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発達課題について:成長とは発達とは?そのプロセスを分解する

2018年11月28日 | 精神科看護

今回は発達理論について書いていきたいと思います。

なぜ、今回このような記事を書いていこうかと思ったかというと、看護学生指導ををしていると、看護展開、看護介入する上で、患者理解をし、問題を抽出するツールに看護理論を使います。

看護理論とは、看護介入する上での情報分析ツールで、情報を集め、分析し、判断する一連のプロセスを看護理論のデータベースを使って実施します。

そのデータベースに、「発達課題」というカテゴリーの項目が存在しており、学生はここが良く理解できていません。

ですから、曖昧な書き方でも書類上通ってしまいます。

おそらく指導側も理解できていないと思います。

私も、学生時代理解できていませんでした。

なぜでしょうか?

それは、「人間は人生において成長していくも、発達していくもの」

という定義があるにも関わらず、その「成長、発達の目的地、つまりゴールが人それぞれ、ばらばらである」

という矛盾を解決できていないからです。

目的地、ゴールがひとそれぞればらばらであるのなら、我々はデータベースを使って、「どのように展開していけばいいのか?」

という話になります。

例えば、エリクソンでは老人期、高齢期などは「統合 vs 絶望」のような発達課題があります。

しかし、世の中の高齢者、老人の「何を統合するのか?」「統合されるとどうなるのか?」を看護者自身が知りません。

(心理学者すら知りません)

もっと突っ込んで言えば、私たち自身が「統合された人物、人間、存在を知らない」のです。

せいぜい、偉大な経営者や、偉い人を指して「あの人は社会的にも成功して、人格的にも優れている」と言い、「統合された人」と言うのかもしれません。

しかし、仮にそれがエリクソンにおける発達課題の「統合性」にあるのであれば、我々庶民は、「社会的に成功できる人はごくわずか」であるという現実から、結果として「人生を統合することができない」ことになってしまいます。

また、「穏やかに過ごすことができることが人生の統合である」と説明するならば、80歳、90歳にもなって病院に入院してきて、手術や指導を受けている人たちを見て、私は到底穏やかには見えません。

なぜなら、入院患者からは

「早く楽になりたい」「家に帰りたい」「なんで私だけがこうなるんだろう」「入院がつまらない」

などといった、絶望的で人生を悲観しているような発言ばかりが現実的に聞かれるからです。

こういう高齢者を見ていると「老人期というのは絶望である」と看護学生は感じているのではないかと思います。

そして、「統合とは何か?」も知るはずもありません。

医学的、生物学的な快不快のレベルでしか展開できません。

「人間を見る」とは単に「食べていければいい」のでしょうか?

「病気・入院治療というライフイベントを通して、さらに素晴らしい人生に導いてあげる」ことも看護の喜びではないでしょうか?

発達課題を知らない、できないということは

「本質をはぐらかされ、誤魔化された看護展開を学んでいる」のと同じです。

もっと突っ込んでいえば、「発達課題」が分からなければ、「患者は同じように再発し、前回よりもひどくなって再入院してくること」も多いに在りうるのです。

なぜ人間は高齢者になって絶望するのか?年を取ればとるほど絶望的になったり未来に希望を持てなくなるのか?について説明していきたいと思います。

私たちは生まれると「知・情・意」の中の「情」をまず発達させていきます。

赤ん坊と母親との関係は「快楽・不快」⇒「喜怒哀楽」という複雑な感情へと発達していきます。

ここは、人間以外の他の動物を大差はありません。

しかし、清吾6か月を過ぎると「喃語」が始まったり、1歳なると1語文という「言葉」を発するようになります。

この「言葉の獲得」こそが「知・情・意」の「知の始まり」を表します。

私たちは、「言葉を獲得」し、自分の生きている社会が、「言葉によるもので構成された社会である」と気づくと同時に

自分が生まれてきた時には「言葉によらず、抽象的な”快・不快”という、”目に見えないものから成り立っている”ということ」について無意識のうちに理解します。

つまり、私たちの住む世界とは、「目に見えないものを言葉によって区別、分類している世界だ」と脳が発達することによって知っていきます。

「情」⇒「知」という順番に発展していきます。

そして、赤ん坊はやがて歩くようになり、さらに高度な「感情表現」を「情」と「知」の相互の発達によって獲得していきます。

より大きな、より強い「快楽、安楽」を求め始めます。

自分ひとりでは「高い次元の快楽を得る」ことは難しいため、高度な喜びを得るために、他者、社会とのかかわりが必要となってきます。

生活していく上で、社会とかかわっていく必要性を理解し始めます。

その第一接点が、母親や父親、兄弟などでしょう。

しかし、社会や他者とかかわっていくとどうしても「摩擦」が生じます。

それは、人間はそれぞれ個性をもって生まれてきますから、それぞれの人間が自己主張ばかりし始めると、「欲と欲がぶつかり合いが始まる」こともあるため、母子関係、家族関係、兄弟関係など小さな社会にでも「摩擦」を引き起こすのです。

