石木川まもり隊

石木川を守ること  それは里山を守ること  それは海を守ること  それは未来を守ること  
ここにダムは要りません

5分でわかる?石木ダム問題

2016年09月24日 | ふむふむ、なるほど

びっくり!

こんな動画を見つけました!

 

佐世保の水のこと、石木ダムのことが、とてもよくわかります。

これまで私たちが集会などでお伝えした情報がてんこ盛り!

なので、石木川まもり隊が制作したのかと勘違いされる方もいるかもしれませんが、

私たちではありません。

私たちには、このような技術も力もありません。

 

🎵ドーコノ ダーレダカ シーラナイケレド 🎵 

(このメロディが何十年ぶりかで脳裏を駆け巡りました)

月光仮面のような制作者に心から感謝しつつ、共有させて頂きます。

 

5分でわかる!

かどうかは、個人差があると思いますが…。

ナレーションが少し早いので、お時間のある方は、

時々休止しながら、文字やグラフをじっくり見ていくと、ほんとにわかり易いです。

 

グラフと言えば、佐世保地区の取水量の折れ線グラフがでてきますが、

それについて、一言、おせっかいな補足をさせて頂きます。

2017年度の位置に「石木ダム完成予定年度」と書かれていますが、

これは水需要予測がたてられた当時の予定です。

本体工事はおろか付替え道路工事さえ進まない現実に、

県は昨年(2015年)ようやく工期を変更し、佐世保市もそれを認めました。

現在の石木ダム完成予定年度は、2022年度です。

 

半世紀前に持ち上がった石木ダム計画は、

こうやって、ズルズルと先延ばしされてきましたが、どこまで延びることやら。

何十年も先延ばしにしてこられたということは、必要なかったという証では?

必要なかったものに、佐世保市はすでに120億円を費やしてしまいました。

 

あと233億円も費やします?

佐世保市民の皆さん、もう一度、この動画を見て考えてみませんか?

 

 


過剰放流が引き起こした利根川の渇水

2016年07月16日 | ふむふむ、なるほど

東京FMの『タイムライン』という報道番組で興味深い話が発信されました。

7月12日(火)古谷経衡●過剰放水が引き起こす利根川の渇水

 

確かに、首都圏から遠く離れた九州に住む私たちにとっても、湖底が見えるほど貯水量が減ってしまった八木沢ダムの姿は痛々しく、不安を感じるものでした。

ところがそれは、必ずしも雨量が少ないという自然現象だけでなく、人為的要因も大きいという、目から鱗!の貴重な話だったのです。

解説は水源開発問題全国連絡会の嶋津暉之さん。

嶋津さんのお話を短くまとめると、こんな内容でした。

 

確かに今年は雪不足で、また5月の降雨量が少なかったので、ダムの貯水率は低めだったが、 問題は、5月半ばから6月半ばにかけて、一気に貯水量が減少したこと。

わずか1ヵ月で、2億3千万トンも放流してしまった!

利根川の水が少ない時には、下流の都市用水や農業用水を補うために放流する必要があるが、それがあまりにも過剰だった。

2億3千万㌧という数字は毎秒にすると約90トンで、そのうちの80トンは何も使われず海に流されてしまった。

利根川から海に流すべき流量は毎秒30トンでいいのに、50トンも水を無駄にしてしまっていた。

 

そして、古谷経衡さんと嶋津さんの間で交わされた話の中にはこんな指摘も。

・つまり過剰放流が渇水を引き起こす?

・過剰放流に関しては以前から問題になっているんですが、中々改まりませんねー

・八ツ場ダムを造りたい国交省の河川官僚にとっては、たまに渇水がおきたほうがダムの必要性をアピールできるから?

・既に必要なダムは造られてしまいました。これ以上必要なダムはありません。

・ダムの時代は終わったんです。

(おお!東京FMの報道番組ってすごいな~)

 

最後にこんな質問が・・

・ちなみに(まだ造られようとしているダムの中で)これは酷い!というダムってあります? 

