騒がせるために大使を襲ってやろうと思った」と自白したが、その動機の詳細は支離滅裂であった。少年はこれまでアメリカ大使館に2回侵入し、事件前にも米国大使館への放火の疑いで警察から尋問を受けていていた。犯行時は心神喪失状態だったとして不起訴処分となり、精神病院で治療を受けていたが、事件から7年後に少年は自殺している。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

ライシャワーは太ももをさされただけで3,0リッターの出血をしています。

実は、これは大量出血でショック死する出血量です。

「成人の循環血液量は体重の7%であるので,70kgの人には約5Lの血 液があることになる.70kgの体重の人の出血の絶対量も示している.特に緊 急の状況下では,70kgの人の絶対出血量に基づくショックの分類を記憶し,三つに分類し,軽度,中等度,重度とする.

5リットル中20%以下つまり、1リットル以下の出血を軽度出血

 20~30%以下の出血、血液1リットル~1.5リットル以下の場合、中等度出血となって、それ以上の1.5リットル以上は重度の出血となりショックが起こります。

ライシャワーは3リットルも出血しているため、本来死んでいますね。

そして、1リッターの輸血をし、輸血から血液肝炎に感染しています。

「大使館内で日本人に襲われて、手術した結果輸血が必要となり、売血事業の輸血を使用した結果、肝炎に感染した」ということです。

 そこで、日本政府はアメリカに2点の謝罪をします。

米駐日大使が大使館内で刺されたこと

刺傷後に日本の輸血用血液を使用して肝炎ウィルス血液感染した

本来、国際問題に発展して当たり前なのですが、日本へのお咎めなし。

その代わりとして、肝炎感染の危険がある売血事業を禁止し、日本赤十字が輸血用の血液の検査をするように政府は対策案を実行しました。

ちなみに、このライシャワー駐日大使の奥さんは松方正義の娘 ハル松方であり、天皇家の親戚にあたります。

この二人がぐるになって、売血事業を禁止させ、輸血用血液調達がただ同然でできるシステムを作ったのが、このライシャワー事件の顛末なのです。

日本赤十字社が儲かることで、天皇家にも利益が入るようになります。

実は売血事業を禁止させていただけで、実際は1990年まで売血はされていました。

日本における売血終焉では、

1964年以降売血は急速に減り、1968年には売血由来の輸血用血液の製造が終了した。民間血液銀行の預血制度は存続したため、預血制度が廃止され輸血用血液が完全に献血由来のものに切り替わったのは1974年のことである。

一方、血漿分画製剤用としては、1990年に原料の献血移行が行われるまで製薬会社による有償採漿(ゆうしょうさいしょう)が行われていたため、実質的には1974年以降も売血が存続していた事になる。最後まで有償採漿を行っていたミドリ十字は1990年7月27日、日本製薬は同年9月21日にそれぞれ終了している。

とあります。

薬害エイズ事件により、ミドリ十字にとどめをさして、血液関連事業は日本赤十字社一本となったのです。

ただ同然で仕入れて、高額に転売する、まるでコロナ騒動で起こったマスクの転売ヤーのような事を、天皇家を潤すために、アメリカ大使とグルになってやっていたということになりますね。

 1963年の精神衛生法施行に対しての実態調査について触れていきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・法制度からみた精神保健福祉の変遷

-精神保健福祉法の制定の背景を探る吉 川 武 彦

調査からほぼ10年 をへた1963年(昭38)に は, 第2回全国精神衛生実態調査を行 った. 第1回より調査地区を増やしたこの調査は疫学的な検討にも耐え得るものとしてデザイ ンされたが, 調査結果については, 精神害者の全国推計数は124万人, このうち精神病が57万人, 精神薄弱が40万人, その他が27万人と推定され, このうち要入院のものが28万人と喧伝されるところとなった. 第2回 実態調査のここだけが一人歩きすることとな ったのは,きわめて遺憾である.

第2回 調査は, 精神障害者の自立をめぐってさまざまな情報がとられており, この情報 を十分に生かせば 精神障害者のリハビリテーションに関わる精神保健福祉行政は, かな りのすすみ方をするところであったはずである. ところが, 1964年(昭39)に起こったライ シャワー事件は,リハビリテーションに向きつつあった精神障害者処遇を一気に引き戻す ものとなった. 精神障害者リハビリテーションの動きは「精神病患者, 野放し論」として一括され, 精神障害者の処遇として入院治療の強化が叫ばれるところとなった.

こうしたなかで行 われたのが1965年(昭40)の 精神衛生法の大改正である.

この改正では,予定されていたように入院治療から在宅治療の道を開くために, 

通院医療費公費負担制度(第32条), 

保健所相談 ・訪問の実施と精神衛生相談員(現・精神保健相談員)

精神科嘱託医の設置(第42, 43条), 

都道府県精神衛生センター(現 ・精神保健セ ンター)の設置と相談指導のうち複雑困難なものを扱う(第7条)こととなったが, その一方 で, 通報制度の強化が行われた.

なお, 国立精神衛生研究所にはこの年に社会復帰部が設置され, それまで行ってきたデイケア研究を経常的に行える体制が整った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

結局、精神衛生法を改正する動きがあったのにも関わらず、血液利権を天皇家が牛耳るために画策されたライシャワー事件によって法律が逆戻りしてしまったということです。

この奥歯に物が詰まったような、不可解な改正内容となった、1965年の精神衛生法の改正。

精神障害者の地域移行支援を私利私欲のために遅らせたのがライシャワー駐日大使と日本赤十字社と天皇家だったということです。

ちなみに、このライシャワーの父親、カールライシャワー牧師は新渡戸稲造と東京女子大学を設立している人物です。

新渡戸稲造はエスペラント語を日本に普及させた人物でした。

血液利権を天皇家に一極集中させた悪事を隠蔽するために、精神科医療の事件としてクローズアップされているのがライシャワー事件なのです。

 

悪人たちは、狭いところで悪事を働いているのです。

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