いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

ヒトの生き方の原理とは何かを説明する

2010-02-15 07:54:47 | 一口解説/一口メモ
○このブログを初めて読んでくださる方は次の文を先に読んで下さい
 「哲学の道具箱」という本で哲学的思考の大前提を再確認する 2009-07-02 05:01掲載
 この文は、紙に印字して良く読んで下さることを、お願い致します。

○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に、入れ子構造の図解を、まずして下さい。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読み下さい。
 この文は、紙に印字してよく読んで下さることをお願いします。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境  (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ    (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
         妄想
Ω神= 〔A→   ∥Z→ (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→(M)))))∥〕    Ω=神の国
  ∥        ↑  理法  自然   物的   俗・人・子・文歴  記憶
(心的なD)    M(記憶)        Ω人   人・生・孫・化史  ↓
唯一絶対                                 Z→→→Z


○この文では「ヒトの生き方の原理」について簡単に説明します
 一般法則論の文中では、「ヒトの生き方の原理」があるということを繰り返し言っています。
 そこで、ここでは、「ヒトの生き方の原理」だけを説明します。
 つまり、「ヒトの生き方の原理」を見出しにする文を書いておく、ということです。

○最初に大事な話 誰が責任を負っているのか?
 「ヒトの生き方の原理」の存在が意味することは、全てのヒトは、自らの日常生活と人生の唯一・絶対・普遍の製造元であり、こうであらねばならない、ということです。
 話が人類レベルになっても同じです。
 言い換えると、全てのヒト/人類は、自らのあり方と生き方に自己責任を負っているのです。
 但し、ヒトとヒトの住む世界の創造主であるΩ神は、全てのヒトがこの課題を容易に果たせるように、この世界の仕組みを造っています。天然自然の存在の創造主である神=Ω神の存在を知る事もこの一部です。
 即ちーーー、
 何をして如何に生きるのかを決めるのは、Ω神の化身かつ分身の存在のヒト各人が持つ唯一・絶対・普遍かつ不変・不動の責任です。
 しかし、ヒトがそう決めたことをその通りに実現するのは、Ω神の理法の専売特許で、Ω神の唯一・絶対・普遍かつ不変・不動の全責任だということです。
 この点に関して、大事なことがあります。
 事を成すことにおいて、ヒトである自分に責任があり、人力を尽くして奮闘努力しなければならないと、ホンの一瞬間でも、ホンのわずかでも思うと、もうΩ神の理法は「そういうことならば、あなたに任せます。あなたのお気の済むようにして下さい」と言っているかの如くに働いてくれなくなるのです。→Ω神の理法の働きに関しても、ヒトがそう思いそう言った通りに働く「山彦の原理」が支配していることを忘れてはいけません。
 祈った事の実現は、全知全能のΩ神の理法に絶対的に任せ切る必要があるのです。
 これを知らないと、この世に生まれて生きる事は、苦労が多くてそれでもなお「人生は自分の思い通りにならない」と嘆く事になります。

○誰がヒトの生き方の原理を決めたのか Ω神だ!
 ヒトの生き方の原理は、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)からなるこの世界の成り立ちと仕組みの唯一・絶対・普遍の創造主であるΩ神/天然自然の存在の創造主である神が直接定めたものです、
 ヒトの生き方の原理は、ヒトとヒトが住むこの世界の成り立ちと仕組みを創造したΩ神が決めたのであって、一般法則論者の私や誰かや、時の権力者が勝手に定めたものではありません。

○ヒトの生き方の原理の実際
 「ヒトの生き方の原理」とは、「ヒトは、他の誰でも無くて自らが考え思う事が、否応無しに自らの体験になり現実になるという、唯心論的な因果必然の自然法則の存在を知って、この法則に自覚的に意図的に則って生きること」です。

○誰でも日常的にしている事とこれを支える原理
 ヒトの生き方の原理というと、何か特別の物があるみたいに聞こえます。
 しかし、これはごく常識的なことです。
 日常生活でも、テレビを見たいと思ったらテレビをその通りに見ています。
 アメリカのニューヨークに行くと決めたら、北京やソウル行きの飛行機ではなくて、正しくニューヨーク行きの飛行機に乗ります。
 なお、「我思う。故に我あり」(デカルト)ではなくて、正しくは「我在りと思う。故に我在り」ですね。
 全てのヒトがこうすることが出来るのは、ヒトの身心に、この世界の成り立ちと仕組みを造っているΩ神の理法の働きが物質化して働いているからです。
 但し、ヒトの身心に物質化しているΩ神の理法は全知全能とは言えないのです。この大枠は、物質世界を絶対的に支配する光の速度に制約されるからです。
 しかし、本来非物質的な存在のΩ神の理法そのものは、全知全能の力を発揮できます。
 これを、ヒトの生き方の原理では頼りにして直接使うのです。

