忘備録の泉

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大英帝国(6)

2017-03-31 09:40:27 | Library
フランス革命さらにナポレオン戦争というヨーロッパの激動に対し、独立したてのアメリカ合衆国は初代大統領ワシントンの退任演説に見られるように、中立政策を原則とし、英仏双方との貿易の利益を守っていた。
第3代大統領ジェファソンも基本的には中立政策を維持した。
しかし、英仏の対立が先鋭化し、1806年にナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスの港へのすべての商船の入港を禁止したため、アメリカ船もイギリスに入れなくなった。
さらにイギリスも逆封鎖に乗りだしたので、アメリカ船舶はフランス及びフランス植民地への入港が出来なくなってしまった。
こうしてアメリカの中立政策は困難となり、いずれかの国との貿易を再開するには、いずれかの国と敵対しなければならない状況となった。

アメリカ国内で反英感情と主戦派が台頭するなか、アメリカ議会は1812年6月18日、イギリスに宣戦した。
無意味な戦争として始まったが、結果的に保護貿易政策が採られたためアメリカ産業の生産力が高まり、イギリス経済に依存しない産業力を身につけることとなって、アメリカの産業革命の端緒となった。
また、首都を焼かれたことでの復讐心から愛国心が強まり、第2次独立戦争とも位置づけられるようになって、大陸諸国に対して独自の道を歩む国家としての意識が生まれた。
それが1823年のモンロー教書につながっていく。
(アメリカ大統領モンローが出したアメリカ外交の基本政策。孤立主義の原則とともに、アメリカ大陸を勢力圏とする意図を示した)
戦闘はアメリカ国内で行われたが勝敗はつかず、ヨーロッパでナポレオンが没落したことを受け、1814年に講和した。

18世紀の60年代以降に本格化したイギリスの産業革命によって、他に先駆けて工業化を達成し、特に1830年代から70年代には、イギリスは世界の工場と言われる、高い競争力を誇っていた。
特に1837~1901年のヴィクトリア女王の時代、1837~1901年のヴィクトリア朝は経済の繁栄と広大な海外植民地を誇り、第一帝国(17世紀中頃から18世紀末のアメリカ独立まで)に続く第二帝国(第一次世界大戦まで)ともいわれている。
またイギリスの圧倒的な海軍力によって実現したこの時期の世界の相対的な安定を、古代ローマのパックス=ロマーナになぞらえて「パックス=ブリタニカ」ともいう。
このヴィクトリア時代のイギリスの繁栄を象徴する出来事が、1851年に開催されたロンドン万国博覧会であった。
産業革命での産業資本家の進出を背景に、イギリス議会では自由主義的改革が進んだ。

イギリスはアメリカ合衆国の独立によって北米の植民地の多くを失ったが、なおも北米大陸にカナダ、ジャマイカなどの西インド諸島、アフリカのエジプト、南アフリカなど、さらにアジアのインドとその周辺などに植民地または勢力圏を拡大し、広大な資源を有する植民地帝国を形成していた。
イギリス経済の世界制覇は、本国の工業製品と、インドの綿花・アヘン、中国の茶、絹織物などを結ぶ三角貿易という形で展開された。
自由貿易を掲げるイギリスは1840年にはアヘン戦争で清朝を屈服させて香港を獲得、1857年にはインド大反乱を鎮圧し、77年にインド帝国として植民地化を達成、その他東南アジア・アフリカにも進出する。
19世紀後半からは自由貿易の拡大から植民地そのもの獲得という帝国主義的拡大の時代に入った。
それに対してインドの民族運動の活発化など、イギリスも新たな対応を迫られていく。

(つづく)


大英帝国(5)

2017-03-30 13:24:26 | Library
18世紀はイギリスが「大ブリテン王国」として発展した時期である。
国内政治では責任内閣制と政党政治という近代議会政治の形態が定着した時代であり、同時に経済面では綿工業での技術革新を始めとする産業革命が始まり、資本主義経済体制が成立した時代である。
イギリスの産業、経済のあり方もこの時期に大きく変動した。
産業革命の中から成長した産業資本家は、従来の重商主義経済政策に反対して、自由貿易主義を主張するようになる。
また労働者の権利の保護の観念は不十分で、その劣悪な状態が大きな社会問題になり始める。

18世紀は第2次百年戦争と言われるぐらい、激しく海外植民地をめぐって英仏両国が争った。
イギリス本国政府は戦費調達のため、それまでの植民地放任政策を改めて、植民地に対する課税を強化する方針に転じた。
その結果、アメリカ植民地に独立の声が高まり、ついにアメリカ独立戦争(1775~83年)が勃発する。
イギリスはカトリックであるフランスとの戦争では、プロテスタントという宗教意識を媒介にしながら国民としてのアイデンティティを創造してきた。
そんなイギリスにとって、同じプロテスタントであるアメリカとの戦いは当初から大義名分をも欠いていた。
1776年のアメリカ独立宣言はイギリス国王ジョージ3世の圧政を激しく非難、独立軍はフランスの参戦や国際的な義勇兵の参加、ロシアの武装中立同盟などもあって優位に戦いを進め、1783年のパリ条約でイギリスはその独立を認めざるを得なかった。
これによって第1次植民地帝国は終わりを告げた。

