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三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

野尻城

2020-08-25 09:45:25 | 古城巡り

城名
 野尻城
読み
 のじりじょう
住所
 いなべ市藤原町西野尻字南谷
築城年
 天正年間
築城者
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪、土塁、竪堀、空堀
規模
 100×130m
城主
城主は史料によって記述が異なる。
 西野左馬亮(勢陽五鈴遺響)
 塩谷兵部と西野左馬助(三国地誌)
 文治年中(1185~1189)輪田右馬允が居住し、そののち、白瀬家が六代続き、その後日置大膳、その子日向および塩谷兵部ら数代が居城したと記している。(伊勢名勝志)
 輪田右馬允、白瀬正司家が六代、その後日置大膳、日向親子、および塩谷兵部が居城した。(三重の中世城館)
標高 148m 比高 28m
歴史
 塩谷兵部は1574年(天正2)滝川一益に不信を抱かれ、長島城に呼び出され切腹させられた。
経緯
書籍・資料
 三重の中世城館 いなべに行こう(いなべ市観光協会)
現地
 大字西野尻字南谷の丘陵の先端に位置する。北から東には平地が一望される。一部は三岐鉄道の線路により消滅している。
地図


田辺城

2020-08-24 11:10:46 | 古城巡り

田辺城

城名
 田辺城
住所
 いなべ市田辺北山
築城年
 天正14年(1586)
築城者
 木造左衛門左具康(長政)
形式
 平山城
遺構
 郭、土塁、空堀、土橋
 台地南側の先端に方形の本丸を設け、同一平面上北側に家臣団の居館を配した典型的な戦国城館の形式は、関東地方を中心に行われた丘陵城郭と呼ばれるものである。
規模
 210m×450m
 主郭は50m×50mの空堀と土塁に囲まれた方形のもので3か所に虎口がある。
 ただ西側の入口は土塁の崩れた状態から見て、後世に造られたものと思われる。
城主
 木造氏
一族
 北畠一族
標高 240m 比高 30m
歴史
 木造具康の築城。具康は天正12年(1584)小牧長久手の戦いで父の隠居所・戸木城を増強し、秀吉方の蒲生軍と対峙し、6か月籠城しよく戦った。
 同14年信雄、秀吉の和睦により戸木城は開城され、具康は信雄より与えられたこの田辺に城を築き住んだ。
 天正18年(1590)秀吉から織田秀信の家老職を命ぜられ2万5千石を知行された。
 慶長5年(1600)の関ケ原で西軍に属し、敗れて、田辺城は廃城となる。
 具康は東軍の福島正則に2万石で仕えたが4年後(1604)に死去した。
書籍
 三重の中世城館 日本城郭体系10巻
現地
 谷が複雑に入り込んだ丘陵上の小高い位置にあり土塁空堀が残存している。
 その規模が員弁川流域で最大である。
 模擬城門が造られている。
注1
 木造氏の系図では具康と長政は別人説がある、一方他では同一人物説あり。
 ここでは同一人物とした。
地図


大島城

2020-08-23 11:41:43 | 古城巡り

城名
 大島城
読み
 おおしまじょう
住所
 桑名市長島町大島(長良川)
築城年
 天正年間
遺構
 消滅
規模
 不明
城主
 大島新左衛門
標高 不明 
歴史
 長島の西南隅の出城で兵2000人、長島一向一揆の拠点。
経緯
 明治の河川改修で水没。
書籍
 三重の中世城館
現地
 桑名市教育委員会文化財「遺跡包蔵地検索」によると、護岸から西200m位の長良川の水中を示している。
 大島水門が付近にある。
地図


願証寺城

2020-08-21 22:57:05 | 古城巡り

寺が砦、或は城と化した例として「城」扱いとした。

城名
 願証寺城(願證寺)
読み
 がんしょうじじょう
住所
 桑名市長島町又木434
築造年
 1492年(明応10)ごろ(中郷杉江地区)
 1537年(天文6)現在地へ移転(西外面)
 1574年(天正2)織田軍3回目の一揆討伐
 1596~1615年慶長年間に復興
築造者
 連淳(蓮如の6男)
形式
 平寺
遺構
 石碑
規模
 50m×60m
寺主
 連淳-実恵-証恵-証意-顕忍
宗派 山号 
 浄土真宗本願寺派長島山願証寺
標高 -0.1m
歴史
 信長に敗れた斎藤龍興が逃げ込む。
経緯
 戦乱の世で明日の生活もわからず、頼るもののない民衆や農民の中には、来世に救いを求めて、浄土真宗に帰依するものが多く、願証寺にはたくさんの人々が寄ってきた。尾張や美濃で織田信長に反抗する土豪や戦いに敗れた戦国武将・国侍なども数多く願証寺に寄った。
書籍
 三重の中世城館
環境
 現代では当時の輪中の長島の様子を見ることは出来ないが古図から想像すると、舟でないと近づけない様子だ。川幅や水そのものが防御のアイテムであった。
現地
 現在でも海抜はマイナスである。周辺は田圃が取り巻いている。当時は沼田であったと想像させる。
感想
 織田軍の伊勢侵攻が2回、一向一揆討伐が3回と数年にわたってあり、その渦中にあった長島の中心にあって、人々の心を寄せる大切な場所であったのではないだろうか。
地図