○テレビを見たいのにそのテレビを買うお金が無い場合にこそ役に立つヒトの生き方の原理
 問題は、テレビを見たいのにそのテレビを買うお金が無い! ことがあることです。
 この問題を解決するのが、ヒトの生き方の原理の存在とこの使い方を自覚的な知識にして、これを意識的に自覚的に使うことができるように成ることです。
 この方法は、テレビを買う為のお金を得るために銀行強盗をする式のヒトの知識と腕力や権力等のみを頼りにしこれを駆使してする人間的な手段・方法に頼るのでは無いことです。
 ヒトの生き方の原理が頼りにするのは、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)からなる、宇宙大に広がって存在するこの世界の成り立ちと仕組みを造った全知全能のΩ神の理法です。

○ヒトの生き方の原理は因果必然の法則に自然に絶対的に則って働く
 ヒトが、たとえば、あなたや私が何かを考え思い願い夢や希望を抱く。
 すると、自動的かつ必然的に/自然に、Ω神がヒトを含めた天地万物の創造に使った全知全能の「唯心論的天地創造の原理」が働いて、あなたや私が何かを考え思い願い夢や希望を描いたことがその通りにあなたや私の体験になる。
 なお、「唯心論的天地創造の原理」=Ω神の因果必然の理法は、その一部がヒトの身心に物質化していますので、この限度で事を成す事が出来ます。例えば腕力を発揮する。
 こうなっています、私たちが生まれ住んでいるなこの世界の成り立ちと仕組みの中においては!
 唯心論的天地創造の原理は、創造主である神(とその天地創造の目的)、自然法則、エネルギーの三語で説明できる、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)から成るこの世界の成り立ちと仕組みの中においては、自然法則+エネルギー一体不可分の法則の働きのことです。
 自然法則+エネルギー一体不可分の法則は、原因と結果の間を客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に結び付けている因果必然の自然法則、即ち、ヒトが決めた法律やゲームのルールとは異なる、天然自然の世界の中に存在する法則です。
 自然法則の存在も、自然法則が因果必然の法則性を持っていることも、ヒトがこの世界の中に生まれて来る前から、この世界の中に絶対的に存在し、絶対的に決まっています。こう決まっている中に私たち全てが生まれているわけです。
 これにヒトが文句を言っても変える事は絶対にできません。
 即ち、あなたや私が何かを考え思うことは、因果必然の働き方をする自然法則の側から見ると、直ちに自らの因果必然の働きに則って実現すべき「原因設定」が自動的かつ必然的にされたことになります。
 この結果は、あなたや私が考え思った通りの事が、あなたや私の実際の現実の体験の形になります。

○ヒトの生き方の原理とこれを支える因果必然の自然法則をヒトは変える事は出来ないし無視して生きることも出来ない
 ヒトの生き方の原理とこれを支える因果必然の自然法則の存在とその働きは、全てのヒト(宇宙大では宇宙人一般)にとって絶対的なものです。 
 しかし、Ω神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを知らないし、これを知ろうともしない人たちが実在しています。
 この人たちによればーーー

 ヒトが作った憲法秩序が、この世界を作り支配する唯一の絶対的かつ普遍的な秩序だ。
 特に、いわゆる平和憲法に勝る憲法は世界の何処にもない。
 憲法に定められた個人の基本的人権で保障されている「思想・信条・良心の自由」によって、憲法秩序の一部ではない、この世界の成り立ちと仕組みとこの創造主である神など、私は絶対に認めず受け入れない。
 これが、近代以降の科学の時代に生まれた者の絶対的な世界観だ!
 神の存在を信じる宗教などに頼らずに、自然科学とヒトである自らにのみを頼りにして生きるのが、成熟した大人の生き方の原理だ!

