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いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

既に決まっているこの世界の成り立ちと仕組みの概観 自分独自の考えなどあり得ない

2007-01-01 02:47:43 | 創造主である神
☆○既に決まっているこの世界の成り立ちと仕組みについての概観
 この世界は、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで、既に出来上がっているものがある、と言いました。
 そこで、この内容について、以下に概観しておきます。

○この世界は私たちが生まれる前に存在しその仕組み等も決まっている
 この世界は、私たちがこの世界の中に存在するようになる遙か前から、客観的に絶対的に普遍的に存在していること。
 具体的には────

○いわゆる創造主である神が実在することやこれが如何なる内容の存在であるか
 唯一絶対普遍かつ至高の存在の創造主である神が実在する。
 この世界が誕生するその前から、この世界と人(宇宙大では宇宙人一般)の創造主としての機能/役割を担っている存在がある(→創造愛/性愛)。
 この世界の全ての「創造主である」ことから論理必然的に引き出される諸々の属性の存在。
 例えば、創造主である神であるが故に、宇宙大で、唯一絶対普遍かつ至高の存在。

○空の本質を持つ絶対的に自由な存在
 禅の世界で「空」と言われている通りの、それ自体に一切の姿・形の無い存在。
 その本質が「空」であるが故に、何にでも成れるし、何になってもそれに囚われず制限制約されることがない、絶対的に自由な、自由そのものの存在。
 全知全能の存在。
 万古不易の無限の存在。

○自己について絶対的な肯定の構えを持つ存在
 自己の存在について、常に変わらず絶対的に肯定の構えを持つ存在。
 即ち、完全完璧かつ最良かつ最高の自己肯定的なセルフイメージを持つ存在。
 自らに絶対的な信頼と自信を持つ存在。

○他者=自分が創造したモノについて絶対的な肯定の構えを持つ存在
 自分が創造したこの世界の全ての存在とその仕組みについて、常に変わらず絶対的に肯定の構えを持つ存在(→存在愛)。
 それ自体で自己完結している完全・完璧な存在(→癒す愛/自然治癒力はこの実際の現れ)。

○心/精神と呼ばれるもので造られている存在
 心とか精神と我々が呼ぶもので出来ている存在。
 創造主である神が、自らの心身=エネルギーを、天地創造の原理=自然法則の働きに則って自己展開して造った結果の、創造主である神の化身/分身の存在に造られている人類の持つ心の存在根拠とその起源はここにある。

○不死不滅の生命
 不死不滅の永遠の生命そのものである存在。
 この他

○愛
 創造主である神と人間(宇宙大では宇宙人一般)との関係、人と人同士の関係、人とこの世界(天然自然の世界/地球)との関係。即ち、愛。

①存在愛(自他共に絶対的な肯定/共にWIN─WINの関係/共にHAPPY─HAPPYの関係を目指す愛)
②癒す愛(その存在が常に完全完璧であることを望む愛。自然治癒力の根拠)
③創造愛(何かを創造し造り出すことを喜ぶことの全て)
④性愛(愛し恋し合った男女間の愛)
⑤完全愛(①~④の総合愛。創造主である神が造ったこの世界の秩序の中では夫婦の間で初めて実現できる愛の形)
⑥父性愛と母性愛(性愛を除く、男性原理&女性原理の化身/分身の存在の完全愛)

○この世界の起源とその基本の仕組み───全体で常にただ一つの世界
 創造主である神(と彼の天地創造の意図)+自然法則+エネルギー一体不可分の働きに則って、創造主である神が造った、部分部分に分離分割することも部分最適化することも絶対にできない、常に全体でただ一つのこの世界の存在と、その成り立ちと仕組み

○真理
 創造主である神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みに根拠があることだけが真実の存在。
 これに根拠を持たない全ての哲学・宗教・学問・思想・意見・主義主張等は、その一切が妄想。

○人間の本質
 神が造ったこの世界の中に「進化」の名で自然科学的に知られている過程をへて誕生した我々人間存在の本質がある。

 この地球上に、過去に存在し、今存在し、これから先に存在する全ての人(宇宙大では宇宙人一般)の間でただ一つの物として共有する、「創造主である神の化身でありその分身の存在の原理的仕組み」を基にして造られている、宇宙大で絶対的かつ普遍的な人という存在。

○この世界を知る/認識する方法 神の存在を発見する悟りの体験
 創造主である神が造ったこの世界を認識し理解する為の手段・方法とこの実際。

 人類史上特に大事な発見は、創造主である神の存在を発見するいわゆる悟りの体験=創造主である神が自ら進んで自らの存在に関する全情報を自己開示する方法と、創造主である神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを、人が、無我・無心・無私・無欲になり、「己を空しくして」発見する自然科学的な方法の二つ。
 これに尽きると言っても良い。
 この二つの方法は、同時に、神の存在証明に関する唯一絶対普遍の方法でもある。

○創造主である神が造ったこの世界=天然自然のインフラの取り扱い方
 私たち人類がこの世界に誕生することに先立って造られた、いわゆる「天然自然」の世界は、私たち人類が生きる為の生活基盤/インフラとして、創造主である神が用意してくれたもの。
 この地球は全人類が生存するための生活基盤。一部の人/国の物ではない。
 この利用法は、この世界の成り立ちと仕組みを造っている創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きを科学的に或いは体験的によく知り、よく理解した知識に則った、広い意味の工学的技術に尽きます。

○人としての生き方の一般的な基本原理
 この世界が唯心論的原理で造られたことを根拠にして、人としての生き方の一般的な基本原理は、以下のような言葉で知られていることに尽きます。
・「求めよ。さらば与えられん」の原理
・「思えば叶う」原理
・俗に「潜在意識の活用法」の名で知られているもの
・「蒔かぬ種は生えぬ」(慣性の法則の支配。幸運や偶然を待っても事は起こらない。他人に自分の人生を決めてもらう式は間違い。好きな花を咲かせてくれる種を自分で選んで蒔くべし)
・信念の法則

○2つの性
 ♂と♀、男と女の2つの性があり、その存在の原理的仕組みもこれに基づく存在構造も♂と♀、男と女とでは異なること。

○性と結婚と家族の原理の存在
 ♂と♀、男と女の2つの性があり、その存在の原理的仕組みもこれに基づく存在構造も♂と♀、男と女とでは異なること。
 これに基づいた性と結婚と家族の原理の存在。
                                     
○男性原理と女性原理
 人間の男=創造主である神の化身/分身かつ男性原理=創造主である神の機能の化身/分身の存在。
 人間の女=創造主である神の化身/分身かつ女性原理=自然法則+エネルギー一体不可分の働きの化身/分身の存在。
 絶対的な一夫一婦制の結婚→純潔を求める根拠

○性愛/父性愛&母性愛
 愛し恋しあった男女の間の愛=性愛
 父性愛(性愛を除く全ての愛の形の、男性原理の化身版)
 全生物の中で人類のみが特定の「父親」を持つ=創造主である神の機能を担う
 母性愛(性愛を除く全ての愛の形の、女性原理の化身版)

○文化文明
 以上のことを前提にした、文化文明の正しい在り方がある。

○人類史の究極の目標と到達点は神の国を実現しその中で生きること
 この世界と人の存在は、唯一絶対普遍かつ至高の存在の創造主である神が、天地創造の原理に則って、自らの心身を自己展開する形で全て造ったものです。
 この当然の帰結として、次のことが言えます。
 創造主である神の化身でありその分身の存在人類が行き着く先としての、地上に神の国を実現すること(人類史の目的)等

○知る知らない認める認めない等に一切関係のない絶対的な真理
 以上説明した事実は────
 人が、あなた一人が、知る知らない、認める認めない、理解できるできない、信じる信じない、受け入れる受け入れない等に一切関係なく、これ自体で絶対的な真理/万古不易の真理です。
 あなたや私が、たとえこの世に存在しなくても、これ自体で客観的な絶対的かつ普遍的な真理です。

○人類が平和に生きることを保障している原理の存在
 こうなっているからこそ、地球上の存在の全てが一つ同じ世界の成り立ちと仕組みをインフラとして共有して生きることができますし、これによって、全人類が一つの世界を一つに共有し、共存共栄して平和に生きることが原理的に可能になる訳です。
 創造主である神の存在を知らず、創造主である神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みも一切全く知らないマルクス主義的な主張で作られている現行日本国憲法(左翼が平和憲法と呼ぶもの)が、創造主である神が造っているこの世界の仕組みに取って代われるハズがありません。

○この世界を前に謙虚さを知ること
 この通りだと、今、あなたは、本当に認識し、理解していますか?
 あなたの存在以前に既に姿形と絶対的かつ普遍的な秩序を持って存在しているこの世界その物に謙虚に向き合って、それが語り掛けて来ることに、いつも謙虚に耳を傾けていますか?

 それとも、「自分が自分が」と言わせる自我が基になった主義主張で勝手に「この世界、この社会は、自分の周りに存在する人達は(この私の為に)、かくあるべきだ!」と決めつけていますか?

