鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾右京亮と「景信」

2021-10-06 14:18:34 | 長尾氏
長尾景信は上杉謙信の一族として有名でありながらその出身や動向について詳細な検討がなされておらず、一般に通説とされるものには不正確な部分が多い。

従来、景信は「上杉十郎」に比定されるが、実際には「長尾右京亮」として活動していたと推定される。前回、上杉十郎信虎について検討しており、そちらも参考にしてほしい。

以前の記事はこちら

今回は長尾景信について、基本情報を整理してみたい。


1>編纂物からみる景信
『上杉御年譜』における景信に関する記載を見ていく。『上杉御年譜』から上杉信虎、長尾景信に関する記載を抜粋したものが以下である。

・永禄2年10月28日
今度御在京首尾ヨク御帰国ニ依テ諸士是ヲ賀シ奉ル、次第不同ニ各御祝儀ヲ献ス、先御一族ニハ長尾越前守政景、長尾十郎景信、山浦源五国清、上条弥五郎政繁、長尾小四郎景行、長尾右京亮、枇杷島弥七郎、山本寺伊予守、長尾修理亮景国、長尾伊勢守、長尾遠江守藤景、同弟長尾右衛門、桃井清七郎、(以下略)

・永禄4年3月12日
(小田原城攻めに参加した武将として)御一族ニハ上田城主長尾越前守政景、能州三崎城主上条弥五郎政繁、栖吉城主長尾右京亮景信、越中戸山城主長尾小四郎景行、(以下略)

・永禄4年12月
依之政虎公ヨリモ長尾右京亮満景ヲ古河ニ付置レ

・永禄10年8月上旬
重ネテ助勢トシテ御一族ノ内、上杉十郎、山本寺伊予守

・天正3年正月上旬
飛州退治有ヘキトテ、諸勢ヲ催サル、先大将ニハ山浦源五国清、長尾右京亮景信ニ軍兵数多差添ラル

・天正3年3月
御一族並越府ノ大家ニ軍役ヲ定ラル。(中略)、長尾喜平次殿、山浦源五国清、上杉十郎景行、上条弥五郎政繁、長尾弥七郎景通、山本寺伊予守定景、(以下略)

・天正6年6月11日
景虎ノ将士ハ上杉十郎信虎ナリ、(中略)、敵将上杉十郎小田口ニ於テ村田討取シカハ、敵軍乍チ敗崩ス。抑上杉十郎信虎ハ公ノ御一族ニテ、長尾右京亮景信ノ男ニテ始メ長尾十郎景満ト云、後称号ヲ賜リ上杉十郎信虎ト号ス。

・天正11年7月12日
(本庄繁長について)剰ヘ座列ニ於テハ上杉十郎信虎ノ席ニ居ルヘシ。若他日信虎ノ家督ヲ立ラレハ、出仕ノ時ハ隔日タルヘキ旨御懇ノ仰ヲ蒙レリ。抑十郎信虎ハ戌寅ノ役ニ三郎景虎ニ従属シ、六月十一日大場表ニ於テ討死ス。


以上をまとめると、「長尾十郎景信」が所見一件、「長尾右京亮景信」は所見三件、「上杉景信」や「上杉十郎景信」は所見されない。また、「長尾十郎景信」の唯一の所見永禄2年10月においても「長尾右京亮」が続けて記され、混同があるようにも思える。従って、『上杉御年譜』から推測される景信の通称は「右京亮」である。

また、『御年譜』の中にも「栖吉城主」という所見があり、景信が通説において栖吉長尾氏と位置づけられる原因の一つである。しかし、これは息子信虎が古志上条上杉氏を継承した点との混同と見られ、事実とは考えられない。確実な史料では景信と栖吉長尾氏との接点は皆無であり、実際に栖吉長尾氏の系譜を検討した際も景信の関与を認められなかった。

