忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

フロイトの考える無意識の世界

2020-07-30 13:29:20 | 心理
フロイトは、人間の精神世界を海に浮かぶ氷山にたとえた。
海面上の目に見える部分を「意識」に、それよりはるかに大きい水面下のみえない部分を「無意識」にたとえている。
意識されている部分は、心の世界全体からみれば、わずかでしかないという。

そしてフロイトは、人間の精神世界は3つの構造に分けられているとした。
一つは、いま現在私たちが意識している「意識」だ。
次は「意識」と「無意識」の中間にある存在で、「前意識」と呼んでいる。
思い出そうとすれば思い出せる記憶などで、一般に「記憶」と呼ばれる部分だ。
最後は、意識の世界に強く働きかけて行動の動機となるにもかかわらず、意識しようとしても意識されない「無意識」の部分だ。
フロイトは、ヒステリー患者が催眠中に不快感や苦痛をともなう過去の出来事を思い出して、その出来事にまつわる怒りや恐怖の感情を爆発させることに気づいた。
そこでフロイトは、無意識のある部分は、意識がそれを認めたくないので、その人が認めたくない経験や記憶、感情が、意識にのぼらないように意識から締め出されている世界だと考えたのである。
こうした感情は、症状の原因であると思われるにもかかわらず、普段の患者の意識のなかからはなにひとつ見出すことのできないものであった。

深層心理学と心の治療

2020-07-30 10:48:00 | 心理
人間の心の奥底には、自分ではなかなか気づきにくい「無意識」という広大な世界が潜んでいる。
心の奥に閉じ込められた「無意識」は、抑圧されて意識されなくなったものだ。
たとえば、私たちが自分にとって思い出したくない体験や、嫌な記憶・感情を忘れることができるのは、そうした記憶や感情を無意識のなかに押し込めようとする力が働くためである。
このようにマイナスの感情を抑えつけて、無意識の世界に追いやることをフロイトは「抑圧」と名づけた。

フロイトは、患者の苦しみや悩みは、ある心理的な力が無意識のうちに潜在する観念や感情・欲望(コンプレックス)を思い出させまいとして働いているために起こると考えた。
普段、私たちは認めたくない体験や、嫌な思い出を忘れ去る(無意識の世界に抑え込む)ことで、正常な生活を送っている。
ところが、この「抑圧」が過度になると、正常な意識活動に障害をきたしてしまうことになり、さまざまな心の病になることが多い。
そんなとき、逆に思い出したくない嫌な体験や記憶を、無意識の世界から浮かび上がらせて「意識化」することによって、自分自身の心のなかにある無意識の存在に気づき、それを認めることによって「抑圧」から解放されることができるのである。
「意識化」とは、言葉にして表す「言語化」と言い換えてもよい。
深層心理学が心の治療に果たす役割とは、この「無意識の意識化」にほかならない。

問うことと考えること②

2020-07-05 10:41:52 | 読書
「問う方法」が身につけば、考えることにも厚みと深みと広がりができる。

小さな問いから大きな問いへ、具体的な問いを抽象的なレベルに上げる方法を考えてみよう。
たとえば「何でこの子は泣いてばかりいるのか?」という問い。
基本的な問いとは異なる問い方を考えてみる。
自分にとっての問いの意味を考えてみる。
「なぜ私は『何でこの子は泣いてばかりいるのか?』と問うているのか?」
言い換えれば「なぜ私は子どもが泣くのを気にしているのか?」と問うてみる。
ここから先は基本的な問い方をいろいろ使ってみると、考えることがつぎつぎに展開されていく。
「子どもが泣いているのはなぜか?」という目の前の問題から、次第に距離をとり、より広い、より大きい問いへ移っていくことができる。


