忘備録の泉

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メソポタミア⑦

2017-10-22 09:54:57 | Library
1979年、イラクでは、スンニ派のフセインが大統領に就任する。
彼はシーア派とクルド人を弾圧し、強力な独裁体制を敷いた。

イランはアメリカの支援のもと、1963年から白色革命(強制的な西欧化政策)による近代化を進めた。
しかしこの改革に不満が高まり、シーア派の宗教指導者ホメイニに師事する国民らの手による暴動が発生する。
国王は国外に逃亡、パリに亡命中だったホメイニが帰国し、1979年「イラン革命」が起こる。
国民が自身の手で体制を変革したイラン革命は、上からの近代化を推進しようとするアラブの王国や、それを支援する欧米諸国にとって脅威となった。
この「イラン革命」は、反欧米化の動きであり、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。
また、イラン革命と同じ年に起こったソ連のアフガニスタン侵攻も、ソ連がイスラム革命のアフガニスタンへの波及を防ぎたいと考えたのも要因とされている。

イラクのフセインは、イラン革命がイラク国内多数派のシーア派にも波及することを恐れ、イランに侵攻した(1980年)。
「イラン・イラク戦争」の勃発だ。
米ソ、サウジアラビアやクウェートは、積極的にイラクを支援した。
イスラム重視政策をとるシリアとリビアは、イランを支援した。
この戦争は足かけ9年にわたって続き、1988年に停戦した。

イラクは莫大な戦時債務を抱え、戦災によって経済の回復が遅れた。
行き詰ったイラクはその2年後、クウェートに侵攻した(湾岸戦争)。
「湾岸戦争」は、イラクの敗戦に終わり、停戦条件としてイラクに大量破壊兵器の武装解除が義務付けられた。
アメリカ同時多発テロ事件(2001年)が発生すると、アメリカはアルカイダを支援しているとしてイラクに強硬姿勢を示した。
そして、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由に米軍を主体とする有志連合がイラクを攻撃した(イラク戦争)。
しかし、大量破壊兵器は発見されないまま、2010年、オバマ大統領によってイラク戦争の終結が宣言された。

冷戦下のこの時代は、アメリカとソ連の覇権争いと、その勢力圏下の国や組織が、アメリカやソ連の代理としての紛争が頻発していた。
中東地域もその例外ではなく、「民族問題」「宗教問題」「石油利権問題」「パレスチナ問題」「イスラム宗派派閥問題」、さらには「米ソ代理戦争」も加わってくる。

(つづく)
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