忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

行動こそ真実①

2019-04-24 15:30:34 | Library
1、決意だけでは意味がない
なにごとも成果や結果は、すべて「行動の集積」によって生まれる。
だから成果や結果を変えたければ「行動」を変える以外に方法はない。
わたしという個人であれば「わたしの行動」を変えればいいが、組織であれば、ひとりひとりの「行動」を変えていかなければならない。
それは人を育てる「教育」の問題である。
もちろん「行動」のうらづけとなる「決意」があることは前提条件であるが、その「決意」とはどこから生まれてくるのであろうか。
それは究極的には人の「生き方」の問題である。


2、自分で考える力
仕事の成果の8割は、費やした人・時間の2割から生み出している。
これは、「パレートの法則」のなかの具体例のひとつである。
組織のマネジメント職やリーダー職にあるものは、このことをよく学ばねばならない。
そしてその2割に該当するものをしっかり見極め、その2割が最大限に成果を生み出せるよう、環境整備をすべきである。
ありとあらゆる場面でこうしたことを考えていくのが、マネージャーやリーダーの仕事だ。
重要な2割ではあるが、残りの8割が必要ないわけではないから、間違えてはいけない。
「構成要素にかたよりがある」というのがパレートの法則だから、仮に8割を削ってみても、成果を出していたはずの2割がさらに8:2に分かれることになる。
逆に言えば残り8割のなかからでも成果が生み出せるということである。
だから優れたリーダーは与えられた人材や限られた時間内であっても成果を生み出せるのである。
8:2の2割はどういう人材かというと、自分で考える力を持つ人材だ。
あとの8割はただ言われたことをやるだけの人と、言われたことを満足にやれない人だ。
この状態を、「2:6:2の法則」とよぶ。
100人の組織に、10人単位のグループを10個つくったとしよう。
それぞれのグループに人材教育ができるリーダーが存在していたらその組織の力は格段にアップする。
ここでも求められるのは「教育」の力である。


3、「教える」とは学び手に「行動」を身につけさせること
簡単なOJTのあとで「わからないことがあれば、あとは聞きなさい」でも教えられない。
「背中を見て仕事を覚えなさい」なんてまるでガラパゴス。
どうすればいいか悩みはつきないが、学び手の「行動」を観察・分析することから見えてくるものがある。
「行動」に着目し、その「行動」を改善するというアプローチである。
行動こそ真実である。

(つづく)


真摯さとはなにか

2019-04-18 10:52:59 | Library
ドラッカーは、リーダーに求められるのは真摯さであるとした。
無知や無能、態度の悪さや頼りなさには、寛大であっても、真摯さの欠如は決して許してはいけない。
リーダーに欠かすことのできない真摯さとはなにか。
日本の辞書を引くと、「まじめで、ひたむきなようす」と出るが、ドラッカーの原書では「integrity」という英単語で表現している。
この英単語に込められた意味は、「正直、誠実、高潔、廉直などの」となる。
ドラッカーの言う真摯さとは、これらの意味に該当するということとなる。

真摯さに欠ける人の特徴というのはわかりやすく、ドラッカーは以下のような人間が、真摯さに欠ける人と述べている。
・相手の強みではなく弱みばかりに目を向ける者
・何が正しいかということよりも誰が正しいかということに関心をもつ者
・真摯さよりも頭の良さを重視する者 ・部下に脅威を感じる者
・自らの仕事に高い基準を設定しない者
・実践家ではなく評論家である者
というように、これらに共通して言えることは、人として尊敬を抱くような人ではないということになる。
すぐに相手の弱みにつけこんで、相手を陥れるようなことを言う人や
本当に正しいことを追い求めず、偉い人や自分の頭の上がらない人が言っていることが、間違いと気づいていても、それが合っているかのように誇張をしたり、
仕事において、手をまったく動かさず、口だけが達者で何もしていないというふるまいをしている人、
ましてや向上心の無い人、
こういった真摯さを欠いた行動を取ることは、これだけ見てもとても尊敬できるものではない。
総じて言えば、仕事において、甘い考えを持つ人が真摯さに欠ける人の特徴と言える。