1789年、フランス革命が起こり、93年にはルイ16世が処刑されてブルボン朝が倒れたことはイギリスにも大きな影響を与えた。
ジョージ3世は王政の危機を感じ取って議会に介入し王権を強めようとした。
議会はトーリ党もホイッグ党も地主政党であったので産業革命の進行によって市民や労働者が台頭することを恐れ、国王に同調して保守化した。
1793年にフランス革命政府はイギリスに宣戦布告、イギリスは対仏大同盟を何度か結成し、対決姿勢を強める。
1799年、ナポレオンがフランスの独裁者となるとその最大の攻撃目標はイギリスとされ、海軍による両者の戦いが次の世紀まで続くことになる。
1801年、大ブリテンとアイルランドが合同し、「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。
連合王国という形式であるがイギリスはブリテン島とアイルランドを統合した国家となった。
イギリス宗教改革で成立したイングランドの国教会がアイルランドにも強要されると、アイルランドに多いカトリック教徒の反発が強まった。
17世紀にはいり、ジェームズ1世の時代に北アイルランドにプロテスタントが入植するようになって、特に北アイルランドには新旧両派が混在する状態となった。
アイルランド問題の始まりだ。

19世紀初頭は、フランスとの第2次百年戦争を継続し、ナポレオン戦争を展開した。
また、ナポレオンの大陸封鎖令に対抗して逆封鎖を行ったため、中立国アメリカ合衆国との間で1812年にアメリカ=イギリス戦争が起こった。

(つづく)

大英帝国(4)

2017-03-29 14:44:34 | Library
17世紀イギリスは国内のイギリス革命の進展と平行して、前代から始まった海外進出と重商主義政策をさらに積極的に進めた。
クロムウェルはアイルランドとスコットランドを侵略し、特にアイルランドはイングランドの支配下に置かれて多くの新教徒が移住し、後のアイルランド問題の原因となった。
また、国内の毛織物産業はさらに発展し、海外に販路を求め、アメリカ新大陸、インド、東南アジア、東アジアでオランダ・フランスと競合しながら次第に優位を獲得していった。
最も激しく争ったのはオランダであり、東南アジアでは1623年にはアンボイナ事件で敗れて東南アジアから撤退した。
同年、イギリスは平戸での日本との貿易からも撤退した。
その後イギリスはインド進出に主力を向けることとなり、39年にマドラス、61年にボンベイ、90年にカルカッタを獲得して東インド会社の拠点を設けてインド産綿布の輸入にあたり、同じくインド進出をめざすフランスと競争した。

名誉革命以後、ウィーン会議でナポレオン戦争に決着がつく1815年まで、イギリスはフランスと慢性的な戦争状態にあった。
フランス、カトリックを「他者」として作られたプロテスタントという「イギリス人」の自己イメージが、スコットランド人、イングランド人、ウェールズ人といった内部の差異を隠ぺいし忘却させ、一体感を創出していく。

アメリカ新大陸には1607年のヴァージニア植民地の建設から本格化し、1620年にはジェームズ1世の弾圧を逃れたピューリタンたちが北米に移住して、ニューイングランドの建設が始まった。
オランダとはクロムウェルの時に議会が1651年に航海法を制定してから全面的な英蘭戦争に突入した。
英蘭戦争はクロムウェル死後も続けられ、その過程で新大陸にニューヨークなどを獲得し、新大陸東部に植民地を拡大し、後の13植民地の基礎を築いた。
またクロムウェルはスペインから西インド諸島のジャマイカを奪って領土とした。
こうして17世紀後半は、イギリスとフランスは激しい英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)を展開、17世紀末までにイギリスの優位が確立し、18世紀にはイギリスは新大陸からアジアに至る植民地を所有する植民地帝国=第一帝国(第一次植民地帝国)と言われるようになる

(つづく)

大英帝国(3)

2017-03-28 08:51:59 | Library
1603年にエリザベス1世が死去。
子がいなかったのでスコットランドからステュアート家のジェームズ1世を迎えステュアート朝となった。
これによってイングランドとスコットランドは同君連合という形式になったが、実態はイングランドの優勢が明白であり、スコットランドの従属性が続いた。
イギリスはエリザベス時代にイギリス国教会という教会制度と、東インド会社に代表される重商主義経済体制とを両輪とした絶対王政の態勢を確立させ、ヨーロッパの有力な主権国家としてスペイン・ポルトガルに代わって台頭した。
海外進出ではオランダ・フランスと覇を競い、ヨーロッパの国際政治では宗教の違いからカトリック教国フランスと対立するという図式が出来上がった。