軍記物の中では『北越軍談』に「古志民部少輔景信」、『川中嶋五箇度合戦之次第』に「古志景信」といった表記が見られ、これらの無批判な利用も誤解の一因であろう。

過去記事はこちら


さらに、『謙信公御書集』を見る。

・永禄2年1月
上洛に際して供奉する重臣が列挙される。
「長尾右京亮景信、同遠江守藤景、柿崎和泉守景家、御籏奉行吉江織部佑景資、北條下総守高常等也」

・同年4月
同様に上洛の記述中に、「長尾右京亮景信」が見える。

・同年11月
帰国を祝う武将の中に、「長尾右京進景信」「長尾十郎景満」


『謙信公御書集』においても『御年譜』と同様、景信=右京亮という認識である。


2>文書からみる景信
[史料1]『栃木県史』史料編中世一、565号
就當城江被移 御座候、為御祝儀、御扇・抹茶被進之候旨、令披露候処ニ、尤珍重被思召候由、被成 御内書候、次拙者江五明被懸御意候、畏存候、猶従是可申候、恐々謹言、
   八月廿九日     景信
   千手院 貴報

[史料2]同上、576号
就御當城御鎮座之儀、急度従御衆中御祈祷之巻数并御樽一荷、御肴三種、進納、珍重之義候、并従貴院扇子両金、抹茶一壺、別而御進上之段、条々目出被思召候、将又愚所へ扇子両金、被懸御意候、毎事御懇志之至候、自 上意御内書被成之候間、可為御祝著候、猶期後音候、恐々謹言、
八月廿八日   岌長
謹上 千手院 貴報

実名「景信」は[史料1]から明かになる。[史料1]は[史料2]と共に永禄4年に比定される文書である。この文書は佐藤博信氏の研究に詳しく(*1)、内容は近衛前嗣の古河城入りを伝えるものである。ここから、永禄4年に景信が近衛前嗣、足利藤氏、上杉憲政の三人が在城した古河城に景信が配置されたことがわかる。


[史料3]『越佐史料』四巻、370頁
上意之段、無御余儀候、弓矢甲乙更不可有御不足候、此口へも晴信・氏康合手相動候、政虎依備手堅、敵之動至于今日無一道候間、敗北之義眼前候条、其元御備も可為堅固候、何篇ニも公方様御進退、梁田可被任置之段、方々へも能々可申上候、此分者、敵可敗軍候間、翌日向佐野政虎可出馬之条、其時分公方様可奉拝候、此上之備心安可存候、謹言、
  十二月九日     政虎
   長尾右京亮殿

[史料4]『新潟県史』資料編5、3422号
上洛之已後、早々以使者礼儀可申候処ニ、兎角取乱背本意候、余ニ遅延之間、以脚力申候、在国中者、種々懇意之次第、誠以喜悦之至候、条々可然様輝虎へ伝越頼入候、猶々向後切々可申候条、弥入魂可為本望候也、
  八月十一日                   (近衛前久花押)
    本庄美作入道とのへ
    直江大和守とのへ
    長尾右京亮とのへ
    河田豊前守とのへ

[史料3]は永禄4年、[史料4]は永禄6年に比定されている文書である。ここに長尾右京亮が所見される。[史料3]からは永禄4年に長尾右京亮が古河城に在城していたことがわかり、[史料4]は右京亮が近衛前嗣と関係があったことを示す。

つまり、[史料3][史料4]における右京亮の活動内容と、[史料1]で見られる景信の活動内容が一致する

よって、文書からも永禄期の長尾右京亮が景信のことであると推定できる。


ちなみに前回検討した信虎は天文末期の元服と推定されるから、景信は永禄4年頃に40歳前後ではないか。その場合、永正末期から大永期の誕生である。


3>景信と上杉姓
続いて、景信と上杉姓について考察する。上杉信虎の検討の記事において検討したが、ここでは景信側の視点から再び検討する。


まず、『上杉御年譜』において一貫して長尾姓で所見されている点がある。実際に上杉十郎信虎は景信と別人であることは、ここまで述べてきた通りである。

また、[史料4]から永禄6年時点で長尾姓を名乗っていたことが史料的に明らかである。何度も言うように景信は永禄期には右京亮を名乗っていたから、「長尾右京亮」を名乗った後に仮名十郎を名乗ったとは考えにくい。「上杉十郎景信」という名乗りには矛盾点が多く不自然である。