つぎには逆の、大きな問いを小さくする問いへ、抽象的な問いを具体的な問いにする、問いかけ方を考えてみよう。
たとえば「人間とは何か」や「生きる意味は何か」である。
このような巨大な問いは、このままでは、ただ手に負えない、漠然とした問いにすぎない。
大きな問いを小さくして、具体的にする時にも必要なのは、やはり問う自分自身にさらに問いかけることだ。
たとえば「生きる意味は何か」と問うのではなく、「なぜ私は生きる意味を問うのか」と問うのである。
すると、問題は自分にとって身近で具体的な文脈に置かれる。
そうすれば、自分が考えられる問題になる。

世の中には、問いのように見えて、実際には問いではないものがたくさんある。
不満や不安、怒りや恐れや苦しみとともに発せられる問いは、多くの場合、問いではなく、拒絶、否定、批難、侮蔑、呪詛である。
このような問いではない問いを問う方法はあるのだろうか。
この状態から抜け出す選択肢は二つある。
「問うのをやめる」か、「問いを立て直すか」、である。
問いではない問い、考えることのできない問いを考えられる問いに変えられないなら、もう問わない方がマシだ。

問うことをどうしてもやめられない、やめるべきでない場合は、「問いを立て直す」ことを考える。
たとえば「なぜ授業を受けなければならないのか?」という問いについて考えるとしよう。
ここでも、自分自身をその問いに結びつけてみるといい。
「なぜ自分はその授業を受けたくないのか?」などと、考えてみる。
あとは基本的な問い方をいろいろ使ってみると、問いはより深くなり、一歩でも二歩でも考えを進めていける。
自分が疑問に思うことを、問うに値しないかのように扱われたり、問うこと自体が間違っているとかケシカランと思われたりするのは、誰にとってもつらいことである。
自分の疑問がきちんと受け止められること、問うていいのだと認められることが重要なのである。
そして答えが出なくても、その問いから考えていくことで、恐れや怒りや苦しみ、不満や不安から身を引き離すことができる。
そうすれば、その人自身、少しでも自由になれる。

大事なのは、問うことを恐れないことである。
最初からいい問いをつくる必要はない。
とにかくいろいろ問う。そこから問いを積み重ねていく。
ただ、一人ではなかなか思いつかないし、なにより退屈だ。
だから、他の人と対話をする。
自分だけでは思いつかないような問いを他の人が思いつく。
他の人が問えば、自分も問う勇気が出る。
そこに対話の意義がある。

(梶谷真司著「考えるとはどういうことか」より)




問うことと考えること①

2020-07-04 11:11:37 | 読書
「問い、考え、語り、聞くこと」としての哲学において、もっとも重要なのは「問うこと」である。
「問い」こそが、思考を哲学的にする。
問い、答え、さらに問い、答える ― この繰り返し、積み重ねが思考である。
それを複数の人で行えば、対話となる。

問いによって考えるようになるということは、何をどのように問うかによって考えることが変わってくるということを意味する。
つまり、問いの質によって思考の質が決まるのである。
そして、どのような問いをつなげていくかによって、思考の進み方が変わる。
漠然としたことしか考えられないのは、問いが漠然としているからだ。
抽象的なことばかり考えるのは、問いが抽象的だからだ。
明確に問うことができれば、明確に考えることができ、具体的に問えば、具体的に考えられる。
問いに展開がなければ、先に進めないのである。
問いは思考を動かし、方向づける。
だから、考えるためには問わなければならない。
重要なのは、何をどのように問うかである。

考えるには、考える動機と力がいる。
自分自身が日ごろ、疑問に思っていることはつい考えたくなる。
考えずにはいられない。
こういう考える力をくれる問い、つい考えたくなる問い、考えずにはいられない問い、それが自分の問いであり、そうした問いを問うのが、自ら問うことである。
自分で見つけた問いは、考えるのも楽しいし、自分でついつい考えてしまう。
考えることは、エネルギーも使うが、元気もくれる。
自ら問いたいことを問い、そこから考えることは、普段私たちが知っている「問題を解くために考える」=「考えさせられる」のとは、まったく違うのである。

