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三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

大紀町の城

2019-06-28 14:05:42 | 古城巡り

 

 

阿曽城 大紀町阿曽 具親挙兵時に戦死。
野後城 大紀町滝原 三瀬城の支城。
林氏館 大紀町金輪 不明。林雑記の館。
乾氏館 大紀町金輪本郷 不明。乾兵部の館。
崎城 大紀町崎 北畠家家臣。三瀬の変で戦死。
大内山城 大紀町小川口 山頂にあった。
柏野城   宮川流域の遺跡を歩くに記載(田村陽一)
阿曽元屋敷 大紀町阿曽 山崎大炊之佐の館か
中野城   大内山氏の出城か
浅間山砦 大紀町  

 

 

 

 

 


阿曽元屋敷

2019-06-28 13:54:04 | 古城巡り

 

 

城名
 阿曽元屋敷
読み
 あそもとやしき
住所
 度会郡大紀町阿曽村出
築城年
 永禄11年(1568)10月~
築城者 城主
 山崎大炊之佐(おおいのさ)
形式
 居館、田畑
遺構
 曲輪、屹立壁、水堀(川)
規模
 東西120m×南北60m
一族
 兄(山崎式部少輔)
家臣
 北畠家臣
標高 113m 比高 2~10m
歴史
 山崎式部少輔・大炊之助は永禄12年(1569)の大河内城籠城戦に参陣している。(勢州軍記)
 主君北畠具教が天正4年(1576)織田信長に謀殺された時、兄、山崎式部大輔は主君と共に三瀬城にあり、主君に殉じた。
書籍
 三重の中世城館 大宮町史
環境
 北1Km   の山頂に阿曽城がある。 阿曽弾正という阿曽城主との関係性が不明確である。
 当時田畑に開墾、反別凡そ五反分余、後ろは川を以て周囲なり。地面より屹立すること七・八尺は丈あり。
現地
 
考察
 
感想
 
備考
 大内山城-7Km(1.5Hr)-崎-7Km(1.5Hr)-阿曽元屋敷-10Km(2Hr)-三瀬館
地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


崎城

2019-06-28 01:12:57 | 古城巡り

 

☝ 中世の頃、城は笠木川と大内山川にはさまれた中州にあったという。標高差に陰影をつけたソフトで見るとわずかにその様子が伺える。現在、その様子はうかがい知れないが図のような中州を想像すると、なるほど要害の地であったという記述もまんざらでもないのかもしれない。

☝ 崎城の航空写真による様子

☝ 北から。1.5~2mの石垣で囲まれている

☝ 大内山川の上流側の屹立。草に覆われた石垣。当初は土塁だった。

☝ 上流側の隅。まるで船の切先を想像した。

☝ 庭に通じる門。

城名
 崎城
読み
 さきじょう
住所
 度会郡大紀町崎
築城年
 寛永14年(1637)
築城者
 山崎権太夫守正
形式
 居館
遺構
 曲輪、石垣、内空堀、内枡形跡
規模
 東西90m×南北60m
家系
 山崎式部大輔(兄)(三瀬)ー大炊之守久(弟)(阿曽村出)ー権太夫守正(崎)ー長猪之助ー守正ー守道ー守長ー包守ー衛忠ー盛徳ー守義ー義守ー徳守ー曾氏ー ー - ー
家臣
 北畠家臣
標高 140m 比高 2~3m
歴史
 山崎式部大輔・大炊之佐は永禄12年(1569)の大河内城籠城戦に参陣している。(勢州軍記)
経緯
 三重の中世城館によると以下の記述がある。
 主君北畠具教が天正4年(1576)織田信長に謀殺された時、山崎式部大輔は主君と共に三瀬城にあり、主君に殉じた。
 弟山崎大炊之佐、後を継ぎ、大内山御阿曽村村出に住す。衆人元屋敷と称し、当時田畑に開墾、反別凡そ五反分余、後ろは川を以て周囲なり。地面より屹立すること七・八尺は丈あり。
 三代権太夫守正、寛永14年(1637)に至り家来19家を伴って当地に移住す。独礼格士族を拝命する。
 現在の山崎氏宅はその時に構築されたものだが、当時は大内山川、笠木川の中州にあって要害の地であった。
 天下統一後も山崎氏は2百数十年、連綿と継がれ地元の実力者として大いに活躍され、現在に至る。
書籍
 三重の中世城館 宮川流域の遺跡を歩く 山崎家歴系統概略記事   権太夫屋敷の紹介 「戦国時代の館だった」夕刊三重
環境
 三重の中世城館が指摘する「大内山川、笠木川の中州にあって要害の地であった」があらわすように平地の少ない崎村の中にあっては防御の機能を備える自然に与えられた適地であったと考えられる。
現地
 しかし今はその様子を見ることはかなり難しい。苦肉の策としてカシミールのソフトを使ってかろうじてその様子を想像した。
考察
 三瀬館から南西に伸びる熊野街道に並ぶ城。野後城-阿曽城-阿曽元屋敷-浅間山砦(柏野城)-崎城-大内山城となる。崎城は熊野街道をおさえるルートの一端を担っていた。
感想
 各学識者が研究対象にしたいと考える貴重な史料だと考えられる。松阪大学の上野教授が表現されるように「全国で唯一の現存例」は現在も尚良好な状態で保存されている。現在はまちかど博物館になっている。
備考
 大内山城-7Km(1.5Hr)-崎-7Km(1.5Hr)-阿曽元屋敷-10Km(2Hr)-三瀬館
地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大内山城

