忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

独裁者たちの最後(見捨てられた末路)

2018-09-01 08:59:03 | 読書
国際政治はきわめて複雑怪奇だ。
民主主義を守るために、共産主義の盾として、アメリカの保護を受けてきた独裁者たち。
そんな独裁者にとって、アメリカから見捨てられた瞬間から、人生は大きく変わる。

マルコス
20年以上も独裁政治を敷いてきたフィリピンのフェルディナンド・マルコスとイメルダ夫人は。アメリカの手厚い支援に安心し、盤石との自信があった。
フィリピン人の反体制派が増えつつあることも、冷戦終結の影響も考えなかった。
19世紀末、マニラ湾海戦でスペイン艦隊を潰滅させて以来、アメリカはフィリピンを戦略的拠点としてきた。
第2次大戦で日本軍に占領されて荒廃し、1946年に独立したが、アメリカの影響は依然として支配的だった。
次第に独裁者ぶりを強めていったマルコスは、膨大な隠し財産を貯めこみ、ベニグノ・アキノをはじめとする多数の反体制派を投獄していった。
死刑を宣告されたアキノは、釈放されたのちアメリカに亡命したが、1983年帰国したアキノは、飛行機から降りた瞬間に暗殺される。
この暗殺劇で流れが変わった。
1986年の大統領選挙では不正が暴かれた。
反マルコス派の勝利で、マルコスはハワイに亡命し、数ヶ月後に病で亡くなる。


ノリエガ
1989年、アメリカはパナマの独裁者ノリエガを権力の座から追放することを決定した。
ノリエガはCIAの協力者だったが、コロンビアの麻薬組織との取引疑惑が持ち上がり、CIAにとってもかかわりたくない危険人物になったのだ。
アメリカが恐れたのは「パナマ運河」の支配権を失うことだった。
1989年のベルリンの壁崩壊がきっかけとなり、ノリエガは反体制派の一掃を図った。
同時に戦争状態を宣言、一気に状況は緊迫化した。
その最中、アメリカ人兵士が射殺されるという事件が起きた。
反体制派を支持したアメリカは、軍事介入を決定。
逮捕されたノリエガは、1992年アメリカで懲役40年の判決を受け、資金洗浄の罪でフランスに移送され禁固7年の判決、2011年パナマに帰国し反対派殺害の罪で禁固20年の判決を受けた。



惜しまれつつ心安らかに死を迎えた独裁者などひとりもいない。
独裁者は民衆から忌み嫌われるものだが、不思議なことにその記憶は忘れ去られてしまう。
「国民は記憶をもたない」というヘーゲルの言葉は人心のうつろいやすさ、もろさを鋭くついている。
今もある世界の切実な問題に歴史はいくつものヒントを与えてくれる。

「独裁者たちの最後の日々」ディアンヌ・デュクレ著



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その

とりあえずコピー、や

とりあえずプリント、は

とりあえず森林破壊、

と同じだ。


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独裁者たちの最後(スターリン)

2018-08-31 09:08:01 | 読書
暴虐のかぎりを尽くしたソヴィエト連邦の独裁者スターリンは、恐怖をまき散らした代償か、長く苦しんだ後、1953年3月5日孤独に死んでいった。
遺体は赤の広場の霊廟に送られ、盛大な葬儀には、暴虐の実態を知らぬじつに多くの民衆が葬儀に参列した。

73歳になっても、スターリンは1日15~6時間仕事をしていた。
党書記長兼閣僚会議議長として、粛清の気配を常に漂わせながら、彼はソ連を強権支配していた。
あらゆることに首を突っ込み、なんでも知りたがり、膨大な報告書に目を通して筆を入れ、数え切れないほど多くの会合に出席し、声明文をまとめ、新聞記事に訂正を入れ、歴史関係の書物を書き直し、政治論文を執筆し続けた。
スターリンは妄想症で死を恐れていた。
クレムリンの廊下でさえ、彼は前後に何人もの護衛を連れて歩いた。
私的な外出の際は、車を3台出し、2台はダミーだった。
専属の料理人だけがスターリンの皿にふれることができ、瓶は栓をしたままテーブルに出された。
数人の腹心の部下たち(ベリヤやフルシチョフなど)と別荘で開く秘密幹部会では粛清計画が話されていた。