真摯さを絶対視して、初めてまともな組織といえる。
それはまず、人事に関する決定において象徴的に表れる。
真摯さは、とってつけるわけにはいかない。
すでに身につけていなければならない。
ごまかしがきかない。
ともに働いていれば真摯であるかどうかは二、三週間でわかる。
無知や無能、態度の悪さや頼りなさには、寛大たりうる。
だが、真摯さの欠如は許さない。
決して許してはいけない。

単純にいえば真摯さとは、「正直さ」や「誠実さ」が一貫している、という意味なのではないかと考える。
どれだけ態度が悪くとも、固い信念をもって仕事に取り組む人の方が、他人の顔色を伺ってばかりで自分の信念など持っていない八方美人な人よりよほど素晴らしい。

怒らない生き方⑥

2019-04-17 09:23:43 | Library
怒りがかすかに湧き出る瞬間を察知するには、どうすればいいのだろう。
早い段階で察知できれば、脳内からネガティブな意識を追いやることができる。
そのために日頃から「今、欲はあるかな、怒りはあるかな」と、自らの心を見張って、迷いのエネルギーが発生する瞬間をチェックしている必要がある。
自らの心をチェックして見張るというと、窮屈に感ずるかもしれない。
確かに、他人や社会から見張られていると感ずれば、とても大きなストレスを感じてしまう。
しかし、煩悩コントロールのための自己チェックの目的は、ストレスの要因となる雑念を取り除くことにある。
だから安心してそのセンサーを磨けばよいと思う。
(イライラ)とか(ムカムカ)とかの感情を早期発見できれば、その感情が本物の怒りに育つ前に初期消火できるようになる。
ルールを課しながら、自分を丁寧にコントロールして生活していると、うまくいったときには誇らしい喜びを、うまくいかなかったときは何かしらの心身の苦しみを、意識のセンサーが感じとっているはずだ。
これらの幸福感とストレスフルな感じを、そのときそのときにおいてしっかりと感じとっておくと、次回以降も、ストレスフルな感じを避けて、幸福感を得たいというかたちで、ポジティブな条件づけが生まれる。

難しいのは心のコントロールだ。
雑念を捨てようとしてもなかなか難しい。
日常的に、「空」の境地を味わうトレーニングが必要だ。
心が乱れたときに、心に身体を思い出させるようにすれば、煩悩は静まってゆく。
日常の中で、「空」を味見する経験を積み重ねる。
「空」を味見するための集中は、ありとあらゆる場面で意識的に実行することができる。

禅瞑想のトレーニングでは、4つのステップを順々に極めていく。
(1)体や呼吸に心をぴったりと寄り添わせる
(2)感覚刺激に心をぴったり寄り添わせる
(3)感情に心をぴったり寄り添わせる
(4)法則の観察
心が身体感覚にぴったり寄り添う習慣がつくと、「今この瞬間」の中に留まりやすくなり、心がしっかり体をコントロールしてくれるようになる。

自らの心や感情に対するセンサーを研ぎ澄ますと、他人の心の動きも敏感に察知できるようになる。
自分の心が頭の中へ引きこもって煩悩まみれになっていたら、他人の表情や言葉に心を向かわせる余裕はまったくない。
反対に、自分の心が、雑念がない空っぽ、すなわち「空」であるなら、自分以外のものに意識を向けやすくなる。
その結果、その場から発散している煩悩を感じとったら、従うでもない逆らうでもない「空」に近い態度によって、その場の風通しをよくすることもできる。

怒らない生き方とは、心に強く刷り込まれた怒りを自覚し、乗り越えること。
それにより自らが幸福になり、身近な人々を感化することである。
(参照「もう、怒らない」より)