2019-06-28 00:02:29 | 古城巡り

 

 

城名
 大内山城
読み
 おおうちやまじょう
住所
 度会郡大紀町大内山川口
築城年
 不明
築城者 城主
 大内山但馬守興信
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、石垣(年代不明)
規模
 (主郭部)東西10m×南北8m
家臣
 北畠家臣(重臣)
標高 250m 比高 60m 
歴史
 大河内城の籠城の際には大内山但馬守も参陣した。(勢陽雑記)
経緯
 大内山但馬守光成討死;天正4年12月4日多気城 (大宮町史)
書籍
 伊勢の中世 三重の中世城館 大宮町史
環境
 大内山川と梅谷川の合流地点の谷底平地を北に見おろす山地の尾根にある。
 南山麓に八柱神社がある。
現地
 古い祠が祀られ、せまい平坦地の北東に石垣状のものがみられる。この石垣は当初のものか祠の設置に伴うものか年代は不詳である。
 興信が大檀那となって建立された中野の汲泉寺には、有形文化財の永正10年(1513)銘の「雲板」があり、この寺の盆踊りには前後に出陣と凱旋を型どった行列が行われている。
 汲泉寺には大内山但馬守一族の墓がある。
考察
 大内山阿曽城主と記されることが多い。阿曽城は阿曽弾正が城主とされている資料も多く、同一人物か否か判明できない限界が現れている。
感想
 未制覇の城。麓の館跡の検証と共に中野城との関係性など事前の調査が欠かせないと考える。
大内山但馬守館跡の推定地①
 村内に中世の集落を求めるとすればその遺物量から考えて小川口、中野地区が一番妥当である。この二つの地区には大内山但馬守の伝承が集中して残っている。中野地区に残る馬場跡、屋敷跡などである。
 馬場跡は幅約2m、長さ100mの直線道路で残る。その道が馬場跡とすると近くに但馬守の屋敷が存在している可能性がある。
 その候補地は、馬場跡の南西25mに存在する地割である。東西約30m×南北約60mで高さ0.5mの土塁状のものが北と西側に残っていることとその中から発見された室町時代の遺物の密度が濃いことである。
 大内山川が南に大きく蛇行した内側で川の浸食を受けにくい屋敷地として問題ない。
大内山但馬守館跡の推定地②
 もう一つの但馬守の屋敷地の候補地は小川口である。江戸時代に大内山七人の乾氏、木曽原氏の屋敷地があった場所でもある。
 小川口を但馬守の屋敷地の候補に挙げたい。理由は中野地区と同様に室町時代末期の遺物の量である。多数の天目茶碗片、青磁器が混じる。集落のすぐ南側には中野城が存在する。中でも小川口の中央を走る道路の西側の川近くの畑から室町時代の遺物密度が濃く鎌倉時代の山茶碗の口縁も採取されている。
推定地の考察
 両地区に共通していることは、どちらも山側を背にし三方を大内山川や支流に囲まれた天然の要害の地である。現在では水量も少ないが今から400年以上も前の大内山川や支流の水量はもっとあったと考えれば城ほどの防御性は無いとはいえ両地区の集落の入口に木戸を構えれば陣地として活用できたはずである。
 両地区はツヅラト峠から、或は荷坂峠方面から進入してくる敵に対して迎え撃つ場所としてはまさにふさわしい場所である。
 450年前の戦国武将ならきっとこの地を選ぶに違いない。
備考
 大内山城-7Km(1.5Hr)-崎-7Km(1.5Hr)-阿曽館-10Km(2Hr)-三瀬館
地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