○自分独自の思想は無い
 端的に言えば、あなた独自の考え方などないし、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られている人の心が、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造ったこの世界の成り立ちと仕組みに反することを主張することができるという、思想・良心・学問の自由等は原理的に有り得ない、ということです。
 人の心の起源とその本質は、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きそのもので出来ています。
 この意味からも、これに反する思想・良心・学問の自由等は、原理的に有り得ないことになります。

○この世界の成り立ちと仕組みから食み出すものはインチキ
 この真理を自分の常識にしていれば、これから食み出すインチキな考え方、例えば「憲法9条を守れば日本の強いては世界の平和が実現できる」とか、現代版ルイセンコ学説と言って良い、ジェンダーフリーなどというインチキな主張に同調することを、自覚的に意図的に避けることができます。

 以上、簡単に、この世界の仕組みについて説明をしました。
 詳しい説明は後ほどします。


お勧め本のこと 2006年1月追加

2006-01-05 00:13:02 | 創造主である神
 お勧め本の追加
 今、起業がはやりのようです。
 しかし、新しいビジネスを始めるのでも、それをする正しいやり方があります。
 どんなに熱意や情熱があっても、またどんなに良いアイデアがあっても、それだけでは
起業に成功できる訳ではありません。
 ましてや、思い付で走ったのでは、起業に成功するのは万に一つもありません。

 そこで、お勧め本が、次の本です。
 起業をお考えの方には、西順一郎氏の「戦略会計入門」と共に、この本の一読をお勧め
します。
 起業を考える人が、最初に考え準備しなければならない諸点について、体系的かつ網羅
的に、かつとても具体的で分かり易い説明をしています。
 横浜市中小企業指導センターでの起業家セミナーを元にしていますから、とても実践的
な本です。

 横浜市中小企業指導センター編
 起業に失敗しないための起業家読本 ビジネスプランから会社設立・運営まで
 2003年9月(筆者が持っているのは旧版で1998年12月発行)



お勧め本のこと 2006年1月

2006-01-02 22:35:45 | 創造主である神
お勧めの本のこと2006年1月

○凄い発見・発明の紹介をする
 天地万物の唯一絶対普遍かつ至高の創造主である神の存在を証明して、この神が造った
この世界の事を丸ごと説明しようとしています。
 と言っても、筆者の興味関心の及ぶ範囲は限られていますので、とてもその全部を網羅
することはできません。
 世の中には、筆者の興味関心が及ばない所で、凄い発見・発明をされている方々が、も
う無数に存在しています。
 そこで、このような方々の存在とその発見・発明についてここに紹介することも、一般
法則論の一部と心得ています。
 これらの発見・発明は、多くが既にその発見者・発明者の手で書籍の形にまとめられて
います。
 そのような例を、以下に紹介します。
 あなたのお役に立つと嬉しく思います。

 次の本は百頁足らずの物ですが、何かスポーツをする選手にとっては必読の成功哲学の
書。もちろん、潜在意識の活用法の本を知っている人にもお勧め。
 ラニー・バッシャム+藤井優 メンタル・マネージメント 勝つことの秘訣 ヨルダン
社 1988年
 身体的な技術の定着と向上を目指す練習の他に、今ではイメージトレーニングやイメー
ジ・リハーサルをすることは、スポーツ選手の常識になりました。
 しかし、未だに、オリンピックに出る選手の中にも、イメージトレーニングやイメージ
・リハーサルをする正しい方法を知らないようだと思うことがあります。
 この本は、イメージトレーニングやイメージ・リハーサルをする正しい方法を教えてく
れます。

 次は成功哲学を、実際の経営に活用している例。とても具体的に説明されています。
 渡邉美樹の夢に日付を! ~夢実現の手帳術~ あき出版 2005年

 「成功哲学」は、人をして幸運の人にするためのハウツーとノウハウの習得も意味しま
す。
 例えば、突然の鉄道事故等に遭遇して、生死を分けるのが、運が良い人か、悪い人かの
違いです。どんなに事故防止の物理的装置が完備されても、それでも生死を分けるような
ことが発生します。
 そこで、理屈はともかく、手っ取り早く自分の運を日頃から良くするように鍛えるため
のハウツーを説いた著者の本のお勧め。
 浅見帆帆子 あなたは絶対!運がいい グラフ社 2001年
 リチャード・ワイズマン博士 運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則 角川書店
 2004年

 また、一般法則論/成功哲学は、何をするのでも、それをする為の正しい方法があるこ
とを知るものでもあることになります。
 例えば、犬の飼い方のハウツー本や、ガーデニングの基本を説く本など。

 マルクスの資本の運動を人類史上初めて解明したという「資本論」を幾ら読んでも、独
占資本の資本家になれる企業経営力は身につきません。
 しかし、全国的にこの熱心な実践者がいて成功している、企業経営の原理的仕組みを説
いている方がいます。
 次の本で説明されていることをしっかりと身につければ、健全な会社経営ができる人に
なれるでしょう。
 西 順一郎 戦略会計入門 売上高は役に立たない ソーテック社 1987年
 絶版の本ですが、古本として手に入ります。
 この本では、従来の「複式簿記を基礎にした会計学」に変えて、実際の経営判断に役立
つように実用化された「マトリックス会計」も紹介しています。
 なお、「西 順一郎」「戦略会計」でインターネット上で、WEB検索を。

 今回の紹介本は、以上です。


回答下の3

2004-12-31 14:42:52 | 創造主である神
 以下は、回答の下の3になります。

○林檎の実が落ちるのを見て万有引力を発見した話は事実か
 ニュートンは、林檎の実が実際に落ちるのを見て万有引力を発見したという話は、本当
にあったことなのか?

 ニュートンが万有引力を発見した林檎の木を株分けした林檎の木が、日本の何処かの大
学の庭にある、と聞いた記憶があります。

 必要は発明の母と言います。
 現実の何かの必要性が無くて、何かの問題解決の為の思考を一般的に抽象的にすること
は、大学のゼミの演習でも無い限り、まずないでしょうね。
 一般法則論だって、必要だし世の為に役立つと確信しているからしている話です。

 ニュートンはケプラーが残してくれた天体観測の記録を元に思考する中で、最終的には
万有引力の法則を発見する訳です。
 ただ、この発見の瞬間は、林檎の実が落下するその瞬間を、ニュートンが正に見ていた
時か、過去にこれを見た記憶も再生していたその瞬間だったのだろういうことは、十分に
考えられます。

○ニュートンはこの世界を秩序付けている自然法則を発見する名人だった
 ニュートンは、例えば物が落ちるというような、普通の人には当たり前で既によく分か
っている筈の現象であり、それを取り上げて説明する価値など一切無い筈の現象に、私た
ちが生きているこの世界の成り立ちと仕組みを支えている宇宙大で普遍的な有り難い自然
法則の発見をすることが出来た、人類史上数少ない自然法則発見の名人の一人です。

○ピアジェの発達心理学
 スイスの心理学者ピアジェは、自分の三人の子供の成長過程を観察することで、子供の
発達心理学を作った話を御存知の方もおられるでしょう(その後、ピアジェ理論の元にな
った観察実験は全ての場合を尽くして無いことが分かりましたが)。
 育児ノイローゼになって少しも望まない幼児虐待に追い込まれる人たちと、ピアジェと
を分けるものは何か・・・。
 「経験から学ぶというけれども、経験は不完全な教師で、その経験から何を学ぶべきか
何も教えてくれない。」のは事実ですね。何を学ぶべきかは、経験をする人の見識一つに
懸かっています。

○一般法則論は自然科学の成果等を否定しない
 一般法則論は、これ自体で自己完結した完全な理屈の世界・知識の世界を作ろうとして
います。この為に、同義語反復の循環論法/トートロジーを自覚的に採用していることは
既に述べました。
 しかし、一般法則論は、これまで人類が獲得した知的な財産を一切否定し、一般法則論
で新しく全てを作ると言っているのではありません。
 人類が獲得した知的な財産を一切否定し、一般法則論で新しく全てを作る式の試みは、
(創造主である神+)自然法則+エネルギーで造られてこの世界の仕組みに則って獲得さ
れて来た人類のこの世界に関する知識を否定することになるもので、原理的にあり得ませ
ん。
 この世界を実際に造っている自然法則とエネルギーの知識に基づいて、この世界の仕組
みを説明している自然科学の成果を、誰が否定することができるのでしょうか(実際には
ポストモダン哲学の影響下にある人達が否定しています。驚くべきことです)!
 一般法則論は、自然科学を否定するどころか、逆に正当に高く評価しています。

○例えばKJ法を勧める訳
 人類が獲得した知識や智慧を、一般法則論は尊重する。
 これだけでは無くて、人類が獲得した知的な財産の中で、もっと世界的に知られて使わ
れて良い筈の例えば川喜田二郎先生が発明したKJ法を、ここで私が紹介するのは、一般
法則論的な観点では是非ともしなければならないことに属しているからです。

