忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

反資本主義入門

2018-10-27 14:43:16 | 読書
反資本主義と聞くとなにか共産主義的な臭いがするが、歴史をみると資本主義との闘い方は実に様々であった。
そして壮大な共産主義の実験もスターリンの悪政に代表されるように、資本主義国家に負けている。
だから資本主義が暴走し、弱肉強食の現在社会がまかりとおっているのだろう。
そして現在、多くの人々はその現状に抵抗することなく追従している。
政治に対しての、無気力・無関心はその表れでもある。

世界中がグローバル化し、新自由主義がいまだ跋扈している。
抵抗勢力であるべき労働組合も、運動全体にかかわった指導者たちの官僚化や堕落によって、その力を急速に失った。
これからの運動をどう構築していくべきか、そのひとつにロバート・オウエンの説いた「協同組合運動」の現代的再生があると、私は考えている。
しかし、その運動を現代に蘇えさせるための方策がなかなか見つからない。


この表は、エセキエル・アダモフスキという聞きなれないブエノスアイレス生まれの活動家が書いた本からの抜粋だ。
資本主義について彼はこう語っている。
「人々が抑圧から逃れ、自分自身できめた規則にしたがって生きる新しいやり方をみつけるたびに、資本主義の権力も、人々を従わせる新しい方法を求めてテクノロジーや生産方式、政治組織などを変えていく」
たしかに資本主義社会の変革エネルギーは凄まじいものがある。
それに比べて、反資本主義の運動はあまり変わり映えしない。
協同組合運動も同様である。

続いて彼は新しい闘いについて…
「自律空間」「水平な組織と運動」「ネットワーク状の構造」「多様性」「状況にあわせた政策」「闘争のグローバル化」「直接行動と市民的不服従」そして「創造性と喜び」というキーワードを使っている。

格差拡大、企業不祥事、自然破壊…等々の克服は、相互扶助、共存共栄の協同組合運動の発展に託したい。
そのためにも、もっと強力なネットワークを構築しなければならない。

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人生で 血圧だけは いまピーク

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独裁者たちの最後(見捨てられた末路)

2018-09-01 08:59:03 | 読書
国際政治はきわめて複雑怪奇だ。
民主主義を守るために、共産主義の盾として、アメリカの保護を受けてきた独裁者たち。
そんな独裁者にとって、アメリカから見捨てられた瞬間から、人生は大きく変わる。

マルコス
20年以上も独裁政治を敷いてきたフィリピンのフェルディナンド・マルコスとイメルダ夫人は。アメリカの手厚い支援に安心し、盤石との自信があった。
フィリピン人の反体制派が増えつつあることも、冷戦終結の影響も考えなかった。
19世紀末、マニラ湾海戦でスペイン艦隊を潰滅させて以来、アメリカはフィリピンを戦略的拠点としてきた。
第2次大戦で日本軍に占領されて荒廃し、1946年に独立したが、アメリカの影響は依然として支配的だった。
次第に独裁者ぶりを強めていったマルコスは、膨大な隠し財産を貯めこみ、ベニグノ・アキノをはじめとする多数の反体制派を投獄していった。
死刑を宣告されたアキノは、釈放されたのちアメリカに亡命したが、1983年帰国したアキノは、飛行機から降りた瞬間に暗殺される。
この暗殺劇で流れが変わった。
1986年の大統領選挙では不正が暴かれた。
反マルコス派の勝利で、マルコスはハワイに亡命し、数ヶ月後に病で亡くなる。


ノリエガ
1989年、アメリカはパナマの独裁者ノリエガを権力の座から追放することを決定した。
ノリエガはCIAの協力者だったが、コロンビアの麻薬組織との取引疑惑が持ち上がり、CIAにとってもかかわりたくない危険人物になったのだ。
アメリカが恐れたのは「パナマ運河」の支配権を失うことだった。
1989年のベルリンの壁崩壊がきっかけとなり、ノリエガは反体制派の一掃を図った。
同時に戦争状態を宣言、一気に状況は緊迫化した。
その最中、アメリカ人兵士が射殺されるという事件が起きた。
反体制派を支持したアメリカは、軍事介入を決定。
逮捕されたノリエガは、1992年アメリカで懲役40年の判決を受け、資金洗浄の罪でフランスに移送され禁固7年の判決、2011年パナマに帰国し反対派殺害の罪で禁固20年の判決を受けた。



惜しまれつつ心安らかに死を迎えた独裁者などひとりもいない。
独裁者は民衆から忌み嫌われるものだが、不思議なことにその記憶は忘れ去られてしまう。
「国民は記憶をもたない」というヘーゲルの言葉は人心のうつろいやすさ、もろさを鋭くついている。
今もある世界の切実な問題に歴史はいくつものヒントを与えてくれる。

「独裁者たちの最後の日々」ディアンヌ・デュクレ著



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その

とりあえずコピー、や

とりあえずプリント、は

とりあえず森林破壊、

と同じだ。


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独裁者たちの最後(スターリン)

2018-08-31 09:08:01 | 読書
暴虐のかぎりを尽くしたソヴィエト連邦の独裁者スターリンは、恐怖をまき散らした代償か、長く苦しんだ後、1953年3月5日孤独に死んでいった。
遺体は赤の広場の霊廟に送られ、盛大な葬儀には、暴虐の実態を知らぬじつに多くの民衆が葬儀に参列した。

