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三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

庄城

2018-02-03 13:52:56 | 古城巡り
城名
 庄城
読み
 しょうじょう
別名
 庄浅間城
住所
 松阪市庄町
築城年
 元亀~天正始めか
築城者、城主
 岡小四郎か
形式
 山城
遺構
 郭、堀切、竪堀
規模
 東西10m 南北40m
一族
 岡氏か
家臣
 北畠家臣
標高 175m 比高 130m
歴史
 永禄12年の織田信長、大河内城攻めの時牧城も戦いに敗れ岡小四郎らは櫛田川の対岸の庄に逃れた。
 庄町郷土史によると年代が判明せぬが、庄町の櫛田川河畔で北畠の武士六騎と多数の織田軍が戦い北畠側は全員戦死したとある。今その場所に南無阿弥陀仏の名号石が建つ。
考察
 牧城で一度敗戦をした岡小四郎は北畠具親の要請を受けて庄に城を築いたのかも知れない。
書籍
 庄町郷土史
環境
 背後の山は標高が249mの本郷浅間山である。同じように浅間神社が祀られ、やはり尾根には堀切が備えられている。

現地
 松阪市庄町の浅間神社は集落を見おろす北の山の頂、標高175m、比高130mにある。
 西は広瀬・御麻生園集落・根木峠、東は射和、相可集落まで見通しのきく、少し山塊から飛び出した舌状で好位置にある。
 登頂の道のりは紀師神社駐車場から0.5Km程度で30分ほどで着く。
 その途中には切通・峠と思われる場所や切岸とも思える周囲とは傾斜の異なる場所、または虎口とも思える場所があるが何れも山城遺構とするには確証がない。
 尾根に上がり切るとほぼ水平移動になる。しばらくすると水平の尾根を遮断するように堀切が現れる。堀切は南側へ竪堀となって続く。その寸法は堀巾が6m、底巾が2m、長さが15m以上を測る。竪堀のすぐ脇には崩落した跡がありまるで2条の竪堀を演出しているようだ。
 この堀切及び竪堀の存在から山城を推定しないわけにはいかない。この先の浅間神社の曲輪の存在は神社の為のものというよりは、曲輪を神社に転用したのではないだろうか。神社に堀切は必要ないのではなかろうか。
 曲輪について整理すると堀切からの距離が30mの所にあり、曲輪はほぼ円形を成す。
 その大きさは東西が9m、南北が7m程で小さい。その西側に舌状に6mのテラス形状の曲輪がある。
 南側には巾約2mの帯曲輪が付属している。その縁は石積みがされている様子が伺われる。
 円形の主郭に対して西、南に付属する小さい曲輪があり狭い尾根の面積を稼ごうとしている。
追記;
 庄町に「庄町郷土史」がありヒントになるような記述がある。しかし、史料としての価値については定かではない。
 それによると、多気町牧に「牧城」があり城主は岡小四郎と言われている。信長の侵攻の時戦いに敗れ住まいを追われ松阪市庄町に移住した、とある。
 牧城の主郭部は単郭で舌状の平坦地と尾根側に堀切をもつ単純な山城である。また、庄城も単郭と堀切で主な構造を成している。
 この二つの城は近辺の北畠氏の関係城跡では類似の形態である。一概に限定することは危険が伴うが推理の一つとして同人物が 関係した城であると考えてもよいのかも知れない。
 庄町の字名に陣出、武士ケ谷、馬場が残る。

  庄浅間山を東南から見る山城想像図

 庄城縄張り図

  

 ヤマレコ記録

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1371988.html

 

 

 

 


蓮華寺城

2018-01-25 10:21:31 | 古城巡り

スライドデジブック

城名
 蓮華寺城
住所
 度会町棚橋

築城年(延元年間?)