 本当に、もっと広くKJ法が使われたら、これだけで解決してしまう問題が沢山あると
言って良い位です。
 しかも、KJ法は、その基礎となっている哲学が、自他共に絶対的に肯定の構えだし、
とても民主的だし、手法としても人が持つ身心の能力をフル活用することにもなるし、こ
れをしているという自覚が無くても自然に自己発見に自動的かつ必然的に繋がる無意識の
意識化の訓練をすることになるし、この結果は、人間の出来を自然に良くしてくれる/霊
的なレベルを向上させてくれる効果があります。
 こんな総合教育的な技法は、探しても滅多にあるものではありません。
 しかも、KJ法を使って本格的な学術論文が書けるのです。
 しかし、「能率手帳の使い方」のようなものがあるように、一般の多くの人には、この
解説がないと、その素晴らしさや実用性が理解できないということがあります。

○一般法則論の話が簡単にできると良いのですが・・・
 初心者に物事を説く場合、それを、イロハやA、B、Cから始めると言います。
 しかし、一般法則論の話をする場合、神や自然法則やエネルギーに関して世間一般で通
用しているイロハやA、B、Cの知識は、一度全部御破算にして、ゼロから説明を始める
必要がありました。これ自体が、一般法則論の話のイロハになるものですから・・・。
 と言っても、これは、中々面倒で、何年も考え抜く忍耐力と体力が必要なものです。
 一般法則論の説明は、これをやっている本人の私が未だに極めてはいないものです。
 実際、新しい発見/気付きと分かり易い的確な説明の仕方を求めて、この文も全て新し
く書き下ろしているものです。

○分かり過ぎる説明を目指す
 一般法則論の話をする相手は常に、既に「そんなことは百も承知」の方々ばかりです。
 で、話しの持って行き方がちょっとでも悪いと、「テメェ! 俺に物を教えるつもりか
よ! 何様の積もりだ!」と、実際猛反発を食らいます。全く、私の人徳の無さを嘆きた
くなります。
 しかし、これにめげていては、一般法則論の説明は出来ません。
 目標は、分かる説明では無くて、分かり過ぎる説明をすることです。
 また、単に説明をするだけでなく、説明の元になった考え方や発想の仕方そのものの説
明もして、一般法則論の真偽の検証にお役立て頂く仕組みになっています。
 で、一般法則論の説明には無駄話が多い。
 それでもなお、話が通じない方には通じません。
 差し当たりは、一般法則論に理解を示して下さる方にだけ読んで頂く積もりでこのブロ
グに文を書いています。

○決して人には言わないのが良い話
 話が飛びますが────
 私は、悟りの体験の瞬間に、神が、私がこの世にある究極の存在根拠を証明をしてくれ
た/究極の存在証明をしてくれた、と理解しました。

 この意味は、2つあります。
 一つは、悟りの体験の中で、私が知った神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みの中で
は、私は神(の化身/分身)であり、同時に、私以外の全ての人も等しく私と同じ神(の
化身/分身)だと言うことです。
 人は神(の化身で分身)。これは、自他の尊厳の究極の根拠になるものです。

 今一つは、とにかく、この世界の全ての事にその存在根拠を与えてくれる神が、私の存
在証明をしてくれたと思ったお陰で、例えば、次の様なことを自然に身につけました。
・人が私をどう思うかなどを気にする必要がなくなりました。神が造ったこの世界の秩序
に調和する限り、私が思う通りにすれば良い訳です。

・私の言動の正しさの根拠を私自身に置く必要が一切なくなりました(注記6)。
 なぜならば、第一に、私という存在と私の全ての言動との関係は、私と私が作る料理と
の関係のように、「空」の関係にあるからです。
 また、第二に、私が言及する物事の真偽や適否等は、神の理法の働き(創造主である神
+自然法則+エネルギー一体不可分の働き)が元々決めているからです。で、これに照ら
して、私がどう言おうと、それは最初から間違っているか正しいかのどちらかになるから
です。
 例えば、「創造主である神が実在している」と言う私の主張は、私がこの主張を悟りの
体験の権威を込めて言おうとそうではなかろうと、或いは、例えば、時の権力者に取り入
ってその権力者からそうだと御墨付を貰おうが貰わまいが、これらの事に一切関係なく、
それ自体で事実/真理であるかどうかが、神の理法の働きで、私の存在以前に既に決まっ
ている、ということです。「それでも地球は周っている」のです。
 この意味することは、少なくとも次の2つのことです。
 第一に、神の理法の働きが造っているこの世界の秩序に調和することをすれば、自動的
かつ必然的に私のすることは宇宙大で客観的に普遍性を持つことになるということです。
 詰まり、あなたの言っていることは、あなたの世界の中で唯一絶対普遍かつ至高の事で
あり、これを誰もが認めるけれども、しかし、あなたの言っている事は創造主である神+
神の理法の働きには何の根拠も無い話で、誰も支持しないなどと言われずに済むという訳
です。
 第二に、私は真理の為に死ななくても良いということです。踏絵を突きつけられてもそ
れを踏んでも踏まなくてもどっちでも良い訳です。創造主である神+神の理法の働きに客
観的かつ普遍的かつ絶対的な根拠を持つ真理はそれ自体で神聖不可侵の絶対的な真理です
し、また、仮令踏絵を踏んでも、私本来の絶対的な清浄無垢性はいささかも汚れることは
無いのですから。
 こういう訳で、私は、物事の真偽や適否等に関して一切責任を負わなくて済むようにな
っていると分かったので、安心して自分が神の理法に照らして正しい/良いと思う意見を
述べることができるようになりました。これは、とても気が楽です。
 と言う意味は、出世をしないようにするとか権力や社会的な地位や名誉やお金や贅沢等
を蛇蝎の如く嫌うと言う意味ではありません。清貧は、悟りの体験をした人の生き方とは
関係がありません。仏教の経典に登場する人物で言えば、維摩経の維摩が良い例です。
 悟りの体験をした人の正しい在り方は、それが神の国を地上に実現することに役立つの
ならば、地位でも権力でも名誉でもお金でも贅沢でも何でも進んで手に入れて役立てなく
てはなりません。
 この話にええっ?! と思われる方は、間違ったことを教えられて信じているのです。
 実際、日常体験の中で、その方がその地位にいて下さって本当に良かった! と思うこ
とがあるものです。
 これを潜在意識の活用法で有名なマーフィー流に言えば、「良い人ほど金持ちであって
欲しい」ということになります。
 こう申し上げると、「金持ちは社会的悪であり社会の敵だ」という社会主義者・共産主
義者や(機会の平等ではなくて)結果平等主義者(啓示宗教の神様を含めて! 宗教家と
この同調者の中にかなり普遍的に見られる主張。現象的には、唯心論に基礎を置く筈の宗
教を信じる人たちが、唯物論に基礎を置く社会主義者・共産主義者とこの一点で共同戦線
を張ることになります)から、異論がありそうです。
 でも、神の理法に照らして考えればどちらの主張に正当性があるのかは自明の筈です。

・「俺が俺が」と強く自己主張しなければ自分の存在が人に認められず、自分の存在を維
持できないという脅迫観念から完全に解放されました(私利私欲の無い無我・無心・無私
の心の起源の発見)。謙虚さも、同時に自然に身に付きました。

・自分の存在は、他人の存在の有無や他人との関係や他人の存在とその在り様如何に一切
関係なく、この世界の中に独自の絶対的な地位を占めていることが明らかになり、自分の
存在を確かめ優越感に浸る意識的或いは無意識的な目的で、人を見下す必要も人の足を引
っ張る必要もその動機も一切無くなって仕舞いました。もちろん、誰とも競争する必要も
ありません。

・自分の知識や学歴や社会的な地位やお金やブランド品等で自分を着飾って自分の存在証
明の代わりにする、こうできるという多くの人達が持っている錯覚からも、自動的かつ必
然的に完全に自由になりました(注記7)。

 この結果は、以前にも増して、実用中心の生き方になりました。
 但し、見栄を張らなくても良いのは、確かに楽ですが、もちろん、この世ではこれによ
って失われる物もあるようです。
 当然に、他人の存在から精神的に自由になりました。

注記6 自分の作った料理の中に、自分の身体の一部を切り取って入れなかったら、それ
は自分の料理とは言えない、と思う人はまずいません。
 料理とこれを作った人の間には、禅的空の観点でも物理的観点でも分離が常に必ずあり
ます。
 これが、意識化されず確かめられない儘にある、万人の無意識的な常識です。

 しかし、話が何かの主義・主張や意見を述べる場合には、もう当然の事のように、それ
には自分の全人格や全存在が組み込まれていて自分と一体不可分のものだ! こう言えな
かったらそれは自分独自の主義・主張や意見では無い! と無意識の内に強く思い込んで
いる人たちが、世の中にざらにいます(注記8)。
 しかも、万物の尺度は自分だと思っていたりします、自分の存在にとってはそれ自体で
客観的にかつ普遍的に存在する神の理法の働きによるのではなくて・・・。
 この事実は、冷静で客観的な議論をとても困難にします。
 人と議論して自分の主義・主張が認められないとすると、それは即自分の人格や自分の
存在そのものが否定され、馬鹿にされた、ということになるからです。
 で、人と自分の主義・主張を巡って議論することは、何が何でも負ける訳には行かなく
なります。この結果は、多くの場合、話の途中から議論に勝つ為に話の筋がメチャメチャ
になります(注記9)。
 議論に破れると、自分の人格も存在も否定した相手に対してはもう当然に、人格も存在
も否定された者の尊厳を守るためにもう何をしても良いということに一気に論理が飛躍し
たりします。
 人によっては何処かで聞き齧った「正当防衛」という言葉を持ち出して、人格と存在を
否定された者は相手を殺しても良いのだ(実際には、今この瞬間に身を守らなくては自分
が危ないという急迫的緊急性とか「同害報復の限度の原則」がある)、という所まで論理
が飛躍したりします。
 このような本当に困った人たちが、世の中には沢山います。