浜島城

2019-06-24 09:59:10 | 古城巡り

☝浜島城遠望

☝半島状の浜島城

☝虎口(左右土塁)

☝薮の状態

☝大壁

☝曲輪に備わる土塁 

城名
 浜島城
読み
はまじまじょう
住所
 志摩市浜島町浜島
築城年
 不明
築城者
 小野田氏
形式
 海城
遺構
 曲輪、土塁
規模
 東西35m×南北200m
城主
 小野田筑後守
家臣
 九鬼家家臣
標高 15m 比高 12m
書籍
 三重の中世城館
環境
 浜島湾に突き出た極細の半島状丘陵である。浜島湾はもとより英虞湾を守るに最適地となる。
現地
 半島状丘陵の北側は当時は海であったと考えられる。
 陸地に続く北の先端部に虎口と両脇をおさえる土塁が確認できる。それ以外、現在、竹藪で全体像はつかみきれない。薮漕ぎの小道具は必須である。
 丘陵には3つのピークがあり、それぞれが曲輪であったと思われる。ピークの間には堀切底を生かした曲輪が3か所ほどある。全体的には湾の外側に大土塁や壁を備えていると考えてよい。敵勢力に対して、又防風、防潮の効果も狙っていると考えられる。
考察
 浜島湾と英虞湾を守る南西側の防御に重点を置いた海城と推察した。
感想
 小型の海城として、太平洋側に点在する海賊衆の海城として一見できたことは今後の参考になる。
地図

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南張城

2019-06-23 15:24:37 | 古城巡り

☝改変された主郭部

☝西側尾根の削平地

☝北東尾根の段差

☝段差にある石積

☝切通し

☝堀切

☝土塁 

 

城名
 南張城
読み
 なんばりじょう
住所
 志摩市浜島町南張
築城年
 不明
築城者
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、土塁
規模
 東西110m×南北20m
城主
 不明
標高 64m 比高 26m
書籍
 無し
環境
 北の山裾を流れる南張川は西へ迂回してから太平洋へ流れ出る。まるで水堀である。南側の太平洋に面する崖は水面からほぼ垂直を成している。陸の孤島と言っても間違いでない状況の要害である。
現地
 山頂の主郭部は公園化によって改変され当時の様子は残念ながら推察できない。北東側の尾根上の遺構は当時の様子を残していると考えられる。他の城には見られない遺構の配置など一見の価値がある。
 主郭と北東部の曲輪をつなぐ階段状の小さな曲輪の北側には石積の様子も伺える。
考察
 海城といってもいいかもしれない。状況からは海をおさえる城と考える。ところが、主郭部が改変によってなんら推察する情報が得られないことで北東に伸びる遺構についても考察はしないことにする。
感想
 今後、太平洋に面する中世の城を数多く観察した上で、海をおさえる武将が造る城について総括ができればと考えた。その時この城についてもう少しましなコメントができよう。
地図

 

 


加津良島館

2019-06-18 23:04:12 | 古城巡り

 

☝ 屋敷跡の下段石垣

☝ 崖上の土塁と小削平地

☝ わずかだが削平地

☝ わずかだが削平地

☝ 石で補強した痕跡

☝ 山頂のくぼみ

☝ 島中央の帯曲輪

☝ 勝手に名付けた「亀岩」

☝ 北曲輪の空堀

☝ 北曲輪の虎口

☝ 北曲輪周辺

☝ 屋敷跡2段目の石垣

☝ 不思議な遺構

 