景信が上杉十郎と同一人物と誤った解釈がされた原因は、『上杉御年譜』に景信が「栖吉城主」とあったことで、享禄4年越後衆連判軍陣壁書写(*2)の「十郎」や永禄2年『越後平定太刀祝儀次第之写』の「越ノ十郎」と景信を結びつけてしまった結果であろう。

古志上条上杉氏と栖吉長尾氏の鑑別、また「上杉十郎」の人物比定が不十分であったことが原因である。


以上から、景信は上杉氏を名乗らず、長尾氏として生涯活動したと推測できる。仮名については史料がなく、実際のところは不明である。


4>景信の妻
前回、上杉信虎の母=景信の妻が長尾為景娘と推定されることに言及した。ここでより詳しく説明したい。


米沢藩の作成した戒名書上『公族及将士』がある。片桐昭彦氏の研究(*3)によると長尾為景の血縁者が載る史料という。

その中に、「秀林永種大姉 小四郎との御ろうバさま」という人物がいる。秀林永種は『越後過去名簿写本』にも見え、そこには天文23年11月「越後春日山長尾御屋敷小四郎殿為ニ老母立之」とあり長尾小四郎が母を供養したことがわかる。

つまり、小四郎景直の母は長尾為景の縁者であり、景直自身は春日山に居住し「御屋敷」と呼ばれていたことが明らかになる。片桐氏は秀林永種を、「謙信の姉妹かごく近親者」と推定している。景直は『越後長尾殿之次第』より景信の末子と推定されるから、景信の妻が為景の近親とわかる。


さらに、米沢藩により延宝5年に作成された『先祖由緒帳』歌川氏に関する部分において「長尾小四郎頼景と申、 宗心様甥子様ニ御座候、越中四郡被進候」とある。つまり、「長尾小四郎」=景直が「宗心様」=上杉景勝の甥である、という所伝である。江戸前期の成立であり一定の信憑性のある所伝ではあるが、天文23年から活動している景直が景勝の甥とは考えられない。

すると、"上杉景勝の甥"は"上杉謙信の甥"の誤りであると推測できる。すなわち、為景の近親と推定された景信妻は、具体的に謙信姉妹=為景娘であったことが推測できるのである。

景直の活動時期からその女性は謙信の姉であろう。


また、片桐氏は『公族及将士』に見える「一峰源統禅定門」が「御やしき」と記されていることからこの人物を「小四郎の先代で御屋敷を称する長尾氏の当主であったとみられる」としている。この場合、その法名は長尾景信のものである可能性がある。秀林永種の夫として記されたのだろう。



以上、長尾景信について検討した。右京亮を名乗り、一貫して上杉氏ではなく長尾氏として存在したことを述べてきた。また、古河城の守備や鑁阿寺との交渉を任されるほどの信頼も得ていた。景信の存在が長尾景虎/上杉謙信にとって重要であることは間違いないといえる。

次回に、景信の父景明と『越後長尾殿之次第』に見える一族の系譜関係について検討していく。


参考:関連文書一覧
永禄4年8月29日千手院宛長尾景信書状(『栃木県史』史料編中世一、565号)
永禄4年8月29日鑁阿寺宛長尾景信書状(同上、132号)
永禄4年12月9日長尾右京亮宛上杉政虎書状(『越佐史料』四巻、370頁)
永禄6年8月11日長尾右京亮他三名宛近衛前久書状(『新潟県史』資料編5、3422号)



*1)佐藤博信氏「越後上杉謙信と関東進出」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)
*2)『新潟県史』資料編3、269号
*3)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)



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