注記7 「栄華を極めたソロモンも、この野の百合ほど着飾ってはいなかった」と、本当
にイエスは的確かつ詩的な言い方をしました。
 野の百合は、それに付け加える物が何も無いその在りの儘の姿で、神によって存在証明
をされている清浄無垢の完全・完璧な存在です。
 悟りの体験のときに、私も野の百合のように付け加える物が何も無い在りの儘の生まれ
姿で、神によって存在証明をされている清浄無垢の完全・完璧な存在だ、と納得して、と
ても有り難い! と感激したものです。
 こういう訳で、このブログのテンプレートは、百合の花の物になりました。

 現在、今一つ別の意味で、イエスの言ったその言葉が蘇りつつあります。それは、遺伝
子DNAの発見とこれに基づく遺伝子工学、更にこれに基づく莫大な富をもたらすビジネ
スの展開です。これを巡って、沢山の人たちの生活が成り立ちます。

注記8 もちろん、神の理法に根拠を置かずに、また、この積もりも一切無く自分独自の
主張にこだわる人は、他人から見ると何を言っているのか全く分からない事を主張してい
るわけですから、脳病院行きになる人です。

注記9 例えば、次の話は架空のものですが────
 ラジオ受信機の性能について得々と説明をしている人がいるとします。
 これに私が、「ラジオ受信機の性能は、放送局の存在と出している電波の種類とその送
信力との関係で決まる部分がありますね」と言ったりすると話が紛糾する元になります。
 「話を勝手に広げるな! 俺はラジオ受信機のことを話しているのだ。放送局の事など
関係無い!」(この種の議論では、ラジオ受信機はそれなりに自己完結的に成り立ってい
るシステムだという話は殆ど出ません)。
 「いや、ラジオ受信機の性能が放送局と関係無い訳はありません。放送局あってのラジ
オ受信機とその性能の話であるし、ラジオ受信機とその性能あっての放送局です。この二
つの関係は最初からワンセットで切り離せません。」
 「てめえ、俺に物を教えるつもりか! いつ、俺が放送局がラジオ受信機と関係無いと
言った! そんなことは一言も言って無いだろう。ラジオ受信機と放送局とが最初からワ
ッセットなのは当たり前ではないか! 放送局の存在抜きにラジオ受信機やその性能の話
が出来ないのは当たり前ではないか! 関係無いと言ったのはお前だ。俺を侮辱した。許
さん! 謝れ! 謝れ!」
 もう呆れて、「主張が逆様になってしまいましたね・・・」
 「何が逆様だ! 俺を侮辱した。許さん! 謝れ! 謝れ!」
 この議論が対面式で行われて、私の方が、間違った相手と議論をしてしまった、と引き
下がると、議論に勝った積もりの相手は、その勝利の象徴的な儀式をすることを知りまし
た。例えば、「塵紙を持っているか?」/「これで良いですか?」と言ってそれを差し出
すと、その塵紙で早速鼻をかむなど(戦利品の獲得)。
 ニホンザルで、優位のサルが劣位のサルにマウントしてその地位の違いを確認する象徴
的な行為が知られています。人間にもこの種の象徴的な行為があるのは間違い無いようで
すね。これはユングの言う元型やこれを踏まえた広告の絵作りの話に繋がります。
 あなたの「寝る前の儀式」は何ですか?

 ここまでの話は、宜しい。
 しかし、これは、人には決して言ってはいけないことだったのです。
 俗に言う「若気のいたり」で、これをやってしまいました。
 その方にとっては、現在の社会的な地位が、その方の誇りとなる存在証明であることを
全く考えずに、その方の前で、上のような話をしてしまったことがありました。
 その瞬間その方の顔色がみるみる変わって行くのを見て、もう飛んでもないことをして
しまった、と思ったものです・・・。
 以来、人がその方の存在証明にしている事柄には一切触れないつもりが、ある若い女性
が持つのブランド物のバックを見て、なぜあなたがそんなもの! と言ってしまうなど間
違いを続けています、木村弓さんが歌う、アニメ「千と千尋の神隠し」の主題歌の文句の
ように・・・。

○私利私欲の無い無我・無心・無私の心を世界に輸出しよう!
 悟りの体験の中で発見したことの一つに、私利私欲の無い無我・無心・無私の心があり
ました。
 これは、元々人の心に生得的に備わっているのです。ドーキンズの利己的な遺伝子など
その実体は無い、ということです。

 これまで日本文化の海外輸出品と言えば、柔道(単なる格闘技ではない人間性の訓練を
伴っています)、畳、漆器、浮世絵、華道、茶道(これらは日本的美意識を伴います)、
ZEN(禅。空の観念を伝えました。但し、空の説明が十分では無いと思います)、イン
スタントラーメン、寿司、日本式風呂、風呂敷、漫画・アニメ、カラオケ、ウォークマン
やビデオカメラのような小型の精密機器などがあります。

 しかし、今、一般法則論的に世界に輸出したい一番の日本の文化は、私利私欲の無い、
無我・無心・無私の心です。また、これを実現する克己心です。

 日本の明治維新を真似て、自国の近代化に取り組んでいる国が、世界に幾つもあるよう
です。
 それなのに、中々それがうまく行かないのは、自国の近代化に取り組んでいる国の指導
者に、一番大事な私利私欲の無い無我・無心・無私の心が欠けている、と見て取れること
です。

 明治維新の元勲達には、これが曲がりなりにもありました。
 今の日本の政治家が抱える一番の問題点は、与野党を問わず、これらにかなり欠けてい
ることでしょう。

 しかし、庶民の間では、未だたっぷりと、私利私欲の無い無我・無心・無私の心が、公
の場で活動しています。
 例えば、町内会の奉仕活動。年の暮れの今ですと、火の用心の夜回り。

 日本は、悟りを開いた人たちが住む世界なのでしょうかね。

 以上で、頂いたコメントに対する回答を終わりにします。
 改めて、あるはずのない海 Version2さんに感謝します。
 有り難うございました。

なお、回答上についてのコメントとこれに対する回答が同じところにあります。




回答下の2

2004-12-29 14:31:12 | 創造主である神
 以下は、回答上と下1・2・3の内の2の話。

○一般法則論は宗教の話なのか科学の話なのか?
 一般法則論は、宗教の話をしているのか科学の話をしているのか、分からない話をする
と言われることがあります。

 一般的に言えば、今の時代、色々な意味や目的で宗教について関心を持っている人は、
宗教と科学との関係を取り上げたり、もっと積極的に宗教と科学の一体化を言わない人は
居ない位のものです。特に、新宗教と言われる宗教では、もう何らかの形で、自分の宗派
への科学の取り込みを言います。
 ただ、そうは言っても、文系で科学が分かる人は少なく、科学の本質にまで遡って宗教
との関係を考察したり、宗教と科学の本質的な一体化をしようとしている人は、まず居な
いようです。
 一般法則論のように、宗教と科学とを元々一つ同じものとして説明するのは、恐らく誰
もやったことがない初めての試みでしょう。

 哲学を科学的に裏付けするのは、正統派の哲学らしい。こう聞きました。
 一般法則論は、それに加えて宗教も一体不可分で説明します。
 実際、宗教と科学と哲学とを一つにして、「一般法則論」と名付けた形でこの世界の成
り立ちと仕組みを説明することができます。

 私達が生きている世界は、唯一絶対普遍かつ至高の神(一般法則論で存在証明した神)
が造った全体でただ一つの世界です。この中に、全ての人、即ち、宗教家も哲学者も科学
者も男も女もアメリカ人もイラク人も中国人も私たち日本人も生まれていて、一つ同じ世
界を共有しています。このことは、3千年前(中国人やアメリカ人は存在しませんでした
が)も今も少しも変わりがありません。
 そこで、大雑把に一言で言えば、この世界の実像は、これら立場の違う人たち全部がそ
れぞれに見た世界像を一つに統合したものになる筈です。
 言い換えると、この世界の中に、科学者だけが或いは宗教家だけが独占して見ていて、
その立場だけが説明することが許されている世界などある筈があり得ません。
 また、実際、同じ人が、科学者であって同時に敬虔な仏教徒やキリスト教徒であり得ま
す。

 しかし、現実は、皆で一つ同じ世界を見てその仕組みや謎の解明をしている筈なのに、
これを行っている学問の専門化と細分化が進み、この結果は皆が住む一つ同じ世界が見え
なくなってしまったことが、自覚化されるようになる訳です。
 私が学生だった1960年初め頃から、“学際的”研究という言葉を聞くようになりま
した。“学際的”という言葉は英和辞書にまだ載っていませんでしたが・・・。
 学際的研究とは、元々全体でただ一つの世界性を取り戻すべく、学問それぞれの固有の
領域で見ている狭い世界を超えて、何か一つの具体的で実際的な問題の解決に共同して取
り組むことです(方法論の共有・専門用語の共有・思考の仕方の共有などを意味する)。