その摩擦を減らす、なくすためのものが「規律やルール」と呼ばれるものです。

ここで「知・情・意」の「意」が芽生え始めるのです。

ここから、社会に出ていき、沢山のそして複雑で高度な「喜怒哀楽」を経験します。

さらに、国民性、文化・風習によって「意」は幾重にも生まれてきます。

「意」がないと、社会では生活できません。

「協調性がない」や「社会性がない」つまり自分勝手でわがままな人となってしまい、集団からはじき出されてしまうからです。

 

そしてさらに「意」を深めていくと、とある「普遍性」に気付きます。

「意」とは単に「所属する集団のルールや規律を守る」という低次元のものでなく人間としての「道徳、正義」を守ることができる人をが「信用」され「信頼される」ということに気付き始めるのです。

少なくとも、組織を維持するには、「社員が食べていけるように給料を払い続ける」という信用によって、

社員は組織、会社を「鬼のように残業させるけれども、食べていくことができるから」という理由で信頼して

毎朝、出勤してくるし、上司からの理不尽な指示や命令に従い、自分の貴重な人生の時間を労働力として企業に提供しています。

そういった「社会=集団」の中にでも、特に「信頼される人」が存在します。

 

A:そういう人は、ホリエモンのように「ルールさえ守っていれば、あとは何をやっても許される、出世昇進して沢山の人間を指示して動かせるような地位を得る、またはそのような権力を得ることや大金を稼ぐことが人生の成功だ」という考えを持つ人でしょうか?

それとも

B:松岡修造のような「仕事の結果=人生の結果」なんだから、仕事が楽しくなるまでとにかくやってみろ!仕事の悩みを話し合って、皆で解決していこう「お前ならできる!」という熱血さんでしょうか?

はたまた

C:「同僚や部下が、前向きに生き生きと仕事ができるように元気づけよう、話しかけてあげよう、その人にあった働き方、目指す人生プランを理解して達成できるようにサポートしてあげよう」としている人でしょうか?

 

おそらく私を含め、多くの人が、人生において、AかBの人にしか出会ってきたことがないのではないでしょうか?

私は「ホリエモン型のAタイプ」や「松岡修造型のBタイプ」と

「ただ流されて生きている:安定志向、無気力型のDタイプ」

にしか出会ってきませんでした。

 

これら「A/B/D」の人をあなたは「心から信頼」できますか?

こういった人たちに「最後までついていきたい」と思いますか?

「上下関係、給料など利害関係抜き」でこういった人たちと過ごしたいですか?

答えは「No」だと思います。

ホリエモンのような上司なら、「いつかは利用されるだけ利用され、責任だけ押し付けられて捨てられるのではないか?」

 

松岡修造のような上司なら「やりがい、やりがい、成長、成長とサービス残業ばかりさせられ、追い込まれて、うつ病になってしまうのではないか?」

と思うはずです。

何が言いたいか?というと、私たちが一般的に人生のゴールと言われている「高校大学を卒業し社会に出て、企業で働くこと」だけでは「A,Bタイプ」の上司しかいませんから、高度な「意」つまり「道徳や正義は身につかない」ことになります。

 

「起業して成功して金持ちになる」というゾゾ前澤を見ていて「高度な人間性」「高い道徳や正義がある人」に見えるでしょうか?

 

・なぜ、市民にルールを守らせる警察官が毎年毎年不祥事を起こすのでしょうか?

そして、現場の警察官以外の幹部と呼ばれる人たちは定年退職後、パチンコ関連や暴力団関係企業に平然と天下りするのでしょうか?

・なぜ、国民から選ばれた政治家や、数々の難関試験を乗り越えてきた高級官僚が、麻薬や売春・不倫や収賄など汚職に、毎年のように手を染めるのでしょうか?

・なぜ成功した経営者は引退せず、さらに企業を大きくするために社員をこき使い、社員及びその家族から訴訟されても平然つぃており、未だに金儲けや地位や権力ばかり追い求め続けるのでしょうか?

・なぜ、世の中の人たちは不倫をしたり、酒・タバコ・ギャンブルに溺れたり、オリンピック、ワールドカップ、ハロウィンやクリスマスなどといったお祭りにバカ騒ぎし酔いしれ、旅行や買い物で散財するのでしょうか?

 

それは、大人になっても一向に「知・情・意」の「”意”を成長させようとしていないから」他ありません。

大人になっても、「知」ばかりを伸ばしているのです。

「知」とは「業界、社内で通じる仕事の知識・スキル、人間関係などのコネクション」のことです。

社会全体が「知・情・意」の

「知=知識・常識、スキル、コネクション」

「情=喜怒哀楽、下半身(本能的)な欲望を満たすこと、上半身(脳、つまり文化芸術的)な欲望を満たすこと」

この「知・情」を伸ばすことによって「幸せになれる」という風潮を作り出しているから他ありません。

どれだけ、出世して上り詰めても、どれだけ起業して成功し沢山の社員を抱え、大金持ちになっても

そして、どれだけ大金を手にし、素敵な異性を手に入れて、豪邸に住んで、贅沢しても

明日、病気になったり、不慮の大きな事故に巻き込まれたりして、体が動かせなくなってしまったら、寝たきりになってしまったら、「知・情」のみによって得られたものから「喜びや愉しみ」を得ることはできなくなってしまいます。

