フランス革命さらにナポレオン戦争というヨーロッパの激動に対し、独立したてのアメリカ合衆国は初代大統領ワシントンの退任演説に見られるように、中立政策を原則とし、英仏双方との貿易の利益を守っていた。
第3代大統領ジェファソンも基本的には中立政策を維持した。
しかし、英仏の対立が先鋭化し、1806年にナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスの港へのすべての商船の入港を禁止したため、アメリカ船もイギリスに入れなくなった。
さらにイギリスも逆封鎖に乗りだしたので、アメリカ船舶はフランス及びフランス植民地への入港が出来なくなってしまった。
こうしてアメリカの中立政策は困難となり、いずれかの国との貿易を再開するには、いずれかの国と敵対しなければならない状況となった。
アメリカ国内で反英感情と主戦派が台頭するなか、アメリカ議会は1812年6月18日、イギリスに宣戦した。
無意味な戦争として始まったが、結果的に保護貿易政策が採られたためアメリカ産業の生産力が高まり、イギリス経済に依存しない産業力を身につけることとなって、アメリカの産業革命の端緒となった。
また、首都を焼かれたことでの復讐心から愛国心が強まり、第2次独立戦争とも位置づけられるようになって、大陸諸国に対して独自の道を歩む国家としての意識が生まれた。
それが1823年のモンロー教書につながっていく。
(アメリカ大統領モンローが出したアメリカ外交の基本政策。孤立主義の原則とともに、アメリカ大陸を勢力圏とする意図を示した)
戦闘はアメリカ国内で行われたが勝敗はつかず、ヨーロッパでナポレオンが没落したことを受け、1814年に講和した。
18世紀の60年代以降に本格化したイギリスの産業革命によって、他に先駆けて工業化を達成し、特に1830年代から70年代には、イギリスは世界の工場と言われる、高い競争力を誇っていた。
特に1837~1901年のヴィクトリア女王の時代、1837~1901年のヴィクトリア朝は経済の繁栄と広大な海外植民地を誇り、第一帝国(17世紀中頃から18世紀末のアメリカ独立まで)に続く第二帝国(第一次世界大戦まで)ともいわれている。
またイギリスの圧倒的な海軍力によって実現したこの時期の世界の相対的な安定を、古代ローマのパックス=ロマーナになぞらえて「パックス=ブリタニカ」ともいう。
このヴィクトリア時代のイギリスの繁栄を象徴する出来事が、1851年に開催されたロンドン万国博覧会であった。
産業革命での産業資本家の進出を背景に、イギリス議会では自由主義的改革が進んだ。
イギリスはアメリカ合衆国の独立によって北米の植民地の多くを失ったが、なおも北米大陸にカナダ、ジャマイカなどの西インド諸島、アフリカのエジプト、南アフリカなど、さらにアジアのインドとその周辺などに植民地または勢力圏を拡大し、広大な資源を有する植民地帝国を形成していた。
イギリス経済の世界制覇は、本国の工業製品と、インドの綿花・アヘン、中国の茶、絹織物などを結ぶ三角貿易という形で展開された。
自由貿易を掲げるイギリスは1840年にはアヘン戦争で清朝を屈服させて香港を獲得、1857年にはインド大反乱を鎮圧し、77年にインド帝国として植民地化を達成、その他東南アジア・アフリカにも進出する。
19世紀後半からは自由貿易の拡大から植民地そのもの獲得という帝国主義的拡大の時代に入った。
それに対してインドの民族運動の活発化など、イギリスも新たな対応を迫られていく。
(つづく)
第3代大統領ジェファソンも基本的には中立政策を維持した。
しかし、英仏の対立が先鋭化し、1806年にナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスの港へのすべての商船の入港を禁止したため、アメリカ船もイギリスに入れなくなった。
さらにイギリスも逆封鎖に乗りだしたので、アメリカ船舶はフランス及びフランス植民地への入港が出来なくなってしまった。
こうしてアメリカの中立政策は困難となり、いずれかの国との貿易を再開するには、いずれかの国と敵対しなければならない状況となった。
アメリカ国内で反英感情と主戦派が台頭するなか、アメリカ議会は1812年6月18日、イギリスに宣戦した。
無意味な戦争として始まったが、結果的に保護貿易政策が採られたためアメリカ産業の生産力が高まり、イギリス経済に依存しない産業力を身につけることとなって、アメリカの産業革命の端緒となった。
また、首都を焼かれたことでの復讐心から愛国心が強まり、第2次独立戦争とも位置づけられるようになって、大陸諸国に対して独自の道を歩む国家としての意識が生まれた。
それが1823年のモンロー教書につながっていく。
(アメリカ大統領モンローが出したアメリカ外交の基本政策。孤立主義の原則とともに、アメリカ大陸を勢力圏とする意図を示した)
戦闘はアメリカ国内で行われたが勝敗はつかず、ヨーロッパでナポレオンが没落したことを受け、1814年に講和した。
18世紀の60年代以降に本格化したイギリスの産業革命によって、他に先駆けて工業化を達成し、特に1830年代から70年代には、イギリスは世界の工場と言われる、高い競争力を誇っていた。
特に1837~1901年のヴィクトリア女王の時代、1837~1901年のヴィクトリア朝は経済の繁栄と広大な海外植民地を誇り、第一帝国(17世紀中頃から18世紀末のアメリカ独立まで)に続く第二帝国(第一次世界大戦まで)ともいわれている。
またイギリスの圧倒的な海軍力によって実現したこの時期の世界の相対的な安定を、古代ローマのパックス=ロマーナになぞらえて「パックス=ブリタニカ」ともいう。
このヴィクトリア時代のイギリスの繁栄を象徴する出来事が、1851年に開催されたロンドン万国博覧会であった。
産業革命での産業資本家の進出を背景に、イギリス議会では自由主義的改革が進んだ。
イギリスはアメリカ合衆国の独立によって北米の植民地の多くを失ったが、なおも北米大陸にカナダ、ジャマイカなどの西インド諸島、アフリカのエジプト、南アフリカなど、さらにアジアのインドとその周辺などに植民地または勢力圏を拡大し、広大な資源を有する植民地帝国を形成していた。
イギリス経済の世界制覇は、本国の工業製品と、インドの綿花・アヘン、中国の茶、絹織物などを結ぶ三角貿易という形で展開された。
自由貿易を掲げるイギリスは1840年にはアヘン戦争で清朝を屈服させて香港を獲得、1857年にはインド大反乱を鎮圧し、77年にインド帝国として植民地化を達成、その他東南アジア・アフリカにも進出する。
19世紀後半からは自由貿易の拡大から植民地そのもの獲得という帝国主義的拡大の時代に入った。
それに対してインドの民族運動の活発化など、イギリスも新たな対応を迫られていく。
(つづく)