・あります。それは、長崎県の石木ダムです。

 これは県営ダムで、そこには13戸の家族が住んでいるんです。

 その人たちの土地家屋を奪って無理矢理作ろうとしています。・・・・

(おお!こんなところで石木ダムが!)

 

何はともあれ、貴重な話が聞けました。東京FMさんに大感謝! 

 

洪水被害も渇水被害も、自然現象のせいばかりではないのですね~

人為的要因も大きいようです。

ミスか故意かにかかわらず・・・

 

 

追記:このブログ記事をFacebookでシェアしたところ、埼玉でアウトドアスポーツ用品店を経営なさっている方から以下のコメントをいただきました。嶋津さんの数字上のご指摘を、事実として裏付ける貴重な証言だと思いますので、ご本人の許可を得て転載させていただきます。

先日来店された水上でカヤックをやっているお客様との会話で、その事実を知りました。

僕らは利根川水系の上流部に降り積もる豊富な雪の恩恵により11月から5月末までを楽しんでいます。この冬の降雪、積雪の少なさはニュースなどで知られていると思いますが、特にこの利根川上流域での積雪量は今までに経験したことが無いほどの少なさでした。僕らはそれを目の当たりにし、冬の半ばくらいから、この夏の水不足を心配していました。

カヤッカーのお客様に、今年は雪解けが早く水量が少ないでしょう?と話すと、
最近まで100%の放水をしていたので楽しめていたんです」と、まさかの事実を知りました。
更に彼の話では、水上エリアから前橋までの水力発電をするために水量を絞ることはやらなかったとのことでした。電力は足りていたでしょう。電力は他から回してもらうこともできるでしょう。

このような水不足となること、いや水不足にすることで、同じ利根川へと流れる八ッ場ダムの正当性を語る人たちも…


住民の命を守る治水とは…

2015年12月06日 | ふむふむ、なるほど

昨日、宮本博司さんの講演会に行ってきました!

国土交通省の元キャリアで、今は家業の樽作りに勤しみつつも、その合間を縫って、真の治水を考える人々に乞われて、講演活動もなさっています。

今回は、長崎自治研定期総会の記念講演会だったのですが、一般市民も参加OKとのことで聴きに行きました。

宮本さんの話がナマで聴ける!ということで、録音だけでなく、写真も何枚も撮ったのですが、うっかりミスで、パソコンへの取り込みが終わらないうちに消去してしまいました!(>_<)

というわけで、上の写真は、石木川まもり隊の記録係IさんがYouTubeにアップしてくれた動画の中の1コマを切り取ったものです。

こんな優しい眼差しで、柔らかな京言葉で、しかし、国や県など行政のやり方のおかしいことはおかしいと、きっぱりと論じる歯切れの良さに1時間半があっという間に感じられました。

是非お聴きください!

約1時間半の講演なので、3回に分けてアップしています。

 

印象的な言葉を少しお伝えすると・・・

30代のころは全国のダム計画の策定をなさっていたという宮本さん、

● 霞が関のテーブルの上で、ダムの事業仕分けをするうちに、「自分はダムについてはすべてわかっている」という錯覚に陥っていた。

● その後、岡山県の苫田ダムに配属され、住民や地域の痛みを初めて知った。隣近所でいがみ合い、家族の中でも不信感、人間関係はドロドロになった。

● ダムがこれだけコミュニティーを破壊する様を目の当たりにして、「私はダムについて全く知らなかった」と思い知った。

● 次に転勤になった長良川河口堰ではあらゆる人々と公開の場で話し合ったが、ダメだった。何故か?それは結論ありきだったから。事業主体が結論を変えないと決めていたから。

● 今もあらゆる委員会は「うん」という人たちで作られている。委員会の意見も実は事務局が書いている。それではダメ。淀川水系流域委員会では委員を公開選定した。事務局も国から独立させた。お墨付き委員会にさせなかった。

● 様々な立場の委員が共に現場を見て情報を共有し、課題を共有する。その結果、委員自身の意見が変わっていった。「ダムのどこが悪いねん」と言っていた学者が「できるだけ造らないほうがいい」と言うようになった。

 