高齢、加齢によって、各器官の機能低下は否めませんし、筋力が低下し、体力も徐々に落ちてきます。

当然、80代、90代になれば若いころのように「知・情」によって得てきたもので楽しめなくなってきます。

さらに70代などは、明らかに衰えを感じ始める段階ですから、「迷いに迷う年代」かもしれません。

「肉体が衰えて、体が古くなってきてから、人生とは何だったのか?」と気づくのです。

つまり、「知・情」によって得られ、満たされる欲望に陰りが見え始めたころに、やっと「人生とは何のためにあるのか?」と考え始めるのです。

しかし、長い人生において、「知・情」ばかり伸ばし、「意」つまり「道徳や正義」を伸ばさずきたため、「意」を伸ばすことを受け入れ難くなってしまいます。

「真面目に生きて、節制して生きて、一体何が楽しいんだ?!」

「人生、綺麗事だけでは渡っていけないよ」

と大半の人達は考えているのです。

 

「楽して生きる・楽して成功する」

「どれだけ欲望を叶えたかで人生の価値が決まる」

という考え方が常態化しているからです。

(「生活のためだけに、安定だけを求め、会社で朝から晩まで奴隷のように生きること」もある意味「考えることを放棄している状態」であるため楽して生きています。)

 

人生において、目的もなくただ「経済的な安定、周囲からの評価、富、異性、地位、名誉、権力」といった「欲望を満たすこと」だけしてきた人に「人生を変えろ」「考え方を変えろ」とは言っても寝耳に水なのです。

人生において幸せとは何か?と言えば

「なりたい自分なれる」ことであり

「いつも心が喜びに満たされ、感謝感激があること」

なのです。

つまり、「明日死んでも悔いがない」「10秒後に死んでも悔いがない」と思っていつも生きられることなのです。

 

発達課題の達成のために看護師ができることとは何でしょうか?

「残された家族、子供たちをどうしよう!?」

「世界中を旅行をしたかった」

「もっとたくさんの異性と付き合いたかった」

「らーめん屋をやってみたかった」

「必死に自分の代で築いてきた名誉・地位や権力を手放したくない」

「もっと美味しいものが食べたかった」

このようなものが「一過性のもの」であることを理解させることが、「発達課題への支援」です。

さらには


「死んだらどうなるのか?」

肉体的な苦しみや痛みだけでなく「霊的な痛み、苦しみ」に対して諭していくことが、「発達課題を成長させる支援」なのです。

私たちは、年老いていけば、肉体は確実に衰えていきます。

つまり、「肉体の喜びが感じられにくくなる」のです。

しかし、長い人生において、「肉体的な喜び」つまり「知・情」による喜びしか頑張ってきていない人にとって、「老後の人生」とは「つまらなく、味気ないものはない」かもしれません。

若い頃は「欲」で生きてこれば「愛」は分からないかもしれません。

「愛」とは「道徳」「正義」や「分別」によってでしか得られません。

・男女の性的な愛

・親子愛

・友愛

・愛社精神

などは「一時的な欲求を満たすだけの自己中心的な”愛情”」に過ぎません。

核心に迫るなら、「発達課題の支援」とは言い換えれば「愛について説くこと」でもあります。

そのためには看護師自身が「愛」を知らなくてはいけませんし、「愛」を実践していなくてはいけないのです。

そして、「愛」について書かれているものはこの世に「聖書」しか存在しません。

(仏教のように、輪廻転生をして人生をやり直せるなら、なぜ人は死ぬ間際に怖がるのでしょうか?痛みすら受け入れられないのでしょうか?)

ですから、発達課題の支援、そして人間の成長には「宗教」「信仰」は必要不可欠になることがお判りでしょうか?

宗教を避けて通れば、「道徳や正義」を持って生きる必要性がなくなってしまいます。

それは、人生がこの世だけで終わるのならば、「この世を謳歌すればいい。欲望を満たす、快楽を満たし続けてぽっくり死ねればいいのではないか?」という現世利益、刹那主義、快楽主義が正当化されてしまうからです。

しかし、実際、死ぬ間際の人達は「死」に対して怯え、「自分の存在とは何だったのか?」や「自分の価値、人生の意味」を知ることなく肉体的な病苦の痛み苦しみや心の「不安や絶望」に怯えながらこの世を去っていくのです。

今回は看護学生向きに「発達課題について」書くつもりでしたが、核心に迫る内容となってしまいました。

(さらに知りたい方は「こちら」をどうぞ)

高齢者の人生を回想したところで、「中身のない人生」虚しい人生なのです。

現実は「夢も希望もない」ことをごまかして生きてきた人生だったとなってしまいます。


「いつかは芸能人や有名経営者のように豪邸に住み、ちやほやされて、贅沢三昧したい」と思って生きてきた人にとって

「退院し、自宅や施設で生活すること」に何の喜びがあるのでしょうか?

発達課題の支援とは、「現実の直面化」であり、耐え得るものではないかもしれません。

 

それだけ看護師の仕事というのは、難しく遣り甲斐のあるものだと言えるでしょう。

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