16世紀後半のエリザベス1世の時期にイギリス国教会体制が完成すると純粋なプロテスタントの信仰を求めるピューリタンは、「中道」的でカトリック的儀式や主教制をとる国教会に対する不満を強めていった。
さらに、17世紀に入り、イギリスのステュアート朝の国王ジェームズ1世は「主教なくして国王なし」と称して国教会の主教制度を柱として王権を強化し、それに従わない聖職者を追放した。
それに対して一部のピューリタンは信仰の自由を求め、アメリカ新大陸にわたった。
国内に残ったピューリタンも、絶対王政の下での国教会の強制に強い不満を募らせていった。

次のチャールズ1世は 1628年の議会の権利の請願を無視して議会を解散、その間、カンタベリー大主教ロードなどを側近として専制政治を行った。
大主教ロードは国教会の立場ながらカトリックに近い儀式などを強要し、反発するピューリタンや長老派を厳しく弾圧した。
しかし、国王の専制政治は財政困難から行き詰まり、ジェントリ(地主)に新たな課税を課してさらに反発を強めた。
国王と議会の対立は、ついに1642年に武力衝突に発展、国王軍と議会軍の内戦となった。
このとき議会を構成したジェントリの多くがピューリタンであり、特に1649年、チャールズ1世を処刑し、イギリスに共和制を樹立したクロムウェルが熱心なピューリタンであったことから、この革命をピューリタン革命といっている。

革命を主導したクロムウェルが独裁政治を行って民心から離れ、王政復古となってチャールズ2世が即位し、カトリックに復帰する動きを示したため議会は1673年に審査法を制定して、カトリック教徒と並んで非国教徒もイギリスの公職に就けないと定めた。
次のジェームズ2世もカトリックの復興にこだわったため対立は続き、議会内に国王と妥協的なトーリ党と、国王権力の制限を図ろうとするホィッグ党という党派が生まれ、後の政党政治へとつながることとなる。
ジェームズ2世のカトリック復興の姿勢に危機感を持った議会は、トーリーとホイッグが一致して国教会体制の維持を図るため、1688年に、国王を追放してジェームズ2世の娘のメアリとその夫オランダ総督ウィレムを迎えて、二人は議会の示した権利の宣言を承認して権利の章典として公布し、名誉革命が行われた。
名誉革命が行われたことによって、イギリスは立憲君主政となった。共和政は否定され、立憲君主政という妥協的な体制となったが、まもなく「国王は君臨すれども統治せず」という原則とともに議会制度のルールが成立することとなる。

(つづく)


大英帝国(2)

2017-03-25 08:41:09 | Library
イギリスによる宣戦布告から1453年のボルドー陥落までの約100年間戦われた百年戦争は、フランスの王位継承をめぐるイギリス(イングランド)とフランスの戦いである。
フランス王シャルル4世は、跡継ぎのないまま世を去り、カペー家は断絶した。
1328年、従弟のヴァロア家フィリップが、王位を継ぎフィリップ6世を名乗った。
これに対して、シャルル4世の甥のイギリス国王エドワード3世が、王位継承権は自分にあると主張し争いが始まった。

当初、イギリス軍が優位に戦いを進めフランスのほぼ半分を占領した。
しかし、ジャンヌダルクの登場により形勢は逆転、最終的にイギリスは敗れ、カレー以外の大陸の領土を失った。
フランスはこの戦争とペストの流行で人口が激減し、国は疲弊した。
イギリスもこの戦争後にバラ戦争が起こり、混乱の時代が続いた。

絶対王政下の社会では、王権のもとに統一された国家機構を必要とした。
宗教が国家統合の重要な柱であったこの時代に、イギリス・テューダー朝のヘンリ8世は、自己の離婚問題を契機にローマ教会と決別してイギリス宗教改革を断行し、プロテスタント化を進めた。
イギリスの絶対王政の全盛期は、テューダー朝の女王エリザベス1世の時代に相当する。
エリザベス1世はイギリス宗教改革を完成させ、教会組織の頂点に立って国家を治めるという国教会体制を完成させ、王権を確固たるものにした。
エリザベス1世の時代はシェークスピアの活躍に代表されるイギリス・ルネサンスの開花した時代であった。
16世紀中頃まではイギリスは大国スペインに圧倒され、その力はまだ微弱なもにすぎなかったが、イギリスは集約的な農業による生産性を高め、毛織物業を中心とした輸出産業を発展させて、海外進出を開始した。
この段階の活動は先行するスペインの商業活動に対する私拿捕船(私掠船)による海賊行為が主であったが、オランダのスペインからの独立戦争を助け1588年にスペインの無敵艦隊を破って、イギリスの海洋帝国としての第一歩を歩み出した。

(つづく)