伊勢長島城

2020-08-21 14:51:11 | 古城巡り

城名
 伊勢長島城
読み
 いせながしまじょう
住所
 桑名市長島町西外面2188
築城年
 文明年間
築城者
 伊藤重晴
形式
 平城
遺構
 移築大手門(蓮生寺)、移築奥書院(深行寺)、堀跡
規模
 230m×310m
城主
 伊藤重晴-滝川一益-原-福島-菅沼-増山
標高 1m 
歴史
 1245年(寛元3)藤原道家が居住する。
 1482年(文明14)伊藤重晴が築城。
 1561年(永禄4)服部左京進が伊藤重晴を追放して、願証寺に属した。
 1567年(永禄10)織田軍第1回伊勢攻略
 1568年(永禄11)織田軍第2回伊勢攻略 服部左京進が没して、下間三位頼且が守護した。
 1569年(永禄12)織田軍第3回伊勢攻略
 1571年(元亀2)一向一揆討伐(1回目)で柴田勝家負傷、氏家卜全討死、岐阜へ撤退。
 1573年(天正元)一向一揆討伐(2回目)織田軍は大垣から南下する隊と八風峠超えする隊に分け、北伊勢一帯に入り末寺、土豪、門徒宗を攻撃した。しかし、軍船を調達できなかったことと、畿内で反織田の動きが出たため岐阜へ引き返した。
 1574年(天正2)一向一揆討伐(3回目)九鬼などの水軍で長島を取り囲み孤立させ、3か月にわたる籠城戦の末、9月に落城。その後滝川一益が入城し修築する。 一益は北伊勢一帯を治めていたが、秀吉と争ったため、長島は再び戦乱の舞台となった。
 1583年(天正11)北畠信雄の支配となる。城代として、関弥平次が守護する。
 1590年(天正18)豊臣秀次の支配となり吉田修理亮が守護する。
 1592年(文禄元)天野周防守景俊が、長島2万石の城主となる。
 1593年(文禄2)原隠岐守胤房が城主となる。
 1598年(慶長3)福島正頼が城主となる。

 1601年(慶長6)菅沼織部正定盈が城主となる。

 1702年(元禄15)増山氏が藩主となり明治に至る。

書籍
 三重の中世城館
現地
 長島中学校、長島中部小学校
感想
 織田信長が伊勢平定をする戦いの伊勢方の最前線となり、激しい戦いが数年に及んであった。忘れてはならない歴史だと考える。
注1
 願証寺=長島御坊。
地図

 

堀跡と曲輪跡

長島中部小学校と町指定天然記念物「大松」

堀跡

蓮生寺の門

増山雁金紋の鬼瓦

増山氏の家紋「増山雁金」

 

 


天空の城 霧山城

2020-01-28 07:28:10 | 古城巡り

霧山城

住所 津市美杉町多気・八知・奥津

標高 560m 比高 237m

規模 東西150m×南北270m

👆 大洞山雌岳(標高985m)から見下ろす霧山城

 霧山城は北畠氏の本拠地であった。ここから伊勢平野の出城や各山中に点在する山城と

のろしを使って情報のやり取りを行っていたと考えられている。

 信長の伊勢侵攻の際にはこの本城と髯山黒米城阿坂城を通じて大河内城と連携して

いたと推定される(複数のルート説あり)。

 

 


椎木城

2019-12-02 22:13:22 | 古城巡り

☝ 津の遺跡地図に記されている椎木城の位置

☝ GPS軌跡

☝ 堀切らしき凹部

☝ 主郭らしき平坦部

城名
 椎木城
読み
 しいのきじょう
住所
 津市美里町北長野
築城年 築城者
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪らしき平坦地   堀切らしき凹部
規模
 不明
城主 一族
 不明
標高 262m~ 比高 64m
歴史 経緯
 不明
現地
 細尾根が殆どの面積を占める。削平地らしき場所は特定しにくい。尾根を所々切った跡は想像できる。
考察
 伊賀街道を抑える砦ではないだろうか。攻撃や防御を考えた縄張には思えない。ただ、街道を見下ろし活動するのに都合の良い場所を選定したというに過ぎないと判断した。
感想
 尾根に取り付くまでに難渋する。そういう意味では要害である。
地図

 

 

 

 

 

 

 


連部城

2019-08-18 14:03:26 | 古城巡り

 

 

 

 

 