 炭素14の測定技術により弥生時代が五百年も時代を遡ることが分かった最近の考古学
の成果は、この顕著な一例。
 宗教の理解に関するシンポジウムでも、国際トランスパーソナル学会のシンポジウムの
ように、色々な学問分野の人達が一つに集まる式の学際的な取り組みが行われています。
 また、理系と文系との交流や統合ということが言われてからも久しい。

 しかし、科学の成果を宗教家が引用することに不快感を露にする科学者がいますし、唯
物論に基礎を置く科学はどんなに長けても、人間としての良い生き方を何も教えてくれな
いから駄目だ、と言う宗教者もいます。

 一般法則論は、最初から、宗教も哲学も科学も一つ同じ神が造った全体でただ一つの世
界に関する考察であり、この全体を一つに統合し総合して説明するのが、この世界を説明
するには唯一合理的でその成果も大きい、と理解しているのです。

○一般法則論は幾つの基本概念で説明できるか
 一般法則論で、この世界を説明するのに必要な基本概念は幾つになるのか?
 結論を言えば、創造主である神、自然法則、エネルギー(物質はエネルギーの変形物)
の3つを基本にするのが良いようです。

 更に詳しい説明をするには、私たちが生きているこの世界(自然界と文化文明世界)、
意識と無意識からなる心、性、無意識の意識化、進化などの基本的な用語が必要です。

 ただ、こうするに当たっては、自然法則とエネルギーに関する科学的かつ自覚的な知識
が必要でした。
 私は、幼児の時から自然法則に関する自覚的な知識を積み重ねて来て、二十歳を過ぎる
頃には、「何でもそれが正しいとされる根拠は、常に必ず自然法則にある」と思うように
なっていたものです。

 本当に、子供でも、自然法則やエネルギーという言葉さえ未だ一切知らなくても、それ
が何かについて生得的(先験的)に体得して知っているものです。私はその例ですし、居
ない居ないバー遊びの出来る幼児は、正にこのことを知っていると言えます。

 悟りの体験をした後、この説明には自然法則に関する自覚的な知識が役立つとすぐに理
解しましたが、この為には改めて自然法則とエネルギーに関する自覚的な知識の真偽と適
否を再確認する必要がありました。

 一般法則論の説明には、自然法則とエネルギーに関する自覚的な詳しい知識が必要不可
欠です。
 で、この知識を求めて、悟りの体験後、自覚的に色々と勉強もしました。
 例えば、潜在意識の活用法で言う潜在意識の性質は、自然法則とエネルギーの性質や働
き方の原理についての知識と一つ同じものです。一般法則論の理解では、潜在意識の中身
は創造主である神+自然法則+エネルギーですから。
 同時に、このことを、素人の私では無い、専門家の自然科学者、後には科学哲学者が纏
めて説明してくれるのを待ちました。
 しかし、三十年たっても、自然科学者並びに科学哲学者が一向にそれをする気配が無い
ようなので、私が及ばずながらその説明をすることに決めました。

○自然法則とエネルギーに関する知識は仮説の積もり
 私は、文系の出身ですので、科学に関する体系的な基礎知識に、未だ欠けています。
 しかし、一般法則論を説明するため必要不可欠な、自然法則とエネルギーの持つ機能、
性質、働き方の原理、相互の関係、その本質等に関する知識だけは自前の物を持っていま
す。この積もりです。なお、この知識は一般教養としても役立ちます。
 と言っても、一般法則論が持っている自然法則とエネルギーに関する知識は、最終的な
知識ではありません。これらは一つの「仮説」で、これから科学的に確かめる為のたたき
台になる知識に過ぎません。と言っても、その存否を確かめる為に難しい実験は要らない
でしょう。
 もちろん、あなたが、新しい知識を付け加えて下さることを期待しています。

○自然法則とエネルギーこのものに関する知識は私が一番詳しい?!
 自然法則とエネルギーの持つ機能、性質、働き方の原理、相互の関係、その本質等に関
して自覚的に思考していて、多少とも体系的で纏まった知識を持っているのは、世界中で
いや少なくとも日本の中では、未だ私位しかいないらしい。
 こう、10年位前から思うようになりました。

○なぜ自然法則とエネルギーに関することは子供でも知っているのか?
 自然法則とエネルギーの持つ機能、性質、働き方の原理、相互の関係、その本質等は、
子供でも生得的に知っている、と言いました。
 子供どころか生物ならば本能的に知っている、と言っても良い位です。
 この理由は、人に限らず全ての生物は、(創造主である神+)自然法則+エネルギー一
体不可分の働きで全て造られた世界に生きているし、生物の身心そのものもこの働きも全
て同じく(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られ支配され
ている、という簡単明瞭な事実/真理があるからです。
 生物の本能の中身はもちろん、(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体不可分
の働きで造られ、支配されています。

 現在、人の思考や知識の獲得に係わっている大脳が、(創造主である神の心と意図+)
自然法則とエネルギー一体不可分の働きで出来ていることは、科学的な常識です。
 それどころか、心の中身やその働きも、また知識も、創造主である神+自然法則+エネ
ルギーで出来ている、というのが、一般法則論の理解です。

 なお、三浦俊彦氏によれば、「現代哲学の中心テーマは『心』」だそうです。読売新聞
2004年12月16日の本の紹介欄。

○漠然とした間違った思い込み
 この世界の全ての存在とその現象が、唯一絶対普遍かつ至高の創造主である神の身心の
自己展開で造られている訳ですから、これ以外のもので出来ている訳はありません。
 この点を多くの人達が誤解していて、これに加えて或いはその全てが、これ以外の何か
未知の素材や要素や法則等でこの世界ができている、と漠然と思い込んでいるようです。

 しかし、こういう間違った考え方をすると、例えば正六面体のサイコロの各目が出る確
率が1/6になるのも、人間の心の起源一つも説明できず理解できないことになります。

○正六面体(注記4)のサイコロの各目の出る確率が1/6づつになる根拠
 例えば、正六面体のサイコロの各目が出る確率が1/6になるのは、神の理法、即ち、
(創造主である神+)自然法則+エネルギーがそのサイコロを造り、その働きも支配して
いるのですから、また、「同一原因=同一結果の原理」(注記5)の下に、神の理法は特
定の目だけを依怙贔屓せずに全ての面/目に等しく働く性質がありますから、これらのこ
とを全部知っている(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体不可分の働きが、正
六面体のサイコロの各目が出る確率を自動的かつ必然的に1/6にすることになります。

注記4 正六面体と断った理由は、注記5で説明することの裏返しで、サイコロの各面は
同一構造=同一結果の原理或いは異なる構造=異なる結果の原理に従いますから、サイコ
ロの各面が等しい形になるように正確に正六面体に作られていないと、各目が出る確率は
等しくはなりません。もちろん、同時にそのサイコロの重心がそのサイコロの中心にある
ことも必須の条件です。
 サイコロの状態は、サイコロを作り支配している自然法則+エネルギーが全部知ってい
ます。

注記5 原因=結果の因果必然の法則は「それをそれにする原理的仕組み」を基に造られ
る・作られるシステムや構造物の形に必ずなりますから、「同一原因=同一結果の原理」
は「同一構造=同一結果の原理」に必然的になります。

○透視ができる超能力の根拠
 次に出るサイコロの目を予想し予言する人の心も、サイコイを作り、その働きを支配し
ているのと一つ同じ創造主である神+自然法則+エネルギーで出来ているのですから、こ
の無意識の情報を意識化の出来る人には、ちゃんと分かる訳です。

 同じ伝で、他人の心の中が読める人がいるのも理解できます。
 本当に、その人は、今、あなたの隣りにいるかも知れません。
 但し、下手に他人の秘密を手に入れることは、自分をとても危険な地位に置くことを知
っている人ならば、そこで、仮令知っていても何も言いませんがね。
 本当に、プライバシーはある様でいて、実際には無いものです。実際、私の心を読んだ
人が居て、私のプライバシーは約1年間に渡って一切無くなってしまったことがありまし
た。

○確率の法則は因果必然の法則の働きの上に成り立つ
 今、説明した正六面体のサイコロの例で明らかな様に、確率の法則は、厳密な原因=結
果の因果必然の法則の働きの上に、確率的な法則が成り立っています。
 例えば、明日の雨の降る確率は10%と言えば、天気も自然法則+エネルギーの支配の
下にありますが、今日から明日に掛けての天気の変化は、雨が降るような天気図の形にな
る可能性は10%、残り90%は雨の降らない天気図の形になる可能性が大きい、という
意味です。
 これを間違って、ある一つの天気図の形が形を変えずその儘で、10%だけ雨の天気を
含み、残り90%は雨にならない天気を含む、とお考えの方がいます。これは、因果必然
の法則をご存じでは無い事に基づく誤解ですが、自分のこの誤解を気がつかずに、確率の
法則はこの通り訳の分からない法則だ、と言う人たちがいます。
 更に、確率の法則は、原因=結果の因果必然の法則を否定するものと間違ってお考えの
方が少なくないようです。錚々たる自然科学者でもこう間違って考えています。
 しかし、こう考えてしまうと、確率の法則は何が何だか分からないものになります。