● どんなに偉い学者でも河川官僚でも、川を知り尽くすことは出来ない。だから河川事業は謙虚におずおずと、やり直しがきく範囲でやるしかない。

● 淀川水系流域委員会の委員長になった時、国交省の役人に「これだけは守って」と言ったこと=隠さない・ごまかさない・逃げない・ウソをつかない

● ダムの効果は想定の範囲内においてのみ効果があるが、自然現象はいつ、どこで、どのような規模でおこるかわからない。

● 異常気象?自然現象は常に異常。通常の自然現象などない。異常なことが起きるのが自然現象。

● 治水事業の目的は、住民の命を守ること。

● 洪水により命を失うのは、浸水によってではなく、堤防決壊によって。応急的堤防強化が必要。

 

● 越水しても破堤しないような対策=堤防強化をすればいい。何故しないのか?それはダムを造るため?

● 堤防の越水対策に最優先で取りくまないのは、行政の不作為であり、国の怠慢。

● どんな洪水が来ても防ごうと考えるのは人間の傲慢。「防ぐ」ではなく「凌ぐ」が大事。桂川のほとりに建つ桂離宮は洪水による氾濫を想定して造られている。床は高床式で、屋敷の周りには濁流の土砂やゴミをフィルターにかける笹の生垣を施している。だから400年間もってきた。

● 洪水のエネルギーをできるだけ分散するのが治水のあり方だと昔から言われてきたが、明治以降の近代治水事業では、降った雨を川に集めて閉じ込め下流に流すようになった。

● 住民の命は守るには、できるだけ洪水エネルギーを集中させないことが大事。山を整備して山の保水力を高め、水田に水を溜め、霞提や遊水地など水の逃げ場を造るなど穏やかに分散させることが大事。

● 膨大なコスト、自然破壊、住民の犠牲、それ無しにはできないダムが、本当に最優先の施策なのか?それを問うべき。

● 事業主体が、隠したりごまかしたり逃げたり嘘をついたりしたら、どんなに良い事業であっても中止すべき。それを勧告する評価機関が必要。しかし、現在そのようなものはない。それをするのは世論しかない。裁判所にもそれは期待できない。世論のうねり。それが大事。

 

そう。いつも言われるのです。

世論。大事なのは世論。政治家や行政を動かせるのは世論。

わかっちゃいるけど簡単なことではありません・・・ 

簡単なことではないけれど、諦めません・・・ 

 


オオカミと川

2015年10月15日 | ふむふむ、なるほど

ダムには直接関係ありませんが、自然界の営みについて考えさせられる映像でした。

How Wolves Change Rivers

 

「オオカミってやっぱすごい!」

ほんの少数のオオカミの群れが自然に奇跡をもたらすまで
  (米イエローストーン国立公園)

 

ナレーションは英語ですが、この動画を紹介している「カラパイア」のサイトでは、日本語の解説があります。

 http://karapaia.livedoor.biz/archives/52202394.html
 
(画面を少し下に動かすと「オオカミってすごい!」が出てきます)

 

人間によってオオカミが絶滅した自然保護区イエローストーン国立公園、

ここにオオカミが戻ってきてから、公園内の生態系は劇的に変化します。

鹿やコヨーテの数は減ったけど、

鹿に食べられていた植物が芽吹き、森が生まれ、多くの鳥たちが棲息し始めました。

木が増えたので、ビーバーが住みつき、ダムを造り、魚や爬虫類、両生類なども増えていきます。

コヨーテに食べられていたウサギやネズミなどの小動物も増え、

その結果ワシ、イタチ、キツネなども増え・・・豊かな生態系が戻ってきました。

それだけではありません。

驚くことに、オオカミは川の形まで変えてしまったのです!

鹿たちに食尽された谷間の植物たちが再び生い茂り始めたことにより、土壌の浸食を抑えることにつながった。

曲がりくねっていた川は緩やかな蛇行流となり、浅瀬ができるようになった。

川岸はより安定し、崩れることも少なくなった。

そして、川は本来の強さを取り戻した!

ほんの小さなオオカミの群れが、生態系だけでなく、巨大な土地の自然地理学さえ変える力を持っていた!