築城者 城主 棚橋大納言僧隆経(北畠家臣)

形式
 山城
遺構
 郭、堀切
規模
 上の城 東西10m×南北80m
 下の城 東西30m×南北25m
標高 160m 比高 90m
書籍 追記分;北畠氏の研究(大西源一)
環境
 宮川に突き出た丘陵の頂にあり眼下の宮川や街道を監視するには絶好の場所である。
 西数百メートルの所の宮川縁には牧戸城があったとされる。又眼下の棚橋の西入口辺りには棚橋城があり、東西で蓮華寺城の守りを固めていた様子も伺える。
現地
 山全体がシダに覆われており遺構を確認しにくい。猪に出くわす可能性あり。
考察

 蓮華寺が力を持ち外敵から身を守るために城を必要とした時代があった。戦国時代以前の城かも知れない。

感想
 遺構は狭い曲輪と堀切で構成されている。古いタイプの様子である。
 二つも持たなければならなかったことが興味を引く。寺の僧の上下階層から必然的にできたものかも知れない。

地図

追記

北畠氏の研究(大西源一著)によると、

 延元二年(1337)足利尊氏が伊勢に兵を進め、4月1日は東黒部の浜で北畠軍・加藤定有と戦い、同2日は大口浜に進出している。これに対峙して北畠軍は愛洲氏棚橋大納言僧都ら数千の兵を率いて大口浜や、法田、立利縄手に進軍した。

 棚橋大納言僧都とは僧隆経で北畠親房と通謀し醍醐三宝院末寺である蓮華寺(大神宮寺法楽寺)を占領し、そこに城を構えていたのである。

と書かれている。

以上から築城時期と城主が浮かび上がってくる。

 

 

 


立岡城

2018-01-22 22:36:01 | 古城巡り

 

城名
 立岡城
住所
 度会郡度会町立岡
築城年
 室町時代
築城者 城主
 不明
形式
 平山城
遺構
 郭、堀切、竪堀、井戸
規模
 35m×75m
標高 67m 比高 20m
書籍
 三重の中世城館 日本城郭体系
環境
 宮川の河岸段丘に開けた立岡集落の西方で標高67mの狭い丘陵頂部を削平して主郭を成している。
現地
 立岡集落の墓地の西の山が城跡である。西に大河内谷池を従え東に谷を配す小規模だが理にかなっている適地である。南から東に水田や茶畑を一望する。
 主郭の北に一段高く基底幅の広い土塁を備えることや、その背後に城内で唯一最大の堀切を備えることから北の尾根からの防御を意識した主郭の造りである。
 3条の竪堀は小規模な城には不釣り合いなくらい完成度が高く規模も大きい。この竪堀は1Kmほど西にある長原城でも見られることから二つの城には何らかのつながりがあるものと思われる。
 主郭に取り付く坂状の土橋は岩を削り込んだもので主郭に向かって左側をⅡ郭に右側を井戸郭にしている様子は見事な設計である。
考察
 小規模な城だが防御の施設はそれぞれが完成度が高く先進的な思想によって造られている。宮川流域の中でも最も多くの防御施設を持った山城であり、模型やイラストのサンプルとしてもふさわしい、教科書的な山城である。
感想
 地元の人たちの整備によって見学がし易くなり山城の魅力が大勢の人たちに伝わるよいきっかけの城になっていくような気配がする。

地図

詳しくは 👆 クリック!


経ヶ峰

2017-12-27 17:29:50 | 古城巡り

経ヶ峰という山がいくつかあるようだ。

内二つは既に訪れた。

一つは津市安濃町、美里町、芸濃町が接する山頂にある。標高890m。

かつては”安濃ケ岳”と呼ばれていた。

その昔、長野家家臣・進藤左金吾が山頂に「大般若経百巻」を埋経したことから経ヶ峰と呼ばれるようになった。

(現地山麓の経ヶ峰ハイキングコース案内図より抜粋)

 

