忘備録の泉

思いついたら吉日。O/PすることでI/Pできる。

スターリン秘史(7)

2016-07-31 10:36:07 | 読書
1938年9月29日、ミュンヘンから世界に衝撃が走りました。
ヒトラーとチェンバレン(英首相)、ダラディエ(仏首相)、ムッソリーニ(伊首相)の4者会談で、イギリスとフランスが、ヒトラーの要求を丸のみし、チェコスロバキアの領土ズデーデンの対ドイツ割譲を認めたのです。
当のチェコスロバキア政府は意見を求められることさえなく、頭越しの無法な決定でした。
ヒトラーのはてしない領土拡張主義と同時に、それに無条件で屈辱するイギリス、フランスの宥和主義の底深さを世界に示したものでした。
一方、スターリンの側では新しい国際政策が熟しつつありました。
転換すべき新しい国際路線は、ヒトラー・ドイツとの接近でした。

それまでファシズムと反ファシズムという、国際政治の対極にあった二つの国家―ソ連とドイツの接近をたどるうえで、欠かすことのできない貴重な記録があります。
それは、1939年4月から41年6月のドイツのソ連攻撃まで、2年2ヶ月にわたるドイツ=ソ連両国の外交交渉について、ドイツ側が記録した外交文書を収録した「ナチ=ソビエト関係 1939~1941年」です。

第18回党大会でのスターリン報告
1939年3月10日、ソ連共産党第18回大会の開会第1日、スターリンは世界情勢の分析にあたって、ドイツを「侵略者」と呼び、その侵略行為を非難する態度は変えませんでしたが、そこに二つの新しい論調をもちこみました。
一つは、イギリス、フランス、アメリカなどの「非侵略国家」が、なんの反撃もせず、侵略諸国家に一歩一歩と譲歩しながら後退しているところに新しい帝国主義戦争の特徴があるとし、そのおもな根源は、彼らが侵略者をそそのかせて戦争の矛先をソ連に向かわせようとしていることにあると論じ、次の点を「対外政策の部面における党の任務」の柱の一つとして前面におしだしたことです。
「用心深くして、焼き栗を他人に拾わせ、自分は甘い実を食べることに慣れている戦争挑発者をして、わが国を戦争の渦中に引きずり込ませないようにすること」
もう一つは、実務的関係の分野では、「あらゆる国」と、すなわち侵略国と非侵略国とを区別することなしに、関係強化の立場に立つことを明確にしたことです。
「われわれは、平和主義と、あらゆる国との実務的関係強化の立場に立つ。
相手の諸国がソ連との実務的関係を維持し、ソ連の利益をおかさない限り、われわれはこの立場を守りとおすだろう」
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スターリン秘史(6)

2016-07-30 08:46:52 | 読書
蒋介石問題

抗日統一戦線路線の第二の発展は、国民党政権の首領である蒋介石を、抗日闘争の同盟者となりうる統一戦線の対象として位置付ける、という点にありました。
蒋介石は、その残虐な弾圧に抗して中国共産党が十数年にわたって激烈な戦争をたたかってきた相手であり、コミンテルン第7回大会でも、日本帝国主義とならぶ抗日統一戦線の主敵と規定してきましたから、この発展は、中国共産党にとってもコミンテルンにとっても、文字通りの大転換でした。

国民党政権とソ連との秘密軍事協定交渉
この新しい発展の客観的根拠となったのは、第一に、抗日とそのための国民的統一を求める要求と運動の中国全土にわたる高まりがありましたが、同時に重要な意味をもったのは、蒋介石政権の側にも従来の路線の転換を迫られる事情が生まれつつあったことです。
日本に譲歩をすればするほど、日本が中国にたいする侵略要求を拡大するという状況に直面して、蒋介石政府も、次第に譲歩政策にとどまってはおられず、抗日政策への転換の道を探求せざるをえなくなってきたのです。
蒋介石政権の側のこの事情に最初に触れたのは、ソ連政府とスターリンでした。
日本が満州から華北へと侵略の手を伸ばしつつあった1935年7月、国民党政府から、中国駐在のボゴモロホフソ連大使に、「ソ連は中国と相互援助条約を結ぶつもりがあるか」との打診がありました。
そして、同年10月には、蒋介石自身がボゴモロフと秘密裏に会い、ソ連と秘密軍事協定を調印したい、ということを明確な言葉で提起しました。
ソ連側は12月にこの提起への肯定的な回答をおこない、それに応じて、軍事協定交渉のために国民党政権の代表団が秘密裏にモスクワに派遣されました。
しかし、蒋介石政権の側には、現実にソ連との軍事協定の交渉に入る前に解決しておかなければならない大前提がありました。
それは、中国共産党に国民党政権に反対する闘争をやめさせ、国民党政権の指揮統制に服従するようさせることでした。