城名
 加津良島館
読み
 かつらしまやかた
別名
 葛島館
住所
 三重県度会郡南伊勢町田曽浦
築城年
 不明
築城者
 加津良島氏
形式
 島城
遺構
 (麓)館跡、不思議な遺構 (南部)郭、土塁、塹壕 (北部)郭、虎口、空堀
規模
 (麓・館跡)15×30m (南部・主郭)10×15m (北部・出曲輪) 10×30m
城主
 加津良島太夫房
一族
 愛洲氏一族
標高 南部・主郭、見張り台(73m) 比高 73m
歴史
 鳥羽の法楽寺を侵略した(田中文書)
経緯
 南朝に属す海賊
書籍
 三重の中世城館 伊勢の中世
環境
 縄文時代の葛島遺跡がある。注1
現地
 田曽浦の港から船で5分で浜に着く。
 五ケ所湾の入り口を抑えるには絶好地である。また、外海に出る基地としても最適地である。
 島の南から西にかけて複数(6か所ぐらい)の見張台と思わしき構造物を見た。規模は小さく2名くらいの居座る面積しかないが削平地と風や視界を除ける土塁の組み合わせのよく似た組み合わせである。塹壕の趣である。
 石を組合わせた様子が島のあちこちに点在する。それぞれが何なのかを推定するにはあまりにも形が崩れているが、貴重な石を有効に利用しようとする思いだけは伝わってくる。
考察
 愛洲氏を中心に在地武士団がネットワークを組み五ケ所湾を警固したことが伺われる。
感想
 西側の主水道に主眼を置きながらも南、北にも見張台を置いている。東のこの島唯一の谷を利用した館跡は浜からも近く、外海の激しい風雨からも逃れられそうな絶好の位置にある。谷の水源も利用したと思われる。
 北の出曲輪は五ケ所城や田曽城を向いており、のろしなどの信号所の役割を考える。
注1
 指摘している葛島遺跡と合致するのか確証はないが、不思議な遺構を見た。時代や、用途は計り知れない。古墳にしては盛り土や石組みなど新しいつくりである。盗掘に合ったのかもしれない。
地図

 

 


井面城

2019-06-03 21:31:28 | 古城巡り

☝ 堀切に掛る土橋

☝ 竪堀に続く堀切

☝ 主郭

☝ 主郭奥の高まり

☝ 主郭下の郭

☝ 土塁

☝ 遠景

 

城名
 井面城
読み
 いのおもてじょう
住所
 津市美里町家所井面(いえどころいのおもて)(いのもて・・・地元音)
築城年
 文明16年(1484)
築城者
 家所民部祐忠が分家し井面氏を名乗る。
形式
 山城
遺構
 曲輪 堀切 土橋 土塁
規模
 不明
城主
 井面(いのも)氏
一族
 元家所氏一族、のち小倭で井面氏一族をなす。
標高 154m 比高 55m
歴史
 井面氏は白山町に住み着き、江戸時代になっても藤堂藩の無足人(注1)として代々続いた。
現地
 長野城のひざ元の中山間地域、家所城からはスープの冷めない距離にある。
 井面集落背後の低い山にある。麓にあったであろう居館の詰城という位置付けである。
考察
 城は簡素である。周辺の状況も要害の地というほどではない。守りに徹したとか、戦に備えたとかいう雰囲気ではない。完成度合も中途半端な気がする。
感想
 城主は本気で戦う気がなかったのかもしれない。戦いが嫌いだったのかもしれない。そんな中世の武将がたまにはいてもいいではないか。
注1
 藤堂藩独自の制度で、無録の下級武士、多くは農村で庄屋などを務めた。
 
 
 
参考資料
http://misatotanken.mie1.net/e425909.html

美里町探検日記

地図

 

 


小山城

2018-09-23 20:54:14 | 古城巡り

葵の御紋が眩しい青巌寺本堂

北郭東土塁外

北郭東虎口

北郭東帯曲輪

北郭曲輪内部

北郭南西土塁

南郭東土塁

南郭曲輪内部

南郭東帯曲輪

南郭古墳跡

南郭西土塁

 

 

 