もう一つは伊勢市朝熊町の朝熊山にある。標高540m。

近世に至るまでこの辺りは杉や桧の巨木がうっそうと茂り、昼なお暗いほどであった。

明治27年老樹の根元から承安三年(1173)銘の陶製経筒が出土し、経塚の存在が知られるようになった。

(現地朝熊山経塚説明板より抜粋)

 

何れの山も経筒を埋めたことによって経ヶ峰と呼ばれるようになった。

 

そして津市の経ヶ峰はその周辺が「経ヶ峰城」と呼ばれるようになった。

一方伊勢市の経ヶ峰はすぐ傍の朝熊ヶ岳が「朝熊ヶ岳城」と呼ばれるようになった。

古城めぐりが生きがいの吾輩としては気になる存在である。

👆 グーグル地図による津市の経ヶ峰に示される「経ヶ峰城跡」

👆 グーグル地図による伊勢市の経ヶ峰近くの朝熊ヶ岳に示される「朝熊ケ岳城跡」

 

 

津市の経ヶ峰に示される「経ヶ峰城跡

伊勢市の経ヶ峰近くの朝熊ヶ岳に示される「朝熊ケ岳城跡

 

城はあったのだろうか。城と呼ばれる所以は何なのだろうか。

両山とも展望が効くことから見張台・狼煙台の可能性は高い。

見張台や狼煙台を目的とする砦があったとしても不思議ではない。

 

或は経塚を守る、祀る、祈るために人が介在しそのための施設が

設けられて砦化したとも考えられる。

 

だが埋経信仰が盛んだった時代と山城が必要だった時代の時間軸の差が

気になるところでもある。

 

朝熊ヶ岳城跡は大きく改変されている。

経ヶ峰城跡も少なからず改変されているようだ。

結果、残念なことに両方とも城の痕跡は 見つけられなかった。

伝承としての城跡であろう、と結論付けた。

 

 

グーグル地図に城跡の表示が出て各種の城リストには記載がないという

視点から見た場合、気になるものがもう一つある。

伊賀市の霊山に示される「霊山城跡」である。

 

霊山は発掘調査によって山岳寺院「霊山寺」があったことが明らかにされた。

しかし、霊山城については定かではない。

霊山寺は天正伊賀の乱で織田軍に焼き払われたという。

その際、僧兵が防御のために戦ったという想像はそう外れていないと思われる。

このことが霊山城の伝承につながったのではないだろうか。

経ヶ峰城跡や朝熊ヶ岳城跡とはいきさつが異なる点である。

 

ある山の頂が

9世紀~12世紀~;山岳寺院として崇め奉られた。

12世紀頃~;埋経信仰が盛んとなりご当地の適度な山の頂はその象徴となり得た。

14世紀;南北朝時代となり各地で戦が始まった。最初の防御の考え方は高さであったことから、

   ご当地の適度な高さをもった山は「山城」を築くのにうってつけであった。この時、

   ご当地の適度な高さをもった山は既に過去から崇め奉られて山岳寺院があったり

   経塚があったりしたが、そのこととは直接関係せずに詰城としての必然から山城は

   造られていった。

1600年;関ヶ原の戦い。以降徳川政権により山城の必要性は無くなった。

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


経ヶ峰城跡

2017-12-26 13:27:52 | 古城巡り

スライドデジブック

津市に経ヶ峰城跡がある。

登山口の案内板によると、

長野氏家臣・進藤左金吾が大般若経百巻を経ヶ峰に埋めたいう。

しかし、経塚遺構や遺物は未だ未発見である。

又、城の所以はよくわからない。

以下は想像である。

長野家の家臣(進藤左金吾かも知れない)が見張台又は狼煙台として

この山頂に人を常駐させる施設を設けて、情報網の拠点としていたのではないだろうか。

奥まった長野城から北勢地方の監視は経ヶ峰が邪魔をして不可能である。

平野部に近くて標高の高い経ヶ峰に見張台を置くのは必然であった。

 

 

 


朝熊ヶ岳城探索

2017-12-25 13:40:50 | 古城巡り

朝熊ヶ岳城の探索

👆 全体の行動軌跡 計5Km程度

伊勢市朝熊町に朝熊ヶ岳がある。

グーグルの地図では同所が朝熊ヶ岳城跡となっている。

ここに山城があったのだろうか?

