忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

幸福論(雑感)

2017-12-30 22:38:56 | Library
今あなたは、幸福か不幸か?と問われれば、私は幸福と答える。
過去はどうあれ、今が幸福であればそれでいい。
明日はどうなるか不安でいると、決して幸福にはなれない。
幸福でいるためには、明日に夢を持たなくてはいけない。
どんな夢であっても、頭の中に何を思おうと、それは私の自由だ。

私たちは、いつも一瞬の今を、ただただ生き続けるのみ。
その一瞬のうしろに過去ができるが、振り返ることはできても、戻ることはできない。
一瞬の先の未来はどうなるか、それは神のみぞ知る道だ。
だから私は一瞬一瞬を大切にし、幸福に生きる。

2017年ももうじき終わる。
振り返ってみれば、周りの情勢はあまりいい年ではなかったが、私にとって不幸な年でもなかった。
嫌なことを忘れるために詰め込みすぎた時もあったが、それも良い思い出だ。
来年はもっと幸福になろう。
そのために一瞬をもっと愛おしく大切にして過ごしていこう。
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幸福論(18)

2017-12-20 15:27:04 | Library
不幸になる原因の最後の8つ目は、「世評に対するおびえ」。
⑧「世評に対するおびえ」
これは自分が人にどう思われているかを気にするということ。
ラッセルはこう述べている。
「ほとんどの人は、自分の生き方や世界観が自分と社会的関係を持っている人びと、とりわけ共に生活している人びとから、大筋において是認されるのでない限り、幸福になれない」
自分の価値観が人々と異なり、それが受け入れられないと感じると、すべてのことに臆病になる。
世評に無関心でいられれば、自分の信念を貫き通せるが、それはなかなか難しいことだ。

「解決策」
人の意見ばかりを尊重していると幸福にはなれない。
世評に本当に無関心であることは、一つの力であり、同時に幸福の源泉である。
しかし、厄介な新手の社会的迫害の危険性が増大している。
それはSNSなどのインターネット社会の弊害だ。
人がやっていることをいろいろ批判したり、批判された側がそれに反論して炎上したり、ということが日常的に起こっている。
私たちはすでにインターネットがインフラとなった社会を生きている。
みんなが自分の意見を自由に発表できるという社会において、どうすれば世評へのおびえを不幸の原因にすることなく生きていけるのか。
ラッセルは、この害悪に対する究極的な治療法はただひとつ、一般大衆が一段と寛容になることだという。


(つづく)
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幸福論(17)

2017-12-19 10:15:30 | Library
不幸になる原因の7つ目は「被害妄想」だった。
⑦「被害妄想」
ラッセルはそれを病気と呼び、大なり小なりほぼすべての人がかかっているという。
これが強い人は、周りが同情してもしなくても、自分は被害者だという思いをどんどん強めていく。
そして、「万人が自分を虐待していると感じているかぎり、幸福になることはまるで不可能」だと断じている。
ラッセルは友人についてもこう述べている。
「友人は皆、自分のことを多少は悪く思っているものだ。
そう思わないから、何か一つでも悪いことを言われたと聞くと、もう被害妄想に陥ってしまう」
友人に限らず誰しもがそう思っている、と、そう思うくらいがちょうどいいのかもしれない。

「解決策」
極端な形の被害妄想に関しては、精神科医の領域に委ねるべきだ。
そのうえで、より穏やかな(一般的な)形の被害妄想については、自分自身で治癒する余地がある。
ある種の被害妄想は、自分の美点を誇大視するところに原因がある。
もう一つのタイプは、人が望んでもいないのに親切を行い、感謝されないことにあきれている似非慈善家のようなタイプの人である。

ラッセルは、被害妄想の予防策として、四つの公理を提示している。
1.あなたの動機は、必ずしもあなた自身で思っているほど利他的ではない。
2.あなた自身の美点を過大評価してはいけない。
3.あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味を、ほかの人も寄せてくれるものと期待してはならない。
4.たいていの人は、あなたを迫害してやろうと特に思うほどあなたのことを考えている、などと想像してはいけない。


(つづく)
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幸福論(16)

2017-12-09 10:25:49 | Library
不幸の原因となる6つ目は「罪の意識」である。

⑥「罪の意識」
自分の中にある道徳観に沿わないことをすると、罪の意識にさいなまれて嫌な気分になる。
ラッセルはこれを「おとなの生活の不幸の根底にある心理的な原因」とした。
罪の意識は子どもの頃に形成され、大人になってからも人を縛るものであるからだ。
たとえば、子どもの頃に楽しい遊びを親から厳しく禁止されていたとすると、大人になっても、楽しい遊びは罪だという意識を引きずってしまう。
ラッセル自身が、祖母から受けた厳しいピューリタン的な道徳経験があり、そこから導き出されたものだろう。
だから、子どもに不合理な道徳観を植えつけることは、不幸の原因になると指摘したのである。

「解決策」
罪の意識は、ときに無意識の中に根を下ろし、それが不幸の原因となる。
ラッセルは、罪の意識をもつ原因が禁欲主義にあるとみている。
幼少期に不合理な罪の意識を起こさせるような愚かな教育をしてはいけない。
あまりに強力にそれを教え込まれると、それは無意識にまで浸透してしまう。
そんな罪の意識を克服するためには、無意識に働きかけることで、意識的な考え方を支配している合理的な信念に注目させる必要がある。
罪の意識は人に劣等感を抱かせ、その人を感じの悪い人間にし、人間関係を悪くしてしまう。
これを防ぐには、心の広いおおらかな態度が必要で、それを可能にするのが精神的統一だ。
理性によって無意識のレベルまで精神を統一していくことで、はじめて不幸をもたらす罪の意識は払拭される。

(つづく)
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幸福論(15)

2017-12-08 11:29:01 | Library
人を不幸にする原因の5つ目は「ねたみ」である。

⑤「ねたみ」
ねたみは人間の情念の中で最も普遍的で根深いものである。
そしてそれは老若男女を問わずに起こる厄介なものでもある。
ラッセルはこう述べている。
「読者はある芸術家のことを別の芸術家の前でほめるという軽率なことをしたことがあるだろうか。
ある政治家を同じ政党に属する別の政治家の前でほめたことがあるだろうか。
もしあるなら、太鼓判を押してもいい、爆発的な嫉妬を誘発したはずである」

そして、「ねたみ」が人を不幸にするのは、「自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人が持っているものから不幸を引き出している」からだと指摘する。

「解決策」
「ねたみ」に対する処方箋は、比較をやめるということだ。
ラッセルは、比較をやめることで不幸の原因である「ねたみ」を取り除くことができると考えている。
「ねたみ」を埋め合わせる情念として、人間は賛美の念を持っている。
だから賛美することで、「ねたみ」を解決できるともしているが、そもそも賛美したり褒めたりすることも、まだ何かと比較していることだ。
そこでラッセルは、根本的な解決策として、目いっぱい楽しむことを提唱している。
世の中、上には上が必ず存在するから、無益なことは考えないほうがいい。
さらにいえば、不必要な謙遜もやめなければならないという。
謙遜をする人々は、「ねたみ」を持ちやすいからだ。
自分のまわりの小さな世界にとらわれず、もっとおおらかに発想し生きなさい、ということだろう。


(つづく)
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