城名
  連部城
読み
 つらべじょう
住所
 津市安濃町連部
築城年
 天正12(1584)
築城者
 家所帯刀正藤高
形式
 平山城
遺構
 郭、空堀、土塁
規模
 東西50m×南北80m
城主 不明  家所帯刀か
標高 20m 比高4m
経緯
 天正12年(1584)小牧長久手の戦い。羽柴秀吉は伊勢攻めに関して戸木城を攻めるために家所帯刀正藤高に命じて築かせた城。
書籍
 三重の中世城館 勢陽五鈴遺響
環境
 穴倉川と北大谷川の合流地点を守るようない位置にある。
 連部城や今徳城は段丘でもない川の際にあることがヒントとして考えられる。水運を利用していたのであろうか。
現地
 植林された林に守られて土塁が良く残っている。
考察
 藤ケ森城、浄土寺城、連部城、今徳城が近接してある姿は伊賀の国人領主の世界を見るようである。
感想
 川の際に位置するだけに堀には水が張られていたのかもしれない。
その他
 今徳城と連部城は二つで一つという説がある。
 平成29年4月5日訪城
地図

 

 

 

 

 

 


中森氏城

2019-08-07 10:38:00 | 古城巡り

 

☝ 主郭櫓台

☝ 同、愛宕神社境内

☝ 主郭

主郭南東隅の土塁と堀切道

☝ 主郭西の土塁と空堀

北曲輪の虎口

☝ 同、外から見る虎口付近 

 

城名
 中森氏城
住所
 津市美杉村太郎生
築城年 不明
形式
 山城
遺構
 郭、土塁、空堀、水場跡
規模
 東西50m×南北200m
城主
 中森数馬之助
一族
 北畠家臣。詳細は分からないことが多いが家臣帳には伊賀口の加番となっており多気に入る街道を抑えていたと考えられる。家系は弓に強かったらしく弓組に従事する者が多く見られる。(権之助、掃部佐、外記丞)
標高 480m 比高 65m
書籍
 日本城郭体系 三重の中世城館
環境
 多気から伊賀へ抜ける街道と木津川の上流名張川が北に流れるのでこれらを抑える拠点として築かれたと思われる。これらは城から眼下に一望できたはずである。
現地
 城は南の詰城の曲輪群と北の館の曲輪群に大別された縄張である。
 城の長辺側、南北の一辺、東側は急な斜面と展望を狙ってか防御の土塁が無い。西側は緩斜面となり、土塁が二重に築かれている。これらを踏まえて方形の屋敷跡が複数造られている。
考察
 山頂は防御の曲輪と館の曲輪が明確に分かれそれぞれが完成度が高く、多くの人が長年に渡って住まいしていたことが想像される。
 水場以外ほとんどの施設は郭の中に備えられ一兵卒も城外にはいなかった様子が垣間見れる。
感想
 城は街道及び名張川と平行に長く接する立地条件にあり、その東に向けて縄張りの長辺方向に土塁が無く街道と名張川の監視と村の様子をつぶさに見れるという解放感にあふれた城である。
地図

 

 

 

 


城阪城

2019-08-06 23:18:02 | 古城巡り

☝ 主郭跡

主郭西の土塁

主郭西の切岸と下方に曲輪

堀切道

Ⅱ郭の土塁

Ⅱ郭の虎口

Ⅱ郭の切岸

Ⅱ郭南の谷

古墳を利用した土塁の片りんかもしれない

丘陵の中心部、奥の竹林はⅡ郭

主郭に咲くハナカタバミ

北から遠望

GPS軌跡

城名
 城阪城
読み
 じょうさかじょう
住所
 津市安濃町戸島城阪
築城年 築城者 城主 
 不明
形式
 丘城
遺構
 郭、堀切、土塁、土壙(どこう:土葬された穴)、住居跡
規模
 東西200m×南北80m
標高 56m 比高 20m
経緯
 昭和57年の町道改良工事のため第一次発掘調査が行われ土塁や空堀、掘立柱建物跡などが確認された。
 その後、第二次発掘調査の城阪古墳調査時には、二か所の堀切(幅4~5m、高さ3m以上)と土塁が丘陵を横切る形で南北に遺存していることが確認された。
書籍
 津市史
 知られざる郷土史・津とその周辺(浅生悦生著)
環境
 東700mに安濃川、足元に安濃の美田を一望する、東西に延びる丘陵に築かれている。主郭は丘陵の東先端にある。南北には谷地が横たわる。
現地
 丘陵の西以外は急崖に囲まれている。
 グリーンロードの脇にある溝はかつての堀切の跡かもしれないと考えられている。
 発掘調査時の現地の人の話として。「ここは他に比べて水はけがいい」と言った場所は堀切が発掘された場所であった。
考察
 発掘調査によって相当規模の城館であることが推定されるようになってきた。今後の調査によっては西に向けて更に拡大する可能性があるとのことだ。
感想
 事前調査なしで現地を訪れると丘陵最東端の主郭跡を垣間見る程度となり得る。
 実際はこの丘陵全体が城郭であったと「津とその周辺」の著者、浅生氏は語られている。
 古墳を利用した縄張や、丘陵を3か所で切る堀切の先に60m四方の略方形館を持つなど、規模の大きい実力者の城館であることが考えられる。
その他メモ
 家所城から7km北。
 2017-11-01訪城
地図