これは行かずにいられない!

 

探索前に奥の院へお参りする。

👆 この門をくぐると別世界に入るという。

👆 九鬼嘉隆の五輪塔

👆 卒塔婆をたてる信仰習俗が特徴

 

朝熊山経ヶ峰に所在する平安末期の経塚遺跡を探索

👆 国の史跡となっている。

👆 乱立する中で規模の大きいもの。

👆 崩れ行くもの。

👆 ひっそりと佇むもの。

👆 林の中には数か所の凸凹。

👆 何を意味するのか。

👆 荒廃するもの。

1173年銘の経筒が出土した。

800年前の埋経信仰の証となった。

 

そして、朝熊ヶ岳へ向かう。

👆 標高555m

👆 現在は八大龍王尊が祀られている

👆 頂部は大きく改変されている。

👆 鳥羽の眺望、伊勢湾の大半が監視できる。

 👆 霊山としてあがめられた当時の朝熊山の様子

 

埋経信仰で経塚を守る、祀る、祈る人たちがいた。

古来からの山岳寺院の形がここにもあった。

中世伊勢地方の数々の戦いの中で、朝熊ヶ岳から朝熊山経ヶ峰にかけて、北畠氏や九鬼水軍の見張番所があったのかも知れない。

山城の痕跡はなく経塚遺跡と金剛證寺がその背景となる。

 

今となっては伝承の城である。

 

 

12月27日 追記

伊勢市史第6巻考古編は伊勢市の遺跡を詳細に記している。

朝熊山経塚は中でも第5節を設けて詳しく記している。

城館においては、松村氏館、磯城、中久保屋敷、寺山城、日向館、村山城、黒瀬城が小規模な城館であっても記されている。

にもかかわらず朝熊ヶ岳城については一切記載がない。

伊勢市は朝熊ヶ岳城を認識していない。

 

朝熊山経塚と朝熊ヶ岳城は別の件として取り扱うのがよさそうだ。

 

 

 


岡本城と萩野城

2017-11-27 23:04:42 | 古城巡り

二つの城の距離は200m、しかしその歴史は200年の差。

そして、第三の郭群。

一体、どうなっているんだろうか!?

 👇 南から遠景(合成写真)

 

位置関係を軌跡で見ると 👇

 

 スライドショー

城名
 岡本城
住所
 津市芸濃町岡本
築城年
 13世紀初め
築城者 城主
 岡貞重
形式
 山城
遺構
 曲輪、土塁
規模
 東西120m×南北60m
一族
 若菜五郎盛高に属する
標高 50m 比高 10m
歴史
 若菜五郎らと元久元年(1204)に乱を起こし落城した。
経緯
 平家残党は20年の雌伏を経て、将軍後継問題で揺れる幕府の動揺に乗じて建仁3年(1203年)12月、若菜五郎盛高が軍勢を率いて伊勢国の守護である山内首藤経俊の舘を襲撃し反乱の兵を挙げた。(三日平氏の乱(鎌倉時代))
書籍
 三重の中世城館
 岡本の岡八郎貞重および若菜五郎ら平家の一党が元久元年(1204)に乱をおこしここに立てこもり、京都守護の平賀朝雅の軍により、一党80人が切られた。口伝によればここより落ちて間道伝いに高野尾の三月田に出て自殺したという。
 芸濃町史・上巻(P238)
 岡本城は岡本の集落の北西方、萩野との境に近い丘陵ににある。「勢陽五鈴遺響」によれば、元久元年の三日平氏の乱の際、平氏の一党、岡八郎貞重父子などがたてこもった城という。城跡は、安濃川左岸の丘陵地帯の中で沖積地に近い標高55mの比較的小さな丘陵の頂部に立地する。中央に東西にのびる土塁が残り、やや間をあけて南にこれに直行する方向の土塁がある。これらの土塁によって区画された四つの郭が遺存している。
感想
 三日平氏の乱(鎌倉時代)の城
 西方の萩野城は15世紀の城、この岡本城は13世紀の城、築城時期は200年程の隔たりがある。しかし、時を超えて距離感だけで想像するとやはり二つの城は有機的な繋がりがあったと考えるのが自然である。

