互いに「私とそれ」の道具的関係だけであっては、対話はできない。
「私とあなた」であるはずの組織メンバーを道具として「私とそれ」の関係性のみで用いようとすれば、どこかに現場をうまく動かす方法がないかと思案を繰り返すことになる。
そして現場は、その結果として、道具として経営陣を見ることになる。
面従腹背や仕事に対する低いモチベーション、足を引っ張る文化などはこうして生み出される。
常に「私とあなた」でいる必要はないが、とりわけ実行が重要なフェーズでは、道具としての関係性はとても重要になってくる。
しかし、その道具的な関係性の中で何かうまくいっていないことがあったときには、対話を実践することが必要になる。
他者との間に生ずる適応課題の背後には、「私たちは見えていないことが何かが見えていない」、「わかっていないことが何かがわかっていない」という根本的問題が潜んでいる。
どんなに目を凝らしても、私たちは自分のナラティブのために「見えていないこと」がある。
それだけに、自分のナラティブからは見えていないものを見ようとすることは、新たな関係性を構築していこうとするうえで根本的に重要だ。
「見えていないものを見よ」、対話の実践はそこにあり、自分を助けることになる。
違和感や苛立ち、居心地の悪さは、今の自分のナラティブに何らかの限界があることを知らせるサインである。
私たちはお互いに理解しあえない苦しみ、他者に見せられない痛み、そしてそれを語ることのできない寂しさを抱えて生きている。
だからこそ…
私たちが自らの痛みや苦しみ・違和感をないものとせず、それらの痛みに向き合って「対話」し、社会のなかで新たな信頼関係、絆、そして連帯を築いていければと思う。