 本気でこう決め込み、思い込んでいる人たちがいます。
 この主張は、一般法則論の理解している、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)からなるこの世界の成り立ちと仕組みの中では、ヒトが存在し生きている世界は、世界Ⅵ~世界Ⅶ(+Z)がその全てだ! という考え方に根拠があるということができます。
 それに、この方々は、基本的人権を持つという「ヒトの存在証明」をしていません。
 良心を持つというヒトの心の起源とその存在証明も、この方々はしていません。
 しかし、この種の見解/世界観は、私たち全てに先立って絶対的に存在する天然自然の存在のΩ神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みには何も根拠がありません。
 ヒトに出来るのは、この世界の成り立ちと仕組みがヒトの都合の良いように変わってくれることは絶対に無いので、この世界の成り立ちと仕組みにヒトの方から合わせるしかありません。
 この理をよく理解する必要があります。
 今、トヨタ自動車の技術者の安全性に関する判断基準に顧客を従わせようとして、顧客から大反発をうけて、トヨタが大ピンチに陥っています。
 しかし、ヒトとヒトが住むこの世界の成り立ちと仕組みの創造主であるΩ神は、全てのヒト(宇宙大では宇宙人一般)を絶対的に一方的に従わせます。
 これが、嫌だ! 認めない! と言い張る人たちは、直ちに自分の思い通りの生き方が出来ないという形で既にこの世でΩ神の理法の働き/イエスの言う「聖霊」の絶対的な働きによって裁かれています。

○収穫する前に畑に種を蒔く必要がある 無い袖は振れない
 昔から使われている比喩を使うと、ヒトの生き方の原理は、次のように言うことができます。
 「ヒトの生き方の原理」は、「畑から収穫物を得るには、これに先立って、その畑に収穫したい作物の種を蒔いて育てる必要がある」ということです。
 言い換えると、ヒトの生き方の原理は、「蒔かぬ種は生えぬ」/「無い袖は振れない」という因果必然的な自然法則の下で存在し働く「原理」だ、ということです。
 思いや願いや夢や希望という、自分が育てたい果実の種を、「自然法則+エネルギー一体不可分の法則/唯心論的天地創造の原理というΩ神の理法/潜在意識/無意識」という名の畑に自ら蒔く。
 すると、この因果必然の結果として、自然に「自然法則+エネルギー一体不可分の法則/唯心論的天地創造の原理/潜在意識/無意識」という名の畑の中で発芽し成長し夢や希望の実現になり、これを収穫することができる、という訳です。
 ヒトの生き方の原理は、「畑への種まきと収穫」という比喩が使えるように、分かってみればごく常識的な原理です。
 今、テレビで見ることができる何かの広告で、「今の私の姿は過去に描いた『私自身の夢』が実現したもの」と言う意味の台詞付のものがあります。あなたはこのテレビ広告をご存知ですか?!
 この広告を作ったヒトは、ヒトの生き方の原理を自覚的な知識にしているに違いありません。

 以上の話をまとめると、全てのヒト(宇宙大では宇宙人一般)は、この世界の中に生まれ出たならば、否応無しに、ヒトの生き方の原理を知り、これを自分の物にして、これに則って生きなければならないことになっているわけです。

○ヒトの生き方の原理のハウツー化
 Ω神の天地創造の意図を実現するのは、自然法則+エネルギー一体不可分の法則の働きです。
 例えば、身近にある様々な電気器具は、物質化したエネルギーを、自然法則が予め決めている「それをそれにする原理的仕組み」(例えばテレビの原理的仕組み、蛍光灯の原理的仕組み、電気冷蔵庫の原理的仕組み等)を必ず基にして作られるシステムの形にして作られています。
 これに例外はありません。
 そして、こうして作られた異なるシステムで一つ同じ電気エネルギーを制御して使うことで、それぞれのシステム独自の役割/機能を作り出します。例えば、テレビはテレビの、蛍光灯は蛍光灯の、冷蔵は冷蔵庫の働きをする物が出来るわけです。
 何の原理(的仕組み)についても言える事ですが、これを基にした具体的なシステム/構造物が造られて初めて、その原理は使い物になります。
 例えば、パソコンの原理(的仕組み)は、実際にパソコンの形に作られて売っている物にもなっていて初めてパソコンとして使えます。
 畑に種まきして確実に収穫物を得るには、種まき以上の色々の技術やハウツーが必要なものです。
 世の中には、その原理的仕組みは分かっているのに、それを基にした実際のシステムをどう造ったら良いかのか実際に試行錯誤を何年も繰り返ししても技術的に不明のことがあります。
 その原理を具体的なシステムにするアイデアさへ浮かばないことさへあります。
 水晶(クォーツ)式時計の原理がフランスで発見されてから、これを日本のセイコー社が腕時計の形にするまで50年掛かったそうです。
 幸いにして、ヒトの生き方の原理に関しては、既にこれを実際に使えるシステムが造られています。
 それは、潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理の活用法という形でハウツー化されています。
 これを説いた本は現在多数あります。あなたの知識と気質と今この時の必要に応じた本を、本屋さんで選ぶことができます。
 先に紹介したベイルズ氏の「Your Mind Can Heal You」(インターネットのアマゾン日本で買えます)もこの一冊です。

○キャサリン・ポンダー 花塚 恵訳 「宇宙の力」を使いこなす方法
 ここで、最近紹介した次の本があります。あなたは既に本屋さんで手にしてみましたか?