 両城の中間位置よりやや東方に第三ともいえる郭群がある。これがその解を解く手掛かりになるのかもしれない。他の山城では見かけない、三点関係のここだけの風景になっていることが注目である。

 

 

城名
 萩野城
住所
 津市安濃町萩野
築城年
 応永年間(1394~1427)
築城者
 萩野氏
形式
 山城
遺構
 郭、虎口、削平地
規模(三重中世城館)
 60×50m 面積は650坪 城跡は106.5m×20mの地と、25m×28mの広さの地を、巾1mの土塁で囲み、その中の中央に18×11.4mの地を土塁で囲んだ地などが残されている。
城主
 萩野弥左衛門
一族
 北畠氏家臣
標高 70m 比高 30m
歴史
 応永の頃(1394~1427)、萩野弥左衛門がここに居住し、北畠氏に属していたが其の後、廃せられた。又一説には、永享年間(1429~1440)に国司北畠満雅が兵を起したとき、関の一党が一味して、ここに立てこもったという。
書籍
 三重の中世城館 芸濃町史
 芸濃町史・上巻(P236)
 萩野城は「伊勢名勝志」によれば応永年間に北畠の臣、萩野弥左衛門が居た所とされ、萩野字大屋垣外にあり面積650坪で周囲に石塁をめぐらしているとされる。しかし、同所にそのような遺構は遺存しない。地元の古老によれば安西神社東方の標高約70mの丘部頂主郭周辺に所在したという。現在は削平されて忠魂碑の建つ広場となり遺構は遺存しないが地形的にも納得でき得る場所である。
環境
 安濃の平野部の真ん中にある丘陵の北方に位置する。同じ丘陵にはやや南東に安濃城があるがこの時期にはまだ出来ていない。そして直近には岡本城と接する位置にあるが関係を明らかにすることはできない。
現地
 公園として改変されているが大きくは城郭を想像する事ができる。主郭には虎口と見張台があったようだ。登城道の左右には削平地があり郭として機能していたと思われる。主郭背後の高まりは遺跡とされている。
考察
 特筆すべきは萩野城と岡本城の位置関係である。背中合わせの位置にありながら関係は明らかでない。
感想
 北畠満雅反乱の時代の城
 東方の岡本城は13世紀の城、この萩野城は15世紀の城、築城時期は200年程の隔たりがある。しかし、時を超えて距離感だけで想像するとやはり二つの城は有機的な繋がりがあったと考えるのが自然である。
 両城の中間位置よりやや東方に第三ともいえる郭群がある。これがその解を解く手掛かりになるのかもしれない。他の山城では見かけない、三点関係のここだけの風景になっていることが注目である。
地図



霊山城

2017-11-26 12:44:52 | 古城巡り

れいざんじょう

 スライド 霊山城 霊山城

霊山城

 

 👆 グーグルマップにおける霊山城跡の表記

早速、訪れてみる。

そこは想像以上の場所。

9世紀の山岳寺院址。

16世紀、伊賀天正の乱。

僧兵は死力を尽くして寺を守ろうとした、と思う。

その瞬間、寺は城塞となった。

しかし、焼失。

後、麓に「霊山寺」は再建され、

山岳寺院址と霊山城伝承が残った。

 

 

 


野呂氏館

2017-11-21 21:33:47 | 古城巡り

 