 確率の法則について一般にどのような説明がされているのか、あなたもご確認を。

○自然科学の場合
 話しが後戻りしますが────
 自然科学の分野で、この世界を説明するのに必要な基本概念は幾つになるのか?
 一般法則論の理解では、自然科学でのそれは、自然法則とエネルギーの2つのみです。
 この他に、自己組織化とか複雑系とか確率の法則とかを例に上げる人がいますが、これらは、一般
法則論での自然法則に関する理解では、自然法則の話の一部です。

 どうして、科学哲学者、科学基礎論者は、科学は、結局の所、自然法則とエネルギーの
2語でこの世界の全てを説明し尽くそうという試みです、と一義的/一意的に明確に確定
的に宣言してくれないのか?!
 本当に、このことに関しては、なぜぐずぐずしているのですか! と歯痒い思いがしま
す。こう言ってくれると、科学の素人にも、この世界を見る見方がとても簡単になります
し、理解し易くなります。説明する方も、説明し易くなる筈です。

○一般法則論や自然科学以外の学問の場合
 一般法則論並びに自然科学以外の学問では、この世界を説明する基本となる用語は何と
何を考えているのか?!
 このことに関しては、ある意味でメチャメチャに混乱していて手に負えません。
 自然科学が、この世界は自然法則とエネルギーの2語で説明し尽くすと明言すれば、こ
の他の学問でも、これに「右に倣え」して、それぞれの学問分野でこの世界を説明する基
本となる用語も、これとこれだと整理されることになる筈です。

○操作のための単純化の必要性
 ここで、哲学的な観点で、今している話を整理しましょう。こういうこともするのも、
一般法則論の話の一部ですから。

 この世界の成り立ちと仕組みを、創造主である神+自然法則+エネルギーの3語や、自
然法則+エネルギーの2語で説明する式の単純化、それも物事の本質を捉えた単純化を、
一般法則論では常に意図し試みています。

 この世界の中で生きるためには、自分自身の存在を含めて、この世界を自分の生きる目
的に合わせて制御し秩序付けることを否応なしにやることになります。これをしない人や
出来ない人たちは、結果としてこれをする他人の人生の道具にされてしまいます。
 この場合、操作する対象やその方法について複雑怪奇の儘では、実際には何もできませ
ん。「人生不可解」の儘では、こう書き記して日光華厳の滝の上から投身自殺した藤村操
みたいに生きることが難しくなってしまいます。
 で、実際には、操作の為の単純化が必ず行われます。単純化しなければなりません。

 単純化にはもちろん適切さを欠き悪い例もあります。
 例えば「女性は、何時でも何処でも誰とでもセックスしたがっているのだから、これに
積極的に応えるのが男の責務だ(と言って時には強姦も正当化する)」という例。女性を
侮辱する飛んでもない単純化だと怒る方もおられると思いますが、知性のある女性でもこ
れに実際説得されてしまうのですから、これが単純化の持つ迫力を伴う効用です。

 俗に言う「信念の人」は、恐ろしいほど物事を単純化して考えているものです。
 で、時にはその極端な単純化を諌め正すことが必要になります。

 現実には、物事を単純化し過ぎるよりも必要な単純化を自覚的に意図的にすることを知
らない人たちが沢山いる事の方が問題です。
 中には、物事の細部に拘り、単純化を拒否する人たちさえいます。

 物事を単純化して捉えることを、自覚的に意図的に学ばない儘大人になってしまった人
たちが少なからず居て、この結果は、本来個人で解決すべき問題が社会問題になってしま
うなど、生きることを自らとても難しくしていることが、現代の深刻な問題点です。

 歳を取ることは、聞くところによれば1日十万個の脳細胞が死んでいくという話ですか
ら、脳細胞が減った分だけ頭の中が整理されて、若い時のように複雑怪奇なことを考えた
り理解したりすることが難しくなり、否応なしに物事を単純化して考える事しかできなく
なるもののようです。ただ、その単純化が物事の本質的な理解に基づき、これを前提にし
たものであるかどうかの問題はありますが・・・。

○一般法則論的な単純化の目的
 一般法則論は、私たちが生きているこの世界の理解の仕方の単純化の例を示すという目
的があります。これを意図的に自覚的にやっている点で、他の人たちと異なります。
 私たちが生きているこの世界の理解の仕方の単純化は、もちろん、各人の自助自立した
生き方を少しでも容易にしようということにあります。

○無意識の意識化と自覚的反省の勧め
 一般法則論では、物事を単純化して捉えることの他に、無意識の意識化と自覚的反省の
勧めや、少数の根本的な原理原則に則って体系的な首尾一貫した物事の捉え方などを勧め
るなどをしています。

 以下は、下の3に続きます。


自然科学の方程式に神の存在が組み込まれていない理由 禅仏教でいう空の意味

2004-12-15 12:23:00 | 創造主である神
 以下の文は、「一般法則論で理解するこの世界の成立の順序と宇宙モデル」に関する文
の続きの文。

○神の存在は何処へ行ってしまったのか?
 一般法則論的な宇宙モデルを示すもっともらしい方程式を、「一般法則論で理解するこ
の世界の成立の順序と宇宙モデル」に関する文の終わりの部分で掲げました。

 ところで、一般法則論では、この世界は、創造主である神+自然法則+エネルギーの3
つの一体不可分の働きで出来ていると言っているのに、これらの方程式の何処にも、創造
主である神の存在が直接現れてはいません。
 自然科学の方程式一般でも、このことが言えます。
 これは、変ですね。
 この答えは何か?

 正確に言えば、エネルギーの働き方を制御している自然法則の働きを示す、自然科学で
はお馴染みの全ての方程式に、神と神の化身・分身の人の存在が一切全く組み込まれてい
ない、否、神と神の化身・分身の人の存在を決して組み込まない、ということです。

 言い換えると、神と神の化身・分身の人の存在は、自然法則の働きを、そして、自然法
則+エネルギー一体不可分の働きが造り出す全現象/全存在を常に超越した場所に居ると
いうことです。
 この為に、一般法則論の方程式も含めて、科学の方程式には、神及びこの化身/分身の
人は顔を一切出さないのです。

 式に神が/神の化身・分身の人が姿を一切現さない点が、禅仏教で言う「空」の存在の
神及びこの化身/分身の人の神たる所以です。
 これによって、造られた物/作られた物が、それを造った者/作った者の動機や意図や目
的から一切解放され自由になって、それを使う者をして多様な用途に創造的に使えるよう
になるのです。
 例えば、あなたは、台所用に作られた料理包丁を、この目的以外の何に使いますか?

○禅仏教で言う「空」の本当の意味
 神と神の化身・分身の人の存在は、常に自然法則の働きを超越した場所にいる。
 自然法則は、この世界の全ての存在を造っているエネルギーの働き方を制御して、何か
特定の存在(E=MC^2中のM)を造らせる働きをするものです。
 この働きを、「求めよ。さらば、与えられん。」の天地創造の原理に則って創り出して
いながら、しかも、この働きを超越する場所に、神と神の化身・分身の人は常に居る。
 即ち、神と神の化身・分身の人の存在は、既に存在している物やこれから存在する筈の
物(現実・現状・現物・過去・明日・未来・既成事実・障害・制限や制約や限界・他人の
存在や他人のする言動などとも言われます)に、自分の思考や感情や行動が制限・制約さ
れることが、原理的に、本質的に一切全く無い、絶対的に自由な立場に常にいる、という
意味です。

 こうなっていて初めて、創造主である神は、自らの身心を直接自己展開してあらゆる独
自の存在に自由自在に化身化し分身化しつつ(汎神論的神)、その何れの存在にも制限・
制約されず、常に絶対的にその何者でも無い超越した地位を保てることになります(絶対
的超越神)。

 別の言い方をすると、実験をする科学者は、原理的に、自分を実験装置(その存否/真偽を再現実験で確かめる目的の自然法則=方程式を具体的な物質的装置化した筈のもの)の一部に組み込まなくて済むし、台所で料理を作る人は、自分を、作る料理の一部にしなくても済むし、ましてや、手の指の一部がその料理の一部になったなどいうことは絶対にあってはならない位なものです。
 同じ理屈で、無人運転の機械、例えば無人灯台や人工衛星を作ることができます。
 これこそ、禅仏教で言う「空」性の本当の意味です。

○神の空性=絶対超越的存在性=絶対的不変・不動性=絶対的神聖不可侵性
 自然科学の方程式に神の存在が、一切全く直接表現されていない。
 言い換えると、自然科学者には、自然科学の方程式には決してその姿が現れない神の存
在を発見するのが難しかった訳です。
 このことについて、上の箇所の文、禅仏教で言う「空」の本当の意味を簡単に説明しま
した。
 このことを、端的に言い換えると、神の絶対超越的存在性=絶対的不変・不動性=絶対
的神聖不可侵性=絶対的な清浄無垢性を意味している、と分かります。
 「神を侮辱した! 天(神)に代わって悪を討つ!」と息巻く人達がいます。
 しかし、絶対超越的存在の神を、被造物の人間が侮辱することなど、原理的に全く不可
能なことです。
 容易に人に侮辱されるその神は、一般法則論でその実在を指摘している神とは異なる、
自分が未だ神の化身/分身であることに気が付かない人によく似た神のことに違いありま
せん。

○靖国神社参拝問題の解
 日本の首相が靖国神社に参拝すると我々の感情が害される、などということは、空を本
質として成り立つこの世界の仕組みから言えば、原理的に絶対に有り得ないことです。

 「泣く子と地頭には勝てない」と言いますが、顔色一つで、人を/職場全体を支配する
ことに狡く長けた人が、精神的に未熟な人が、世の中には結構居るものです。
 断固として排除!