 キャサリン・ポンダー 花塚 恵訳 「宇宙の力」を使いこなす方法 サンマーク出版 2009年

 この本で言う「宇宙の力を使いこなす方法」は、一般法則論では、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)からなるこの世界の成り立ちと仕組みの全体を丸ごと活用する生き方と表現しています。
 この本には、ヒトの生き方の原理の存在を自覚的な知識にしていないヒトには、嘘みたいな事例が幾つも紹介されていて、面食らうかも知れません。
 「そんな簡単な願い/祈りで事が実現するならば、世の中誰も苦労などしない!!!」
 ・・・という人も居るかも知れません。しかし、これはこの位単純明快な事実なのです。
 何事も、その存在目的と仕組みを知って自覚的に使って初めてそれが実際に使えます。
 ヒトの生き方の原理があり、これをハウツー化した物があることを知らなくては、これが使えないのは当たり前です。
 いや、Ω神の化身かつ分身の存在のヒトに生まれている全てのヒトが、既にヒトの生き方の原理を生得的に持ち、その自覚が無いままで何かの為に使っているのです。しかし、それが意識化され自覚的な知識になっていないので、自覚的に意図的に制御して使うことが出来ないだけです。
 ヒトの生き方の原理を意識的に自覚的に制御して使えないということは、結局、自分の思い通りの人生を生きることが出来ないという意味に、因果必然的になります。

○ヒトの生き方の原理の二つの使い方
 ヒトの生き方の原理は、大別すると、一つは、何かを実現する為/獲得する為/作り、使う為に使う事です。
 この中には、悟りの体験をする事も含まれて居ます。
 筆者の悟りの体験も、この世界の成り立ちと仕組みをその根源で支えている原理を何が何でも見つけだしたい! という子供の頃から育てた強い願いによります。
 今一つは、身心の病気を治す目的で、ヒトの生き方の原理を使うことです。
 これは、自然治癒力/自然回復力/自発的治癒力(アンドルー・ワイルの造語)を自覚的に意図的に利用する方法です。

○故障はこれを設計し造った/作った製造元に送り返して修理してもらうのが良い
 例えば、使っているパソコンが壊れたら、自分で直そうとしないで、そのパソコンの設計者で製造元の所に送って修理・修繕してもらうのが一般的です。
 ヒトが何かの病気等になった場合でも、治す原理は同じです。
 Ω神が直接自ら造った天然自然の存在物には、自然治癒力/自然回復力/自発的治癒力という力が備わっていて、これが自動的かつ必然的に働く仕組みが天然自然の世界の中にあります。
 Ω神が造った全てのヒトの中にもこれがあります。
 この証拠は、例えば手足の擦り傷が自然に治る例。
 これをしかしちゃんと正しく利用するには、ヒトの製造元のΩ神の所に、病んでいるヒトの身心を送り返してΩ神に治してもらう必要があります。
 しかし、天然自然の存在の創造主であるΩ神など絶対に認めようとしない現在の医療の現場、特に無神論が強く広く支配している日本の医療現場では、代替医療の現場を含めて、医者も治療を受ける患者も共に、Ω神からみけば天地創造の結果生まれた物質的な身体だけを治療の対象にする間違いをしています。
 この点では、西洋医学でも東洋医学でも基本的に同じです。
 なお、既にここで紹介している、ベイルズ氏のYour Mind Can Heal Youでは、原因の世界であるΩ神の所に戻って、ここから結果の物質的な世界にある身心の病気の治療をします。
 一般法則論で説くのも、ベイルズ氏が採用しているのと原理は同じです。
 遡れば、これはイエス・キリストが使った原理です。