73歳になっても、スターリンは1日15~6時間仕事をしていた。
党書記長兼閣僚会議議長として、粛清の気配を常に漂わせながら、彼はソ連を強権支配していた。
あらゆることに首を突っ込み、なんでも知りたがり、膨大な報告書に目を通して筆を入れ、数え切れないほど多くの会合に出席し、声明文をまとめ、新聞記事に訂正を入れ、歴史関係の書物を書き直し、政治論文を執筆し続けた。
スターリンは妄想症で死を恐れていた。
クレムリンの廊下でさえ、彼は前後に何人もの護衛を連れて歩いた。
私的な外出の際は、車を3台出し、2台はダミーだった。
専属の料理人だけがスターリンの皿にふれることができ、瓶は栓をしたままテーブルに出された。
数人の腹心の部下たち(ベリヤやフルシチョフなど)と別荘で開く秘密幹部会では粛清計画が話されていた。

ある日の秘密会議で恐るべき粛清計画がスターリンから提案された。
それはソ連の優秀な医師団の粛清計画だった。
医師団は、アメリカが陰で糸を引く「国際ユダヤ人ロビー活動」の手先で、スターリンらの暗殺を企てているとの疑いである。
これを聞いた幹部らは内心の反対を表明できぬまま、計画を承認した。
逆らえば敵とみなされ粛清されるからである。
医師たちは逮捕され尋問を受け、首謀者とみなされた医師は銃殺された。
医師らの妻子、弟子、兄弟、従兄弟、友人らは強制収容所に送られた。

2月28日深夜、会議を終えたスターリンは、いつものように部屋に戻った。
3月1日、陽が高くなってもスターリンは部屋から出てこなかった。
周囲のものは心配したが、およびがかからなければ勝手に部屋には入れない。
部屋には食堂もあり空腹を満たすこともあるから、誰にも邪魔されず集中して仕事をしているのかもしれない。
下手をすれば自分の首が飛んでしまう恐れもある。
夜になってクレムリンから郵便物や書類が運ばれてきた。
それを届けに部屋に入った警備隊長は、床に倒れているスターリンを発見した。
「医師団陰謀事件」の最中であったから、医師を呼ぶことも誤解を招くことにつながると考えた隊長は、直属の上司に連絡した。
その上司も決断できず、最終的に医師が到着したのは倒れてから48時間後のことだった。
もはや職務に復帰することは不可能と思われたので、幹部らは後継問題に移るとともに、過去から現在に至るまでの自分たちが関与した粛清の証拠書類をすべて処分した。

1953年3月5日朝、スターリンは息を引き取った。
翌朝、スターリンの死が世界中で報じられた。
熱狂的なスターリン礼賛の声が上がり、涙にくれる何百万人もの市民が道にあふれたという。
スターリンの闇の面を知る人がまれであり、疑う人さえほとんどいなかった証拠であろう。
しかし、「赤い悪魔」スターリンの犯した多くの罪は、徐々に明らかになっていくのである。



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憲法改正。

ドイツ59回、日本0回。

戦後から同じ時間が

過ぎている。

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独裁者たちの最後(ヒトラー)

2018-08-30 08:38:08 | 読書
最後まで残った側近たちとともに地下壕のなかで孤立したヒトラーは、ソ連軍の手に堕ちるよりはみずから命を絶つことを選んだ。
数日前から固めていたこの決意は、イタリアから来た知らせによってさらに強くなった。
ムッソリーニと愛人の逮捕と処刑である。
しかも彼らの遺体はミラノのロレート広場で逆さづりにされたというではないか。
まずはヒムラーから渡された毒薬がほんとうに効くかどうかを、愛犬のブロンディで確かめた。
自殺当日、地下壕の上階の食堂では舞踏会が開かれていた。
側近たちと別れを告げたヒトラーは愛人エヴァ・ブラウンと居室にこもり自殺した。
毛布にくるまれた遺体は、総統官邸の庭に運ばれ、10缶分のガソリンがかけられて焼き尽くされた。

500万人のドイツ人が、ヒトラーと祖国のために命をかけて戦った。
しかしソ連軍の進行により、戦局が厳しくなると、ヒトラーは総統官邸の地下にある広大な地下壕にこもるようになっていった。
地下壕のなかで、ヒトラーは体力を失い披露困憊、精神状態もひどく悪化した。
常軌を逸した精神状態にもかかわらず、ヒトラーは最高指揮官の座を誰にも渡さなかった。
もはや破滅の一途をたどるだけのドイツ、ベルリンはがれきの山となり、ナチスの組織は次々と崩壊していった。
ヒトラー最後の選択は、愛人との結婚、そして彼女と死をともにすることだった。



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会社人間 なんて人間、

いるわけが ないじゃないですか。
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独裁者たちの最後(ムッソリーニ)

2018-08-28 10:57:17 | 読書
1945年4月28日、ムッソリーニは愛人クララ・ペタッチとともに銃殺された。
1943年夏、大評議会によって権力の座から引きずり降ろされたムッソリーニの二度目の死である。
またそれは、イタリアにおける社会主義、革命運動、ナショナリズムを源流とするファシズムの終わりでもあった。
死体はミラノのロレート広場に逆さづりにしてさらし者にされた。
群衆は二人の遺体にありとあらゆる暴虐行為をおこない蹂躙した。
ドイツ従属によって悲惨な戦争に深入りさせた罪は、ムッソリーニの罪でもあった。

ヒトラーの助力で一時救出はされるが、連合国の追跡から逃れることはできなかった。
連合国軍は裁判による裁定を考えていたが、バルチザンたちは秘密裏に死刑執行を決行した。
死刑執行時の状況は明らかになっていないが、確かなことは、二人の遺体が2時間も雨に打たれていたことと、トラックでミラノまで運ばれ多くの市民から蹂躙されたことだ。



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ヒトは、

本を読まねば

サルである。



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