城名
 小山城
読み
 おやまじょう
住所
 津市一志町小山
築城年
 永禄年間(1558-1570)
形式
 山城
遺構
 二郭形式の曲輪、土塁
規模
 90m×130m
城主
 北畠家臣、大多和兵部少輔
標高 180m 比高 150m
歴史
永禄12年に信長の兵と戦って落城し廃城となる。
 その後堀之内城主舟木正尚が晩年この城を賜わり、ここで隠棲したとされ、小山城の麓にある清厳寺(せいがんじ・注1)にはその墓所が残っている。
書籍
 日本城郭大系 三重の中世城館
環境
 伊勢平野を東眼下に望み、山は東側からの急傾斜で囲われ、頂部は広く山城を造るには好適地である。
 山の北側を雲出川、南を中村川が流れ、水運にも都合がよい。伊勢湾まで数キロメートルの距離である。
現地
 城跡は山深く、中腹からは急斜面の連続で一息入れる場所もなく、礫も崩れやすくなかなか近づき難い。
 だが頂部はなだらかで遺構が南北二つに大きく分かれ、広さはそこそこ感じられる。
 北の曲輪が主郭に相当するとみられる。高さ2mの土塁は堅固で2ヶ所の虎口の形もほぼ明瞭だ。
 土塁は南側が尻すぼみに狭くなっていて虎口を伴い南の曲輪につながっているようだ。
 南の曲輪はⅡ郭に相当し、主郭に比べて造りが雑である。もともとあったと思われる二基の古墳を土塁として再利用した様子が伺われる。
 両曲輪とも東側を正面とし、伊勢の平野部や海を視界に入れることが出来る。
考察
 城主が北畠家臣であることから、多気ルートの入り口を抑えること、北からの敵をいち早く察知し、付近の標高の低い城に情報を伝えることなどが目的の城であったと考えられる。
感想
 最近、更に南の尾根にも遺構があるとのうわさを聞くが、簡単に訪れるのは困難な城のため登城ルートの見極めが大切と考える。
注1 青巌寺(せいがんじ);伊勢初代国司北畠顕能の祈願所。織田信長の戦火で灰燼に帰しましたが、顕能が寄進した仏画類は残されている。
 第三世の明蓮上人(1596没)は北畠具親の嫡男で北畠家臣に付き添われ入寺する。同時に具親方の一族郎党の多くが末寺の住職や有力檀家となり今も北畠血統の寺として続いている。
 第五世の時、尾州二代徳川光友の三男義昌が1651年に清巌寺で誕生したことにより葵紋使用許可や神社建立の寄進を受けた。

地図

 


長原城

2018-06-20 12:53:40 | 古城巡り

城名
 長原城
読み
 ながわらじょう
別名
 北山城
住所
 度会町長原浅間山
築城年
 天文5年(推定)
築城者 城主
 大崎玄蕃頭 弘治二年(1552)に没
家臣
 入り口の説明看板によると「大崎玄蕃某というのは、北畠関係かは明らかでないが、、、、」としている。
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、帯曲輪、畝状竪堀
 主郭(15×12m)帯曲輪の比高差3~4m
 堀切(幅5m、深さ1.5m)
 防御の中心を東方向の谷に置いている。
 長原城の畝状竪堀群と2条の独立した竪堀は、この規模の城としてはかなり高い防御性を有するといってよい。
規模
 東西35m×南北30m
標高 95m 比高 50m
歴史
 入り口の看板より「この城の石垣は天保六年による池決壊の大修理に使われ現存しない。」
経緯
 入り口の看板によると「大崎玄蕃はここ北山の浅間山上に天守閣を構え20年余りを居城し弘治二年(1556)に没している。」とあることから 1556-20=1536(天文5年)頃の築城かも知れない。
書籍
 三重の中世城館 伊勢の中世史
環境
 国束山から南に派生する尾根の先端にあり長原の里と街道、宮川を見下ろす位置にある。
現地
 入り口の看板より「殿蔵屋敷、本陣、垣内、殿屋敷、籠建場、旦城などの地名が伝えられている。」
考察
 やはりこの城の特徴は竪堀にあり、中でも4条の畝状竪堀は秀逸である。隣の立岡城も畝状竪堀を備えるが、この付近では珍しい畝状竪堀が両城に備わるのは興味を引く点である。
感想
 入り口に設置されている城を説明する看板には詳しい話が記されている。大崎玄蕃頭の地元における業績や住民との触れ合いについて知ることができる。
地図