野呂氏館  スライド

城名
 野呂氏館
住所
 津市芸濃町椋本
築城年
 時期は、出土した常滑焼大甕の特徴によって16世紀後半のものと考えられる。
築城者
 野呂氏
形式
 居館
遺構
 郭、土塁、空堀
 蒸風呂の燃焼部と考えられる炉遺構は県内でも初めての発見。
規模
 東西80m× 南北90mほどの方形(三重の中世城館)
 東西300m×南北200m(日本城郭体系)
城主
 野呂民部少輔
一族
 雲林院出羽守の家臣
標高 80m 比高 15m
歴史
 雲林院氏を亡ぼすために織田信包が謀って、天正8年(1580)に雲林院氏によって野呂氏は滅ぼされた。
経緯
 雲林院氏の家臣であった野呂氏の居館とされるが、詳しいことは不明
書籍
 三重の中世城館 日本城郭体系
環境
 椋本の河岸段丘の縁に築かれた。南に安濃川と安濃の平野部を望み、西に城主、雲林院氏の居城を望む。
開発前の様子(三重の中世城館より)
 館は低い台地にあって、深い堀を廻りにめぐらし、更に内堀を巡らしている。現在は、西に巾3mの堀があり、東は巾6m、深さ5mの空堀となっており、北側にも空堀がある。北西部は宅地化され、館跡は高さ2mの土塁にかこまれ、その部分の面積は360坪で、畑となっている。
開発前の様子(日本城郭体系より)
 この館は最西部の郭には巾10m、深さ5m近い外堀を伴い、また、中央部の郭には見張台状のものもあって、丘城としての構えを見せていて交通の要衝を押える室町時代の土豪の居館にふさわしい規模のものである。
現地
 前出の開発前の様子より開発が進み、北側の土塁は削られ堀も埋められ見張台状のものは削られ、記述の様子は現地で確認することが困難である。
 開発が行われている西側地域より、東方向の藪の中に潜む郭、空堀、土塁などが現在でも確認することができるが、これらも野呂氏館に関係する遺構であると考えられ観察するに値する。
考察
 三重県で初めての蒸し風呂の発掘は、当時の有様を知ることになり中世武士の日常を窺う上で指標になるといえる。
感想
 「調査対象外の館跡中心部まで開発が進んでいったことで、堀や土塁の痕跡がほとんど残っていない状況となった。」こうやって、遺構はどんどん無くなっていく。
地図

 <!-- 野呂氏館 -->

            


椋本城

2017-11-21 14:03:24 | 古城巡り

 

椋本城  スライド

 

城名
 椋本城
読み
 むくもとじょう
住所
 津市芸濃町椋本
築城年
 「正道のWebサイト」を参照すると白河天皇の時(1072~1086)築城となると忍田城の築城時期と同じとなる。
築城者
 伊藤氏
形式
 山城
遺構
 郭、堀切、土塁、井戸跡
規模
 東西75×南北60
城主
 伊藤氏  後、野呂豊後守か
標高 110m 比高 40m
歴史
 「正道のWebサイト」参照
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=hiG3sbLVXIAJ&p=%E6%A4%8B%E6%9C%AC%E5%9F%8E&u=itohmasa.web.fc2.com%2F
 庵芸郡椋本城は白河天皇の時、伊藤貞好なるもの居る(五鈴遺響、勢陽雑記拾遺)と。
環境
 忍田城まで3.5km(有視界距離)
現地
 低く細長い丘陵地に南を睨むような縄張りで城はある。
 安濃川や関への街道を挟んで忍田城と反対位置にある。
 築城時期が同じということを考えに入れると両城は安濃の平野北部と関への街道を守る同じ機能を持たせた城ということになると思われる。
考察
 時の政権が忍田城の忍田氏と椋本城の伊藤氏にこの地を治めるよう命じ、両城は有機的な関係を持って存在したのではないだろうか。
感想
 史料が少ないが城自体はまだ形をある程度保っているので訪城はするに値すると思われる。
地図