○全て自分の心の中だけで問題解決ができる
 神/神の化身・分身の人は、他人に「私好みの人」になってと一切要求しなくても、他
人の存在を否定し殺さなくても、全て自分の心の中だけで、その物が造られた/作られた
目的や理由を一切無視し、その物の存在を無視し、否定し、廃棄したりすることが、常に
自由自在にできます。
 こうできるのだから、こうしましょう!

 もちろん、これまでには無い全く新しい物をゼロから創り出すこともできるし、それが
本来あるべき正常性の範囲から逸脱していれば(例えば病気、それも不治の病などと言われ
るもの)、それを元の正常な位置や範囲内に戻すことができる(元通りの完全な健康さに
戻すことが常に原理的に出来る)、ということです(空性の実用的な面)。

○空性のお陰
 何かの作業をコンピューターでやっていて、始めからやり直したい時には何時でもリセ
ット/初期化できるのは、この世界が空性をその根底に置いて成り立っているお陰です。

 自動車どころか自転車にも乗ったことが無い人が、いきなり飛行機に乗れるのも、この
世界が空性をその根底に置いて成り立っているお陰です。

 過去の事など、仮令清算など一切しなくても、その一切を水に流して、過去の一切の経
緯は棚上げにして、また、過去には一切制限・制約されることなく、今、すぐに全く新し
く良いことを! 正しいことを! 始められるのも、この世界が空性をその根底に置いて
成り立っているお陰です。

 明日の試験のことが心配で、今、ここで眠れない、ということも、空の原理的にはあり
得ません。つまり、明日の試験のことが心配で、今、ここで眠れない自分に気が付くこと
は、取り越し苦労苦労をしている自分を自分で発見することです。

○全ての罪が許される原理としての空性
 この世界の成り立ちと仕組みがその当初から、根底から、空性を本質にして居なかった
ら、例えば罪を犯しその償いをした人が根本的に永久に許される原理が無くなってしまい
ます。
 この世に生きていると、例えば言い間違い/書き間違いなどを含めて、何らかの意味の
自然法則の存在を無視し逸脱すること、即ち罪を犯さずに居られるものではありません。
この時に、この世界の根底に空があるのは本当に有り難いことだ、と罪深い私は常々思い
ます。

○空性の発揮は自然法則の働きに従ってのみできる
 空性の発揮は、自然法則の働き自体がこのことを可能にしてくれます。
 空を飛びたいのならば、空を飛べない自転車を捨てて、空を飛ぶことが出来る装置の原
理的仕組みに則って飛行機を作ることができます。
 この世界の中で振る舞うには、常に自然法則/神の理法に従い、これに則って行動する
ことが必要です。そして、こうした時にのみ、人は制限や制約の一切無い行動の自由を獲
得します。

○唯物論者の難題
 一般法則論的な神の存在証明が明らかにしたように、それ自体で客観的に実在する神の
存在を一切認めない唯物論者には、哲学的に空の理解がとても難しいようです。
 で、例えば、過去の清算が済まない内は何時までも先に進め無いと言い張って、過去の
ことに執拗に拘り続けます。
 しかし、マルクス理論では発達した資本主義社会の次に来る筈の社会主義や共産主義社
会を、唯物論者はいきなり社会主義・共産主義社会から始めたように、本当は本能的に全
て分かっているのです。
 指導者が代わると、過去の党史を全て書き換えるのが上手いのも、唯物論者の集団。
 精神の発達が未熟な人達の御都合主義!

 何が何でもまず先に過去の清算を! というのは、「為にする」議論です。
 「許す。しかし、決して忘れない!」などと言うのが恰好良い言い方/考え方だ、と思
っている人達がいます。
 このことを本当に実行すれば、自分を何時までも過去に縛り付けて、何時までも新しく
生きることを、自分で自分自身に禁じることになります。
 もっとも、許すけれども、金は寄越せ! ということが本音ならばこれはまた別の話。



閑話 鎌倉に行ってきました 付記ニュートンは林檎の実が落ちるのを見て何を発見のかに追加文

2004-12-06 15:57:46 | 創造主である神
 閑話。
 鎌倉に行って参りました。

 去る12月4日、学生時代の友人たちと、鎌倉でちょっと早めの忘年会をしました。
 これに先立って、覚円寺という真宗のお寺を、皆で御参りしました。

 ここの庭の紅葉はとても綺麗でした。

 この寺では、お坊さんの案内で、寺の奥庭を見学する催しに参加しました(この催しは
今年は12月17日までとのことです)。

 案内の坊さんから、「十三仏信仰」(この言葉でインターネットで検索可)の話を聞き
ました。

 四日集まった私どもは、学生時代、生物学の基礎となる動植物の分布調査の為とは言え
心ならずも仏教では禁じられている殺生を思い切り犯して来たものですから、遠からずの
先あの世に行く前に、この世の行いを反省して正すのが良いだろうという訳で、覚円寺で
「十三仏信仰」の法話を聞く企画を、幹事がたててくれた、という訳です。

 南無阿弥陀仏。

 鎌倉と言えば、去る11月23日、都内のある大学の歴史学会の催しで、学部の学生た
ちに混じって、午前の長谷寺を皮切りに日没後に稲村が崎に到着するまでの間の13か所
の史跡を、歴史学を専攻している大学院生等による案内と熱心な解説で巡り歩きました。
 とても楽しくてお勉強になる一日でした。

 このおりに、「古都鎌倉」のイメージが国策で作られたことを、初めて知りました。

 付記。
 既に公開の、ニュートンは林檎の実が落ちるのを見て何を発見したのか、という文に、
一部加筆訂正したのを機会に、多くの人達が悟りの体験をできない理由等を説明する文を
付け加えました。



一般法則論による神の存在証明に関する補足説明

2004-11-29 01:38:40 | 創造主である神
 「一般法則論による神の存在証明」という文を11月28日に公開しました。
 この補足説明をします。

○未だ不完全な証明の仕方
 一般法則論による神の存在証明は、常識的意味では、これで良いでしょう。
 しかし、哲学的な物の見方・考え方の観点では、未だ不完全です。

 この世界の存在物を人の作った物と天然自然の物とに常識的に2分しましたが、どうし
て2つの物に分類できる世界になっているのかの説明をしていません。
 現在の科学的な常識だと言って、人間は天然自然の産物に入れましたが、科学と、科学
的な知見が正しいとされる根拠をまだ説明していません。
 神の存在証明の直接の証拠に使ったエネルギー(物質)と自然法則に関する説明も、そ
の存在根拠や機能に関する説明が不十分です。

 これらの説明が無くては、一般法則論の神の存在証明は哲学的に完全にはなりません。
 この説明をするには、この世界を造った神の物語を引き継いで文化文明社会を造った人
間の物語を、詳しくすることが必要です。
 しかし、これは、神の存在証明をした後で、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みと
いう形で初めて始められる話しです。こういう仕組みにこの世界が出来ています。
 もちろん、まず、神の物語をして、次に人間の物語をします。

 一般法則論では、部分部分の話を完全に理解して頂くには、一般法則論の全体を既に知
っている必要があります。
 しかし、話しの最初では、一般法則論のその全体は未だ説明が出来ませんし、一般法則
論の話しを聞く人も知りません。

 Aの説明がBを知る前提になり、その次に、Aによって説明されたBが、今度はAを説
明するための前提になる。
 ここが一般法則論の説明のややこしい所。つまり、同義語反復。循環論法。
 なぜ、一般法則論では、同義語反復、循環論法が使われているのかは、別の所の説明に
任せます。

○正しい神の正しい存在証明の仕方の実例を示す
 一般法則論的な考え方による神の存在証明は、正しい神の存在を、正しい存在証明の仕
方で証明するものだと言う主張を、言外でしたものです。

 その存在を証明する価値があるのは、私たち人間を如何なる存在に造り、また、私たち
が住むこの世界を如何なる仕組みに造ったのかに関して直接決めて手を下した神、即ち、
私たちの創造主である神です。
 私たちの創造主である神では無い八百万の神様がいても、私たちには一切無関係の存在
で、「勝手に存在していれば!」で話しはお終いです。

 幸い、私が悟りの体験で発見したのは、創造主である神です。
 いや、実在していたのは最初から私たちの創造主である神であったから、神を発見する
悟りの体験では、当然に創造主である神を発見できたのです。