ある日の秘密会議で恐るべき粛清計画がスターリンから提案された。
それはソ連の優秀な医師団の粛清計画だった。
医師団は、アメリカが陰で糸を引く「国際ユダヤ人ロビー活動」の手先で、スターリンらの暗殺を企てているとの疑いである。
これを聞いた幹部らは内心の反対を表明できぬまま、計画を承認した。
逆らえば敵とみなされ粛清されるからである。
医師たちは逮捕され尋問を受け、首謀者とみなされた医師は銃殺された。
医師らの妻子、弟子、兄弟、従兄弟、友人らは強制収容所に送られた。

2月28日深夜、会議を終えたスターリンは、いつものように部屋に戻った。
3月1日、陽が高くなってもスターリンは部屋から出てこなかった。
周囲のものは心配したが、およびがかからなければ勝手に部屋には入れない。
部屋には食堂もあり空腹を満たすこともあるから、誰にも邪魔されず集中して仕事をしているのかもしれない。
下手をすれば自分の首が飛んでしまう恐れもある。
夜になってクレムリンから郵便物や書類が運ばれてきた。
それを届けに部屋に入った警備隊長は、床に倒れているスターリンを発見した。
「医師団陰謀事件」の最中であったから、医師を呼ぶことも誤解を招くことにつながると考えた隊長は、直属の上司に連絡した。
その上司も決断できず、最終的に医師が到着したのは倒れてから48時間後のことだった。
もはや職務に復帰することは不可能と思われたので、幹部らは後継問題に移るとともに、過去から現在に至るまでの自分たちが関与した粛清の証拠書類をすべて処分した。

1953年3月5日朝、スターリンは息を引き取った。
翌朝、スターリンの死が世界中で報じられた。
熱狂的なスターリン礼賛の声が上がり、涙にくれる何百万人もの市民が道にあふれたという。
スターリンの闇の面を知る人がまれであり、疑う人さえほとんどいなかった証拠であろう。
しかし、「赤い悪魔」スターリンの犯した多くの罪は、徐々に明らかになっていくのである。



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憲法改正。

ドイツ59回、日本0回。

戦後から同じ時間が

過ぎている。

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独裁者たちの最後(ヒトラー)

2018-08-30 08:38:08 | 読書
最後まで残った側近たちとともに地下壕のなかで孤立したヒトラーは、ソ連軍の手に堕ちるよりはみずから命を絶つことを選んだ。
数日前から固めていたこの決意は、イタリアから来た知らせによってさらに強くなった。
ムッソリーニと愛人の逮捕と処刑である。
しかも彼らの遺体はミラノのロレート広場で逆さづりにされたというではないか。
まずはヒムラーから渡された毒薬がほんとうに効くかどうかを、愛犬のブロンディで確かめた。
自殺当日、地下壕の上階の食堂では舞踏会が開かれていた。
側近たちと別れを告げたヒトラーは愛人エヴァ・ブラウンと居室にこもり自殺した。
毛布にくるまれた遺体は、総統官邸の庭に運ばれ、10缶分のガソリンがかけられて焼き尽くされた。

500万人のドイツ人が、ヒトラーと祖国のために命をかけて戦った。
しかしソ連軍の進行により、戦局が厳しくなると、ヒトラーは総統官邸の地下にある広大な地下壕にこもるようになっていった。
地下壕のなかで、ヒトラーは体力を失い披露困憊、精神状態もひどく悪化した。
常軌を逸した精神状態にもかかわらず、ヒトラーは最高指揮官の座を誰にも渡さなかった。
もはや破滅の一途をたどるだけのドイツ、ベルリンはがれきの山となり、ナチスの組織は次々と崩壊していった。
ヒトラー最後の選択は、愛人との結婚、そして彼女と死をともにすることだった。