秘密の軍事協定というのは、抗日戦争を想定して、あるいは日本のこれ以上の侵略を阻止するためにソ連の軍事援助がほしいという意思表示にほかなりません。
スターリンにとっては、蒋介石政権をソ連の影響下に引き込む有力な機会が提供されることになります。
中国共産党は、コミンテルンの指示を受け入れて、8月25日、「中国国民党にあてた書簡」を発表しました。
この「書簡」で、共産党は、蒋介石が、同年7月に開かれた国民党の二中全会での報告で、「領土・主権」の侵害を絶対に許さないという決意を表明し、「すべての救国勢力」を結集する必要を強調したことを評価したうえで、内戦の中止と「新たな国共合作」を呼びかけました。
その頃、ヨーロッパでは、スペインで、共和国政府がソ連に軍事援助を求め、ソ連がそれに応じて唯一のスペイン支援国家になったことが、スペイン共和国をソ連の影響下に組み込む第一歩となるという事態が、ほぼ同時並行的に展開しつつありました。

西安事変。その経過と結末
周恩来、公然と調停役を果たす
蒋介石と抗日統一の合意に到達する
平和解決と国共合作の合意

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スターリン秘史(5)

2016-07-29 09:11:53 | 読書
スターリンの領土拡張欲にヒトラーがつけこむ

1939年の条約をめぐる重要な資料に、独ソ交渉の経過を記録したドイツ側の外交文書集があります。
戦後、アメリカがドイツの一部を占領した時に手に入れ、冷戦の始まりの時期に、ソ連はナチスとこんな取引をしていたんだぞということで、公表したのです。
日本語訳の「大戦の秘録」(読売新聞社)があります。

このなかには、40年11月にヒトラーが世界再分割の新条約をソ連に提案した話まで詳しく出ています。
これはヒトラーの大謀略でした。
ヒトラーは、40年夏、イギリス本土攻略はだめだと判断して、対ソ連攻撃に方向転換するのです。
そのためには独ソ国境からバルカン方面まで大軍を配置しないといけないが、それを隠す煙幕が必要でした。
ヒトラーは39年以来の交渉で、スターリンの領土欲の強さをいやというほど知っていましたから、そこにつけこんで、イギリスを撃滅した後、日独伊とソ連で世界を分割し、それぞれの「生存圏」を確保しようじゃないかともちかけたのです。
スターリンはその話に乗って受諾の回答をしました。
その結果、ヒトラーは、「イギリス作戦のためだ」として平気でバルカンにドイツ軍を進出させました。

ドイツの攻撃を受けると、スターリンは反ファシズムの旗を再び取り上げますが、そのなかでも領土拡張の大国主義は止まりません。
1945年2月のヤルタ会談で、アメリカのルーズベルト大統領から対日戦への参加を求められたとき、日本の千島列島奪取から旧ロシアが中国に持っていた権益の回復まで要求したのは、その典型でした。
おそらくスターリンは、これで東と西にツァーリズムの時代以上の領土を手に入れて、ロシア史上最大の帝国をつくったと、覇権主義の成果を大いに自賛したのでしょうね。
戦後も、スターリンが死ぬまでの8年間に、その覇権主義はたくさんの問題を引き起こしました。
日本に直接かかわる問題でも、「50年問題」や朝鮮戦争の問題があります。
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スターリン秘史(4)

2016-07-28 08:24:10 | 読書
スターリンは「大テロル」で何を目的としたのか

スターリンは、35年から38年、さらにはそれ以後にも及ぶ「大テロル」の蛮行を、いったい何を目的として強行したのか。
スターリンが、本気で「反革命」を恐れて、その猜疑心から無実の人々を抹殺したのか。

問題になった「反革命陰謀」のすべてのシナリオはスターリンが作成したもので、そのシナリオによってNKVD(内務人民委員部)を踊らせたのがスターリンであったという事実が明らかになった現在では、この仮説が成り立たないことはあまりにも明らかです。

