忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

メソポタミア⑤

2017-10-20 08:42:19 | Library
中近東とはまったく関係のない地域で、一つの問題が発生していた。
それはシオニズムである。
ユダヤ人への迫害は、旧約聖書に書かれてあるような古代エジプトの昔から絶えることはなかった。
ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗し、完全にヨーロッパ人に同化している人々も多く、彼らは自由主義が定着すればやがてユダヤ人問題もなくなると信じていた。
しかしユダヤ人への迫害がなくなることはなく、ユダヤ人の安全を守るにはユダヤ人自身の国家を作るしかないではないかということから、ユダヤ人国家の建設をめざすシオニズム運動が発生した(シオンとはイェルサレムの雅名)。
当初は建国の場所についてはパレスチナにこだわらなくてもよいと考えていたが、宗教指導者たちの反対で、しだいにパレスチナに焦点を絞っていった。
こうしてユダヤ人たちのパレスチナ移住が始まった。

イギリスは第一次世界大戦中、中東地域を支配するオスマン帝国に対抗する為、ユダヤ人とアラブ人の協力を求めていた。
そこでイギリスは、ユダヤ人とアラブ人の双方に対して、パレスチナでの国家建設を認める矛盾外交を展開していた。
さらに、ロシアやフランスなどの列強に対しては、オスマン帝国の領土を分割統治する密約まで結んでいたのだ。
この、イギリスの矛盾した、いわゆる「三枚舌外交」によって、現在まで続く、パレスチナ問題の発端となっている。

第二次大戦中、ドイツのヒトラーは自民族の優越性を主張し、ユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」を始める。
このときに殺されたユダヤ人は300万とも600万人とも言われる。
その難を逃れたユダヤ人は、終戦後、大挙して中東の地、旧約聖書にある「ヨルダン川の西」に押し寄せた。
しかしこの地にはすでに、イギリスが統治していた「パレスチナ」というアラブ人の国家が存在していた。
ユダヤ人とアラブ人の間に挟まれて困ったイギリスは、発足直後の国際連合に調停を求めた。
国際連合は双方に権利を認める裁定をしたため、ユダヤ人は「イスラエル」を建国する。
そのためにそれを認めないアラブ諸国との戦争になるが、イスラエル側が勝利し、元々パレスチナに住んでいた人々は難民化する。
アラブ諸国では民衆の不満が高まり、独立運動が起こり、次々と独立していき、それぞれの国が領土や石油利権をめぐって衝突するようになった。
さらに加えて「イスラム教」の派閥の対立(スンニ派とシーア派)で険悪化していく。

「民族問題」「宗教問題」「石油利権問題」「パレスチナ問題」に加えて「イスラム宗派派閥問題」がさらに問題を見えにくくしていく。

(つづく)