 代替医療に関する参考書は、次の本。読んで損はありません。
 上野圭一 著 代替医療 オルタナティブ・メディスンの可能性 角川oneテーマ文庫 2002年
 
○ヒトの生き方の原理自体が持つ意味
 ヒトの生き方の原理これ自体が持つ意味は、少なくとも二つありす。
 その第一は、ヒトの生き方の原理が確かに実在している、ということです。
 これを知らず、知っても使わず、更にはこれを否定して生きることは、その人にとっても社会や国家にとっても災いになります。
 第二に、ヒトは、自らの日々の生活とこの積み重ねの人生全体を、自らが責任を持ってその製造元になるように決められている、ということです。
 このことを知っていて、「受身の生き方をしない」ことを生活信条にしている方々もいます。
 社会/国家/人類レベルでは、世の為/ヒトの為/人類の霊性の向上を目指す生き方を自覚的に選ぶ人たちがいます。
 誰もが「自らの人生の製造元」という責任から一瞬間たりとも逃れることはできません。
 いや、仕事を他人に任せてすることなど社会的に日常的にありふれているといわれる方がいるかもしれません。
 しかし、この場合は、他人に任せた分は、自分の生きた人生そのものでは無いことは明らかです、仕事を任されたヒトにとっては、それはそのヒトの人生の一部になっても、です。
 苦労は色々とあるけれども、乳児から四~五歳位までの可愛い盛りの子供を他人に預けて、自分は外の仕事に出掛けたら、子供に教えられながら自分が親になる貴重な体験をする機会を自ら失います。

 以下は、余談

○因果必然の原理に関する別の言い方がある 基礎は「同一原因=同一結果の原理」/「異なる原因=異なる結果の原理」
 自らが考え思った通りのことが原因設定になり、この結果が、自らが考え思った通りの自らの体験になり、現実になるという「因果必然の原理」は、色々の言い方があります。
 これは、「同一原因=同一結果の原理」/「類似原因=類似結果の原理」/「異なる原因=異なる結果の原理」の下で働きます。
 山彦の原理、作用と反作用の原理、鏡に映るのはその前に居る自分の姿のとおりだという鏡の原理、自分はいかなる人間で、何が出来て何が出来ないと思っている通りに考え振る舞うことを仮令この自覚がなくても自動的かつ必然的に因果必然的に自ら決めている自らのセルフ・イメージの原理、言霊の法則など、別の言い方が色々あるのも、あなたは既にご存知の通りです。
 諺には、「二度あることは三度ある」(一つの考え/思いの習慣化/思い込み化/信念化)、ヒトを呪わば穴二つ(Ω神のただ一つの心に起源の持つ心を万人/天地万物で一つに共有して使っていますから、誰か他人について考え思い信じることは自動的かつ必然的に自らについて考え思い信じることを意味しています。そこで、他人を呪えば即自らについて呪ったことに自動的かつ必然的になります。しかも、その呪いの効果は自分自身の方に先に現われたりしがちです)など、ヒトの生き方の原理について述べたものが、探せば色々とあるはずです。

○ヒトの生き方の原理の存在を知らず自らの生き方を自覚的に意図的に制御して生きることを知らない人たち
 世の中には、Ω神が創造したこの世界の成り立ちと仕組みの中に、ヒトの生き方の原理=「ヒトが考え思うことがその通りに自らの体験/現実になる『唯心論的な因果必然の法則』に自覚的に意図的に則って生きること」を、未だ自らの自覚的な知識にしていない人達が、普通に居ます。
 この因果必然の結果は、自分の思い通りの人生が生きられないだけではなくて、生きること自体に困難をもたらすことになります。
 しかし、この原因を、自らがそう考えそう思った因果必然の結果とは理解せずに、この人たちの言う、諸悪の根源の資本主義や社会主義/共産主義社会ではないことや運や偶然や誰か他人の悪意のある妨害や政府が平和憲法の規定通りに政治を行わなわず可哀相な人たちの生活の面倒を看ることをしないことや、軍隊や核兵器や戦争があることや国家と言う存在がヒトの自由な生き方を妨げることなどに原因がある、という現実には何の役にも立たず、更に自らをこの世で生き辛くさせる思考を信念化している人たちがいます。
 このような考え方は、同時に、Ω神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みの発見と理解を妨げ、ヒトの生き方の原理の存在の発見を妨げる働きをします。
 これに関して、「馬の耳に念仏」/「猫に小判」という諺があります。
 新約聖書から出た格言では、これを、「豚に真珠」と言います。
 「猫に小判」という場合は、猫は与えられた小判に見向きもしないという意味です。
 「豚に真珠」の場合は、豚は真珠を足で踏みつけ、向き直ってあなたに噛み付いてくるだろう(マタイによる福音書第七章六節)という意味になります。
 実際、ヒトの生き方の原理を説明する一般法則論には、豚に真珠式の反応がときどきあります。
 だからと言って、簡単に引き下がる訳にはいきません。
 これが、一般法則論者の役回りですから・・・。

 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。