怒らない生き方⑤

2019-04-16 15:29:58 | Library
迷いは、欲、怒りと並ぶ人間の三つの根本煩悩の一つであり、最大最悪の煩悩ともいえる。
「迷い」とは、意識が今この瞬間にしっかりと留まっていられず、どこか別のところへ飛んでいってしまうときに働いている衝動的エネルギーである。
目の前の現実を直視できずに、意識はフラフラと、「今ここではないどこか」へとさ迷ってしまうから、迷いの煩悩エネルギーは「逃げ」の煩悩と呼んでもいいだろう。
心が目の前の現実を忘れてさ迷いはじめると、さまざまな弊害が生じる。
まず現実的な問題として、今やらなければならないことに取り組む能力が、確実に低下する。
集中力、決断力、実行力、継続力などの能力を減退させてしまうのだ。

迷いの衝動的エネルギーを撃退して自己コントロール力を鍛えるには、今この瞬間の現実に対して意識を釘づけにするトレーニングが有効だ。
たとえば「歩行禅」のようなものであるが、歩いているときに、「今、右足が地面を離れた。今、右足が前へ進んでいる。今、地面に着いた感触があった」といった一挙手一投足に意識のセンサーを強く向けるトレーニングなどだ。
自分の中に生じては消え生じては消えていくさまざまな感覚を自覚する、すなわち身体感覚にぴったりと意識を寄り添わせることができるようになると、心が頭の中に引きこもれなくなり、無益な思考の回転が止まるのである。

「ありのままの実感」と「頭の中だけの思考」は両立しないので、現実の実感に意識が留まるにつれ、欲や怒りの雑念に意識がさまようことが減少する。
それでも意識はすぐまたどこかへ逃げていってしまうかもしれない。
そんな意識に気づいたら、すぐに「引き戻す」、また逸れてしまいそうになったら「引き戻す」という作業を繰り返していると、いつしか集中するための基礎的能力が備わってくる。
ひたすら集中するのがパワー型の「迷い」調教法だ。
(つづく)

怒らない生き方④

2019-04-15 16:35:01 | Library
人が幸せを感じられるかどうかの決定的な要素の一つは、ムッとするかムッとしないですむか、のどちらであるかということだ。
どんなお金持ちであっても、どんなに社会的に成功を収めていても、どれだけ人間関係に恵まれていようと、ムッとする怒りのプログラムに心が支配されているならば、決して幸せにはなれない。
幸せになりたいと誰もが願っているが、その一方で、幸せを破壊する怒りを好き放題に生み出し続けている現実がここにある。

怒りエネルギーの総量を増やさないためには、常日頃から、物事に対する不満や不平を感じないように心を制御しておくことが大切だ。
世間的に怒りについては、二つの扱い方があるとされる。
一つは、我慢して抑圧するというやり方。
もう一つは、怒りは人間の自然な感情であり抑圧するのはよくないから、なにかにぶつけて発散するというやり方だ。
しかし、仏道的にはどちらも誤った対処法だ。
怒りを無理に抑圧すると、意識の水面下でストレスが溜まって後になってから爆発してしまう。
怒りを発散してぶつけると一瞬は忘れられるが、やがて怒りがもたらす苦しみが心の奥から浮かび上がってきて、他人に対してイライラして攻撃的になり、絶えず不安や自己嫌悪の念にかられてしまう。

大切なことは、怒りを「抑圧する・発散する」以前に、「ムッ」としそうになる自分の心をしっかりと見張っていることだ。
そして、怒ってしまったときは、抑圧でもない発散でもない、第3の道を選ぼう。
それは、怒りの感情を客観視して穏やかに受け入れるという道だ。
自らの心を「あーあ、怒っているんだね」と冷静に見つめて、心が怒りに占領されている様を客観視するのである。
怒りの中身をカギカッコの中に入れ(今、私は「○○と思っている」)と心の中で念じてみるのだ。
すると「見つめている自らの心」と「見られている怒り」とが切り離されて、怒りが鎮静化してくる。
その感情が事実ではなく、単に自分の頭の中でつくりあげられている考えにしかすぎない、ことに気づくはずだ。
このようなことを二度三度繰り返していると、怒りと自分が切り離されていき、怒りは完全におとなしくなり消滅していく。
(つづく)