私(不破哲三)は、「大テロル」の以前の時期と「大テロル」以後の時期で、ソ連の政治体制とコミンテルンの指導体制のどこが変わったのか、を見れば、そこに答えがある、と考えます。
そこには、「大テロル」を通じてスターリンが獲得した成果が、現実の具体的な姿で現れているからです。
いったい、そこには何があったでしょうか。
答えは、スターリン専決の専制的な独裁体制が確立したことです。

もっとも典型的な出来事は、「大テロル」終結のすぐあと、1939年8月に起きたソ連とヒトラー・ドイツとの不可侵条約の締結です。
これは、1935年以来、ソ連とコミンテルンがともに掲げてきた「反ファシズム」の旗を捨て、ヒトラー・ドイツとの政治的提携に旗印を変える大転換、180度の方向転換といってもよいものでした。
ところが、スターリンは、ソ連国内では、党レベルでは政治局の会議も、政府レベルでは人民委員会議も開かずに、独断でこの条約の調印をおこないました。
コミンテルンは、執行委員会どころか幹部会を開く間もなしに、この既成事実を押しつけられ、「反ファシズム」の旗を捨てさせられました。

スターリンの政策と行動のなかに、個人専決の専制独裁政治の追求と並行して、領土拡張の覇権主義が強まりつつあったことは明らかです。
この時点ですでにヒトラー・ドイツとの勢力圏分割協定のことまで頭にいれていたかは定かではありませんが…。


大テロルとは
レーニンの死後、1930年代に行われたスターリンによる大粛清。
一般党員や民衆にまで及んだ悪名高き政治弾圧のことである。
最盛期であった1937年から1938年までに、135万人余りが即決裁判で有罪に処され、半数強の68万人が死刑判決を受け、64万人が強制収容所や刑務所へ送られた。
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スターリン秘史(3)

2016-07-27 09:10:21 | 読書
国会放火事件をテコにヒトラー独裁体制が樹立された

2月27日夜、国会議事堂が炎上しました。
放火箇所は、消防隊の現場検証によっても、20数箇所にわたるもので、これが複数の犯人による集団的な犯行であることは明らかでしたが、現場で一人のオランダ人青年が逮捕されると、ゲーリングは何の捜査もせずにすぐさま「共産党の犯行」だと断定し、ただちに共産党と社会民主党のすべての新聞社の禁止と共産党幹部の逮捕を命令しました。
そして、翌28日、ヒトラーは、国会放火は共産党の武力蜂起の口火だったとして、「国民と国家の防衛のための大統領緊急命令」を発令、憲法の基本的人権を一挙に無効にして、警察に無制限の弾圧権を与え、短期間に多くの国会議員を含む中央・地方の共産党幹部4000人をはじめ、共産党や社会民主党、その支持者など多数の人々を逮捕しました。
そして、警察の捜査内容によって「共産党の武力革命」計画が明らかになったとして、共産党への恐怖をかきたてる大々的な宣伝キャンペーンを全国的に展開しました。

3月5日の総選挙は、こういう状況のもとで強行されましたが、ナチスの圧倒的勝利とはなりませんでした。
ナチスは新たに550万票を増やして得票1726万・議席288を得ましたが、過半数には36議席足りませんでした。
共産党は484万票・81議席、社会民主党は717万票・120議席を得ます。
しかし、すでに独裁国家への道に足を踏み出したヒトラーにとっては、これらの悪条件はもはや物の数ではありません。
政府は3月8日、共産党の議席はく奪を宣言、3月23日には予算を含む法律の制定権を国会から政府に移し、憲法の制約も解除する「全権委任法」の採決を強行しました。
憲法の事実上の廃止を意味するこの「法律」の成立には、3分の2の賛成が必要でしたが、武装した突撃隊・親衛隊が議場を取り囲むなかで開かれた国会は、賛成441・反対94でこれを可決し、それによって国会自身を葬りました。
反対したのは社会民主党だけでしたが、社会民主党も少なくない議員が逮捕されるなどして投票に参加できませんでした。
それに続いたのが、ナチス党以外の政党の解体です。
こうした措置の総決算として、7月14日には、ナチス党以外の政党を一切認めない「新党設立禁止法」が公布され、名実ともにヒトラー指揮下の一党制国家の体制がととのえられます。
右派政党の構想によるヒトラー連立内閣の成立(1月30日)からここまでの全過程が、6ヶ月にも満たない短期間で強行推進されたのです。
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