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会社人間 なんて人間、

いるわけが ないじゃないですか。
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独裁者たちの最後(ムッソリーニ)

2018-08-28 10:57:17 | 読書
1945年4月28日、ムッソリーニは愛人クララ・ペタッチとともに銃殺された。
1943年夏、大評議会によって権力の座から引きずり降ろされたムッソリーニの二度目の死である。
またそれは、イタリアにおける社会主義、革命運動、ナショナリズムを源流とするファシズムの終わりでもあった。
死体はミラノのロレート広場に逆さづりにしてさらし者にされた。
群衆は二人の遺体にありとあらゆる暴虐行為をおこない蹂躙した。
ドイツ従属によって悲惨な戦争に深入りさせた罪は、ムッソリーニの罪でもあった。

ヒトラーの助力で一時救出はされるが、連合国の追跡から逃れることはできなかった。
連合国軍は裁判による裁定を考えていたが、バルチザンたちは秘密裏に死刑執行を決行した。
死刑執行時の状況は明らかになっていないが、確かなことは、二人の遺体が2時間も雨に打たれていたことと、トラックでミラノまで運ばれ多くの市民から蹂躙されたことだ。



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ヒトは、

本を読まねば

サルである。



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トランプとWTO

2018-08-27 09:05:04 | 読書
WTOは、関税貿易一般協定(GATT)から誕生した組織で、貿易摩擦を解消するために1995年に設立された。
加盟国は一連のルールに従うことに同意し、不公平な貿易慣行の排除と市場の開放を目指している。

そもそもこの体制は、アメリカ合衆国が1934年に制定した互恵通商協定法に基づき、諸外国と二国間通商協定を締結していったことに歴史的起源をもつ。
アメリカは協定の締結に基づき交渉によって相手国と互いに関税を引き下げ合い、協定の無条件最恵国条項によって通商の自由化を推し進めたのである。
当時のアメリカは国力も高まり「モンロー主義」と呼ばれた孤立主義政策を貫いていた。
それが変化したのは第2次大戦以降である。

1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって二度目の世界大戦をまねいてしまう。
この反省から、1944年のブレトン・ウッズ会議で、国際通貨基金(IMF)や国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行)が設立された。
第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させるため、具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるため為替相場の安定が計られたのである。
IMFについては、イギリスのケインズ案とアメリカのハリー・ホワイト案が英米両国の間で討議され、ホワイト案に近いものとなった。
ドルを世界の基軸通貨として、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めたのである(スタート時は金本位制)。
世界の基軸通貨にドルが採用されたのだ。

これと並び戦後の国際経済の支柱として、他国を排除する保護主義から自由で公正な貿易体制を目指す「GATT(関税と貿易に関する一般協定)」が1948年に発足するが、それらの背景には戦争の教訓があるのである。

この協定は1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって二度目の世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるためにつくられたのである。
1980年代以降、世界の貿易は爆発的に拡大してきた。
それは東西冷戦の終了の影響が強い。
貧しい国々が豊かな西側世界に入るという意味は、経済が拡大するということでもあるが、富が高きから低きに流れるということでもある。
あるいは貧しき国々を搾取する人々が現れるということでもある。
搾取された人々の間にはナショナリズムが高まりテロや暴動が起きてくる。
資本主義は暴走し、豊かだった西側諸国には格差が拡大して、持たざる人々の不満がますます高まっていった。

トランプ大統領の登場は第2次大戦以降の常識を全否定しはじめた。
WTOからの脱退も公然と口にするようになった。
すでにTPPからの脱退は宣言し、各国との2ヵ国間協議に移っている。
基軸通貨ドルの存在はそのままでそんな我がままが通用するとは思えないが、第2次大戦の教訓や平和哲学はどこかへ消えてしまうのだろうか。
資本主義の暴走はそれでも止まらないのか?


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行きたい場所に行くより、

行きたくない場所にあえて行くほうが

おもしろい旅になったりする。



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