その場に居合わせた詩人の方々、いずれも日本を代表する ご高名な方ばかりでありますが、感嘆のあまり 唸るばかりで、さぞかし言葉は発せられなかったのではないかと想像するのであります。どこがスゴイかって、それは 絵で言ったら、【クマガイモリカズ】さんの絵を見たときと同じような感動とでもいいますか、いや それ + 菩薩様の心根(ココロネ)の顕在 でありましょうか。その場はまさに この世に初めて【宮沢賢治菩薩様】が現れた瞬間ではなかっただろうかとオイラには思えるのです。
【雨ニモマケズ】という詩と じっくりと対峙しましたなら、誰しも涙が滲んでくるのではないかと思います。お金のためでなく 地位や名誉のためでもなく、心底から こんな気持ちで 慈悲のためだけに毎日を過ごされ 作品を紡いでおられたのだ ということに想いを馳せますと、ありふれた詩人の域から遥かに脱し 聖人とでもいうべきか、人間としての最高レベルのタカミに達しておられたのだということが ひしひしと伝わってくる ココロに沁みいる 詩だからであります。
オイラ如き軽輩者が こんなこと言うのは 甚だ 僭越ではありますが、なかでも どこが一番好いか、オイラの好みのフレーズを申し上げるとしますと、
ヨクミキキシテワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
および
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
というところでありますが、特に後段のドウショウモナイ気象に対する所作表現がタマラナイです。
ところで【宮沢賢治】さんと仏教との関係でありますが、
【海竜社】さん発行の ↓この本には 【宮沢賢治】さんの ↓このような詩が 紹介されております。
この詩のオオマカな意味は、粗末な衣をまとった【常不經菩薩】さんは 高慢でどうしょうもない人々に対しても、いつかはきっと仏性を持たれるに違いないし こうすることが菩薩行なのだよとおっしゃられ 礼を尽くされる、というふうでございますが、【常不經菩薩】さんというお方は【法華経】のなかに出てくる仏さんでありまして、上の本の解説記事や ↓この記事によりますと
氏の生家は 代々 浄土真宗の熱心な信者でありましたから、幼少時から濃密な仏教的環境のもと育たれておりまして、盛岡高等農林学校生であった18歳のとき 浄土真宗とは ちょっと趣を異にするのですが、大乗仏教経典の心髄である【法華経】に触れられてからというものは この教えの実践、ありていに言えば ひたすら他利に尽くすことこそが 氏の生きるヨスガとなられたとの由、言うならば【法華経】が 氏の魂そのものとなったと言える ほどのことでありまして、創作された おびただしい数の詩や童話も、そのことの実践だというのであります。
ここまで書いて 今 オイラは思えます。【宮沢賢治】さんは【常不經菩薩】さんの生まれ変わりではなかっただろうかと。で、このことは ご本人も存分に自覚されていたのではなかっただろうかと。このように思えば 全てスンナリと 理解できるのであります。【法華経】によりますと【常不經菩薩】さんは、お釈迦様の前世のお姿であるということでありますれば なおさらに。
それから嬉しいことに、その【法華経】は、オイラが 当ブログ・プロフィール写真に使わせていただいております、敬愛する【鳩摩羅什】さんが訳された経典でありますし、氏の死後、遺言に副い 友人・知人に配られたものは 【鳩摩羅什】さんの訳された【妙法蓮華経】であったというのですから。
【雨ニモマケズ】という詩と じっくりと対峙しましたなら、誰しも涙が滲んでくるのではないかと思います。お金のためでなく 地位や名誉のためでもなく、心底から こんな気持ちで 慈悲のためだけに毎日を過ごされ 作品を紡いでおられたのだ ということに想いを馳せますと、ありふれた詩人の域から遥かに脱し 聖人とでもいうべきか、人間としての最高レベルのタカミに達しておられたのだということが ひしひしと伝わってくる ココロに沁みいる 詩だからであります。
オイラ如き軽輩者が こんなこと言うのは 甚だ 僭越ではありますが、なかでも どこが一番好いか、オイラの好みのフレーズを申し上げるとしますと、
ヨクミキキシテワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
および
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
というところでありますが、特に後段のドウショウモナイ気象に対する所作表現がタマラナイです。
ところで【宮沢賢治】さんと仏教との関係でありますが、
【海竜社】さん発行の ↓この本には 【宮沢賢治】さんの ↓このような詩が 紹介されております。
この詩のオオマカな意味は、粗末な衣をまとった【常不經菩薩】さんは 高慢でどうしょうもない人々に対しても、いつかはきっと仏性を持たれるに違いないし こうすることが菩薩行なのだよとおっしゃられ 礼を尽くされる、というふうでございますが、【常不經菩薩】さんというお方は【法華経】のなかに出てくる仏さんでありまして、上の本の解説記事や ↓この記事によりますと
氏の生家は 代々 浄土真宗の熱心な信者でありましたから、幼少時から濃密な仏教的環境のもと育たれておりまして、盛岡高等農林学校生であった18歳のとき 浄土真宗とは ちょっと趣を異にするのですが、大乗仏教経典の心髄である【法華経】に触れられてからというものは この教えの実践、ありていに言えば ひたすら他利に尽くすことこそが 氏の生きるヨスガとなられたとの由、言うならば【法華経】が 氏の魂そのものとなったと言える ほどのことでありまして、創作された おびただしい数の詩や童話も、そのことの実践だというのであります。
ここまで書いて 今 オイラは思えます。【宮沢賢治】さんは【常不經菩薩】さんの生まれ変わりではなかっただろうかと。で、このことは ご本人も存分に自覚されていたのではなかっただろうかと。このように思えば 全てスンナリと 理解できるのであります。【法華経】によりますと【常不經菩薩】さんは、お釈迦様の前世のお姿であるということでありますれば なおさらに。
それから嬉しいことに、その【法華経】は、オイラが 当ブログ・プロフィール写真に使わせていただいております、敬愛する【鳩摩羅什】さんが訳された経典でありますし、氏の死後、遺言に副い 友人・知人に配られたものは 【鳩摩羅什】さんの訳された【妙法蓮華経】であったというのですから。