 

タイトルには「ほんの少数のオオカミの群れが自然に奇跡をもたらすまで」と書かれていますが、

この映像を見た友人は、メールにこう書いています。

自然の中の美しいバランス、そこに生きる無数の生き物が、

それこそ「自然に」つくりあげる実例を見せつけられました。

自然から言わせれば、「奇跡」ではなく、

「これが私たちの自然な営みなんだよ」ということなのでしょう。

 

全く同感です。

まさに自ずから成り立っていく、あるがままの世界、自然界。

それを破壊し続けている私たちは、最も愚かで凶暴な、地上の侵略者。

 

ビーバーが造るダムは、いろんな生きものの住処になるけれど、

人間が造るダムは、生きものの住処を奪うものとなり、

川は、死の川となる・・・

 

オオカミの眼差しに身の縮む思いです。。。

 


無垢なるものを壊すな

2015年10月02日 | ふむふむ、なるほど

田中優さんのメルマガに登録しました。

つい最近のNo.470の記事にこんなことが書かれていました。

 

無垢なるもの、穢れなきものを人間が壊してしまっている。

福ちゃんは、それが残念で仕方ないのだ。   

科学的に言えば、これは上流のダムや堰で水を止めてしまうせいだろう。

水は流れていなければ腐る。腐るというのは微生物が大量に発生することだ。

その微生物は瀬(流れの早い浅いところ)では暮らせないが、

少しでも水が緩やかになればそこに棲みつく。それが石のぬめりを作るのだろう。

今よりたくさんの人が住んでいても、かつての川は無垢なる流れを続けていたのだ。

 

無垢なるものを壊すな、これが優さんの願いです。

とても素敵なメッセージだったので、全文を転載させて頂きます。

あ、心配ご無用。

優さんのメルマガは「転送転載、大歓迎」なのです。

心の広~い方なのです。

 

                優さんメルマガ 第470号  2015.9.28発行

 

『原点ってなんだろう?』   

   

■生き物の居場所   

 

ふと思った。ぼくの活動の動機は何なのだろうと。

 

理不尽なことがまかり通るのは許せない。そうした正義感はある。でもそれは正義感で

あって環境を守ろうとする活動の動機とは直接つながらない。    

 

なんでなのか、考えていくと自分の過去に遡っていく感じがする。ほんの幼い頃に味わ

った、不思議な匂いのする記憶だ。春先の森の中、なんだかうずうずするような匂い…

夏の森の甘ったるい匂いアゲハチョウの幼虫の発するいやな匂い…。それらが混然一体

となった記憶だ。   

 

ぼくはそこに生命を感じていた。だから自分が弱ってしまった時には森や川、山に入る

ことで自分の生命力を回復していた。

 

 

そこにいれば自分があるがままにいられる気がした。何が起ころうと自分はたった一つ

の生命に過ぎないし、だから自分のままで生きればいいと。観光地の写真になったよう

な風景は嫌いだ。看板通りで自由のない場所には生命を感じられないからかもしれない。

 

 

それとは逆に、誰も目を向けない風景に美しさを感じる。特に生き物たちの視点に立つ

と、その小さな場所に永遠を感じるほどの豊かさが見える。川の瀬と淵にはそれぞれ異

なった魚が集まり、石の下には小さなざざ虫たちが棲んでいる。森の木々は光を奪い合

い、より強い光を求めたり、弱い光に順応したりする。    

 

 

あるとき大人たちの釣りにつきあって川に行った。大人たちはちっとも釣れず、その日

最大の魚を採ったのはぼくの網だった。 「この子は魚の居場所がわかるんだな」と言わ

れた。当たり前のことなのに。

 

 

■色とりどりの石    

 

ぼくの生命は自然の一部だ。そう感じるから静かでいられる。   

 

それなのにその自然を壊そうとする人たちがたくさんいることがよくわからない。

大きくなってやっとおカネのためなのだと知った。

でも未だに自分の足元を掘り崩してしまうような行為を繰り返して平然としていられる

理由がわからない。もしかしたらそうした人たちは、自然の一部という感覚を持たない

のかもしれないなとは思う。    

 