 そこで、神の存在証明も、当然に、この創造主である神の存在を証明するものになる筈
です。
 更に、この世界と人の創造主である神の存在を証明するのですから、当然に、次のこと
を同時に証明する或いは説明することになります。この筈です。
・私たちの思考能力、特に論理的な思考能力や判断力の根拠や、そもそも人の心とは何か
 の説明ができる
・その創造主である神とは、如何なる存在の神であるかを証明する
・この創造主である神が造ったこの世界と人間存在についても、それが如何なる物である
 かについての説明が自然に出来てしまう
・この世界と人間について探究し解明する凡ゆる試み(学問一般はこの例)に、根拠を与
 え、その活動の在り方に指針を与え得るし、既にある問題点には回答し得る
・実際、以上のことが自動的かつ必然的に達成できてしまう存在証明の仕方をする
・創造主である神の存在証明の仕方自体の原理的、理論的な根拠も示せる(神が造ったこ
 の世界の成り立ちと仕組みの説明ができれば同時に自動的かつ必然的に悟りの体験の原
 理を説明できる)
・この他
 詰まり、神の存在証明は、それ自体で、自立し、自己充足し、自己完結していることが
絶対的な条件です。

 神の存在証明をした後、神とは何かの説明を、別の所から引用して説明することになる
のでは、その神の存在証明は不完全であるか、根本的に間違っていると推測できます。

 また、神とは何かの説明や、神が造ったこの世界(端的に言えば「神の国」)の成り立
ちと仕組みの説明で、例えば科学の成果を引用するつもりならば、その前に科学とは何か
を、神の存在証明に続くこの世界の成り立ちと仕組みを説明する中で、(神の国の外にあ
るのでは無くて)神が造った神の国の必要不可欠な一部として説明してなければなりませ
ん。

 一般法則論による神の存在証明は、このような条件を全て満たしている積もりです。

○悟りの体験の根本原理と啓示宗教
神の存在と、この世界の為に果たしているその役割を発見するいわゆる悟りの体験は、
この世界の成り立ちそのものである、「無意識の意識化」を根本原理にしています。

 神は、別の所で説明しているように、「絶対的無意識の存在」ですので、「無意識の意
識化」を悟り方の原理にする悟りの方法は、神を知る本来の形であることになります。

 神の存在を発見する悟りの体験による方法を説明するときには、同時に、神(から)の
啓示という形で神について知る方法についても、その原理を説明することが必要になりま
す。
 啓示に基づく宗教の問題が今持ち上がっていますから、これをしなければなりません。

 以上が、一般法則論的な神の存在証明に関する補足説明でした。


始めに 神という名 一般法則論

2004-10-28 22:17:37 | 創造主である神
 これから、いわゆる神の存在証明をして、その意味を解説します。
 その前に、簡単なお約束をひとつしたいと思います。

○「神」という言葉を使う理由
 このブログの文の題名に、「神」の存在証明と書きました。
 「神」の存在証明では無くて、「仏」(ホトケ)の存在証明でも、「何か偉大な存在」
の存在証明でも、実は良いのです。

 しかし、神でも仏でも何か偉大な存在でもこの他の言い方でも良いのですが、人類がこ
れまでずっとその様な存在について考え続けて来た中で、いわゆる「神」という存在を指
す言葉として、宗教の違い、文化の違い、民族の違い、言語の違い、場所の違い等を超え
て、神と言う言葉が一番広く使われていて通りが良いことと、人類の知的遺産の一部であ
る西洋哲学の中で、「神の存在証明」という用語が定着していることを考えると、仏でも
何か偉大な存在でもなくて、神(の存在証明)と端的に言った方が良い、というだけのこ
とです。

○「神」という名前を使う今一つの積極的な理由
 「神」と言うと、この言葉を聞いただけで、実はまだ何も知らないのに、もうそれが何
か知っている、と早や飲み込みして、もう分かっているのだから、それ以上話しを聞く必
要がないと思われる方々が少なくはありません。
 また、人類史上、「神」という言葉には、肯定的な意味合いの他に、強く否定的な意味
合いも含まれています。

 こういうことですから、「神」という言葉は、出来たら使わないで、いわゆる神のこと
を指し、いわゆる神のことを意味する全く新しい「いわゆる神の呼び名」を考え出して使
うのが良い、という判断もあり得るでしょう。

 しかし、人類の知的財産の一部である西洋哲学の中で、「神の存在証明」という用語が
定着しているし、そもそも、人類の文化遺産の一つとも言える諸宗教が使ってきた「いわ
ゆる神の呼び名」をその儘継承して使うのも、人類の歴史的な連続性を確保する上で必要
だ、と思い、ここでも「いわゆる神」を指し、それを意味する言葉として、仏でも何か偉
大な存在その他でも無い、「神」という言葉/用語を使うことにしています。
 それに、この宇宙に普遍的かつ絶対の存在のいわゆる「神」の存在を指し、それを意味
する用語に、個人的な好みで特殊な名前を付けるのも変だと思います。

○「一般法則論」という用語
 ここでする話の全体を一言で言い表す言葉/用語があると何かと便利なので、それを、
「一般法則論」と名付けることにします。

○なぜ、「一般法則論」と名付けたのか?
 ここでお話することを全体を一言で表現する名前は、「一般法則論」ではなくて、他の
名称でも、実は良いのです。それなのに、なぜ、一般法則論か?
 この答えは、10年ほど前に、一般法則論の概略を、ある所で纏めて発表する機会があ
って、そのときに、この話の全体を一言で言い表す必要を感じて、「一般意味論」や「一
般システム論」との連想で、「一般法則論」と名付けたのです。この時以来、もっぱら、
一般法則論と言い続けています。

○一般法則論と名付けたその心は───
 一般法則論と言うその心は、私個人の名前を冠した神学/哲学/理論と言われるのを、
自覚的に、意図的に避ける為です。実際、私個人の名前を冠した理論と言われそうになり
ました。
 と言っても、一般法則論に関する言説について、責任逃れを意図するためではまったく
ありません。

○一般法則論のことは一般法則論で説明する
 私のする話の全体を、最初から「一般法則論」と名付けたお陰で、例えばヘーゲル哲学
や西洋哲学一般の概念の枠組みの中で、一般法則論を理解し、説明するように求める人た
ちに、即座に「否!」と言うことができました。

 一般法則論は、最初からヘーゲル哲学や西洋哲学一般の概念の枠組みには収まらない、
根本的に発想の仕方の異なる考え方です。
 ヘーゲル哲学や西洋哲学一般は、神の存在を意識しながら、この存在証明を真正面から
やっていません。
 しかし、一般法則論では、神の存在を真正面から取り上げて、その存在証明をし、かつ
それが哲学的にも宗教的にも(自然)科学的にも学問一般の観点からも意味することを積
極的に説明します。
 一般法則論の考え方には、自然科学の現在の知識に準拠しながら、これを超える話の部
分があります。この部分は、一般法則論でしか説明ができません。

○イエスが説いたことをギリシア哲学で理論付けした間違いを繰り返さない
 イエス・キリストが示した考えを、全く考え方の異なるギリシア哲学の枠組みに押し込
んで理解する、というような間違いをした人達が、大昔にいましたが、それは、人間存在
を、例えば犬が持つ、犬観と犬の世界観に当て嵌めて説明するような、根本的に間違った
ものでした。

○西洋哲学の用語は一般法則論的に使う
 もちろん、西洋哲学が発見・開発したこの世界の見方(認識の仕方や分析の仕方)・考
え方等に関する思考の道具、例えば、「神とは何か」、「人間とは何か」、「私は何の目
的でこの世界に存在するのか」、方法論、存在論、認識論、価値論、世界観、人間観、自
然観などと言った概念は、一般法則論の説明の中でも使います。
 但し、それを、一般法則論の思考の枠組みの中で、再定義したり、独自の意味を持たせ
るような形で使います。

○一般法則論は私個人の考えではない
 一般法則論は、この世での私個人の存在の有無や人間的な出来の善し悪し等には一切関
係なく、これ自体で客観的にかつ普遍的かつ絶対的に成り立つ、いわゆる「永遠の哲学」
の積もりのものですから、私個人の名前を冠するのは、最初から終わりまで適切では無い
訳です。また、このようなものとして、一般法則論を説明します。
 そこで、私の名前は、一般法則論者です。
 当然に、以下の文の中では、「私の考えでは」無くて、「一般法則論では───」とい
う表現になります。

○一般法則論の正しさの根拠は私には一切無い
 一般法則論は、私個人の考えでは無い。
 言い換えると、一般法則論が正しいと言う根拠を、私自身には全く置いていません。
 だからこそ、私個人の人間的な出来・不出来に関係なく、一般法則論について思い切り
説明できる訳です。

○一般法則論は実用知識を目指す
 一般法則論には、何十冊もの宗教書や哲学書を読んで得る以上の知識が詰まっている、
と分かって頂ける、と思います。
 そればかりか、日常的に即役立つ知識として使える、と分かって頂けるでしょう。
 およそ、この世界の成り立ちと仕組みに関する知識は、一般意味論ではこの世界の地図
を作ることに譬えられますが、それが正確なものであるほど、実用になります。

 一般法則論での、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みに関する説明内容について、
あなたの手で、その存否、真偽、適否の検証が可能な形で、また、その加筆・修正があな
たにも可能な形で、その正確な地図を提供することを、自覚的に目指しています。