鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

黒川竹福丸と「政実」

2020-08-01 11:50:25 | 和田黒川氏
和田黒川氏において、永禄から天正にかけて見られる当主は黒川竹福丸である。竹福丸とは幼名である。ここでは、元服後に名乗った実名について考察したい。


 [史料1]『新潟県史』資料編4、1347号(反町家・三浦和田黒川氏文書)
黒川四郎次郎
  平政
永禄十年
拾二月三日

 [史料2]『越佐史料』四巻、335頁(菅与吉氏所蔵文書)
地かたの義、申まかせられ、鼓岡之内千苅出之候、於向後いよいよほうこう簡要候、仍如件、
永禄四年
六月廿三日     竹福丸 実
今井半内助とのへ

まず、[史料1]名字書出は竹福丸の実名についての好史料である。これをそのまま受け取れば実名は「平政」になろうが、不自然さを感じる。それは、上杉氏に縁のある「政」字が下にきていること、黒川氏は「実」を通字としており四郎次郎を名乗る嫡流黒川氏としてはそぐわないこと、に由来する。

実際に竹福丸の名で発給した[史料2]には黒川氏の通字「実」の文字が見られる。幼年の時に通字の一字を書き加えるのは、色部勝長や本庄繁長でも見られる形式である。よって、竹福丸も実名に「実」字を用いた可能性があると考えられる。歴代黒川氏をみても「実」を二文字目に用いる例がほとんどであり、四郎次郎を名乗る嫡流の竹福丸もそうであったのではないか。


それでは、[史料1]をどう捉えたらよいだろうか。

まず、欠けている発給者には、黒川氏の上位権力者である上杉輝虎(謙信)に違いないだろう。「平政」という実名だとすると、輝虎は全く関係のない「平」字を竹福丸へ与えたことになるからやはり不自然である。

どちらかというと、上杉氏に縁のある「政」字を与え名字書出であったと考えるべきである。「政」が一文字目とすると「平」字が浮いてしまうが、これは黒川氏の本姓平氏を意味すると考えれば辻褄が合う。

つまり「ひらまさ」ではなく「たいら まさ」なのである。実名の二文字目は欠けてしまったか、書かれていなかったと考えられる。その二文字目こそ、[史料2]に見られる、「実」字であろう。

以上を勘案すると、最も適切な竹福丸の実名は「政実」である。


[史料3]『越佐史料』五巻、324号(菅与吉氏所蔵文書)
今度わひ事におよひ候あいた、本地ちさうたう屋しき出之候、きやうこう、ほうこうかんよふに候、
天正三年
霜月廿三日     政実
今井弥七郎とのへ


これを裏づける史料が[史料3]である。実名「政実」と残る文書であり、その内容や宛名は[史料2]との類似性がある。[史料2]の鼓岡は現在も地名として残っており、[史料3]の「ちさうたう」=地蔵堂も『中条町史』より大字乙に小字地蔵堂が確認される。地理的にどちらも黒川氏の影響下にあったと考えられ黒川氏発給文書として矛盾しない。

さらに[史料3]の伝来は、竹福丸発給の[史料2]と同様に菅与吉氏所蔵文書でありその共通性は明らかである。

よって、[史料3]が黒川竹福丸が元服後に四郎次郎政実と名乗ったことの証左であると考える。


ここで、[史料3]が『戦国遺文武田氏第四巻』において、「(群馬県))藤岡市・黒沢家文書」伝来の「長井政実判物」とされている点を解決したい。結論から言えば、『戦国遺文』における、[史料3]の人物比定、伝来の記載共に誤りであろう。朝倉直美氏「御嶽・三ッ山城主長井氏に関する基礎的考察」に長井政実文書が一覧化されているが、そこで長井政実発給文書の中に[史料3]はない。また、黒沢(喜久美)家文書の目録を確認しても、それは黒沢家に関係する7通で[史料3]は認められない(*2)。ちなみに黒沢文書内の内、長井政実の文書については朝倉氏論稿の一覧にしっかり載っている。『越佐史料』が採録した以上越後関連文書であり、『上越市史』にも「菅与吉氏所蔵文書」とある。[史料3]は長井政実判物ではない菅与吉氏所蔵文書なのである。よって、[史料3]を黒川政実とする比定に問題は無いことがわかる。


以上より、黒川竹福丸・四郎次郎の実名は「政実」であると考えられる。


追記:
菅与吉氏所蔵文書には同じ黒川である黒川盛実の発給文書も所収されている。「政実」が黒川氏である可能性はより強くなったといえる。

記事はこちら


*1)『新潟県史』資料編4、1108号や『新潟県史』資料編5、3627号など
*2)群馬県立文書館ホームページより

※21/4/11分かりやすくするため一部修正を加えた。追記を載せ、リンクを追加した。


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