 

でもなんでそうした人たちは生き続けられるのだろう。

意味のない生命になってしまうと危惧するのだ。     

 

 

今年も出かけた岐阜の板取川上流の川浦(かおれ)渓谷で、友人の福ちゃんが沢登りの

途中で言った。  

 

 

「キャンプ場のあるあたりだと、石はみんな苔がついてしまって茶色しとるやろ。

昔はこの沢みたいにみんな色とりどりで、

その中の白い石を拾って淵(深くなっているところ)に投げて、

潜水して拾って競ったんや。そうやって泳ぎを覚えたんや。

ここの石は全部色とりどりだけど、これが下流までずっとそうだったんや」    

 

 

その言葉は気持ちに突き刺さるようだった。無垢なるもの、穢れなきものを人間が壊し

てしまっている。福ちゃんは、それが残念で仕方ないのだ。   

 

科学的に言えば、これは上流のダムや堰で水を止めてしまうせいだろう。水は流れてい

なければ腐る。腐るというのは微生物が大量に発生することだ。その微生物は瀬(流れ

の早い浅いところ)では暮らせないが、少しでも水が緩やかになればそこに棲みつく。

それが石のぬめりを作るのだろう。今よりたくさんの人が住んでいても、かつての川は

無垢なる流れを続けていたのだ。

 

 

 

■無垢なるものを壊すな    

 

 

ぼくが活動する原点はここにあるのだと思う。無垢なるものを汚したり壊したりするの

が嫌なのだ。そうだとすると、この感触を味わったことのある人でなければ、この破壊

を止めようとはしないだろう。それに慄然とする。     

 

 

もう手遅れかもしれないからだ。

無垢なるものに対する畏敬の念がなければ、自分の生命が自然と一体化する感触がなけ

れば、自然はただのでくのぼうで、邪魔者に過ぎなくなってしまうかもしれない。そこ

に生きている生物たちの側から見なければ、全体でひとつになる生態系の美しさは知る

ことができない。   

 

「この子は魚の居場所がわかるんだな」と言った大人たちは、もしかしたら知らないの

かもしれない。生命がびっしり詰まった曼荼羅のようなこの世界を。

 

 

経済なんて意味がない。ましてカネなんか使い方次第で悪の根源になる。どんなにカネ

が儲かろうが、経済的利益があろうが、人間には壊してはいけないものがある。

 

ぼくにとって自然エネルギーの進展や省エネ技術の発展に期待する理由は、その問題を

解決できる方法のひとつだからだ。ぼくらがもう一度慎ましく生きれば、かつてたくさ

んの人が住んでいた地域なのに川も山も壊さずに生きられた時代に戻れるかもしれない。    

 

 

板取の山は一見豊かに見えるが、奥地以外の森は一度は壊された森で、戦後の拡大造林

計画で植林されたものばかりだ。植林以前をイメージしてみると、森はひどく破壊され

ていた時期があることがわかる。   

 

その証拠に森の中のマツが枯れ始めている。マツは火山噴火のあとのような荒れ地に真っ

先に生えてくる。そして豊かな土になって他の木が育つようになると枯れていくのだ。

そのマツの寿命は長くないし、育ち具合から見ても百年と経たないように見えるから、

その時期に荒れ地になった時期があったのだと思う。    

 

 

それは二つのことを教えてくれる。  

 

ひとつは敗戦からわずか70年で森はかなり回復するということだ。それなら今からでも

自然を回復させることはできるかもしれない。   

 

そしてもうひとつは、資源浪費の最たるものこそが戦争だったということだ。

戦時中にはマツからヤニを採取して、飛行機の燃料にしようとした時期すらあった。

実際には成功しなかったようだが、各地のマツにはマツヤニが採取された跡が残されて

いる。 

 

戦争は人にとって有害なだけでないのだ。 生命そのものを支える自然を、これ以上壊

さないでほしい。

 

この思いがぼくの原点にある。原点に忠実に生きたいと思う。    

それがぼくが生かされている理由でもあると思うからだ。

 

 

優さんが私たちを応援して下さる理由がわかりますね!