とはいえ、私たちは、そもそも問うことに慣れていないから、いざ問いを見つけようとしてもどうしていいか分からないだろう。
まずは「どういう問いがいいか」と考える前に、なかば機械的に問いの形にしてしまうといい。
基本的なものからあげてみる。
言葉の意味を明確にする
〇〇とは何か?
〇〇とはどういうことか?
理由や根拠や目的を考える
なぜ〇〇なのか?
なぜ〇〇と言う(感じる)のか?
具体的に考える
たとえばどういうことか?
具体的にどのようなことか?
反対の事例を考える
そうでない場合はないか?
それがあてはまらないケースはないか?
関係を問う
〇〇と△△はどのように関係しているか?
〇〇であると、△△ということになるのか?
違いを問う
〇〇と△△はどのように違うのか?
どこまでが〇〇で、どこからが△△なのか?
要約する
要するにどういうことか?
懐疑
本当にそうだろうか?
5W1H
「5W1H」がついた問いをつくる

以上が基本的な問い方である。
さらに自分の立ち位置を相対化する「時間軸で問う」「空間軸で問う」問い方がある。


(梶谷真司著「考えるとはどういうことか」より)




自分のための哲学

2020-07-03 13:58:03 | 読書
哲学対話で得られるもの、それは「自由」である。
そして、もうひとつは「責任」である。
自由を論じるとき、責任が問題になる。
「自由には責任が伴う」「自由にするなら責任をもって行動せよ」「自由にしてもいいが、結果には責任をとれ」とよく言われる。
自由がポジティブな意味をもつのに対して、責任にはどこかネガティブなニュアンスが伴う。

くり返して述べるが、世の中には「何を言ってもいい」場がほとんどない。
自由にものが言えなければ、自由に考えることもできない。
そこでは、本来考えるべき人から考えることが奪われ、考える人は自ら考えることを放棄している。
考えなければ、自由を失う。
そして誰かが考えたこと、決めたことにありがたく、あるいはしぶしぶ従うしかなくなる。
では、考えるべき人とは誰なのか。
それはつねに、そこで問題となっていることの当事者である。
ところが、彼らが意見を聞かれたり、自分たちで考えて選んだりすることはない。
せいぜい、与えられたものに満足したり、文句をつけたり、拒否することが許されているだけである。
もしくは、誰かが決めた選択肢のなかから選ばせるか、イエスかノーか、やるかやらないかを決めさせられるだけである。
そこには自ら問い、考える余地はない。
しかし私たちは、自ら考えて決めたときにだけ、自分のしたことに責任をとることができる。
だから自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、そうであればやったことの責任はとれないはずである。

たとえば、地域コミュニティーで問題が起きたとしよう。
地元住民が当事者として地域をどうするかを考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくは他の何者かが代わって考え、決めてきた。
何か問題が起きたら、住民は行政や何者かを非難するが、彼らが責任をとることはない。
当たり前である。
それは彼らの人生ではないからだ。
他方、当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから責任がとれない。
それなのにその結果は引き受けるしかない。
なんとも理不尽なことではないか。

私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。
また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。
人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれないし、自分の人生には自分しか責任はとれないのだ。
対話では、さまざまな人がそれぞれに異なる立場、視点から物事を眺め、語るがゆえに、おのずとものの見方や考え方が広がり、深まっていく。
そこでそれまで自分を縛っていたものに気づき、そうではない可能性を考えられるようになる。
そうやって私たちは、自分の枠から解放され、自由になれる。
そのようにして選んだこと、決めたことは、結果がどうあれ、責任をとることができる。
そうして私たちは、ただ自由だけを求めるのでも、責任だけを甘受するのでもなく、その間で妥協するのでもなく、自由と責任をいっしょに取り戻す。
それは他でもない、自分自身の人生を生きることなのだ。

自ら考えて決める。自ら考えて決めたことには責任をとる。
そうして自由と思考を自分のものにし、人生を自分のものにするのだ。
そのとき、いっしょに考えてくれる人がいたら、いっしょに続けられる。
だから哲学は対話でするのがいい。とにかくやってみればいい。

(梶谷真司著「考えるとはどういうことか」より)