統合医療日記

ここでの統合医療とは単に西洋医学と東洋医学の統合ではなく、病気を肉体と精神と社会及び自然環境の4視点から見ていきます。

高橋信次と統合医療(最終章1)

2017-09-18 13:21:00 | ドクターKの宗教問答(悟りのための医学)

右が「心経の言霊」といって信次先生が書いた「心経」の解説書で462ページあります。

左が「反省のかなめ」と言って反省の方法を解説したもので250ページほどあります。

多分聖書より具体的で分かりやすいと思います。現代のGood Newsと言っても過言ではありません。

いつも持ち歩いている心経が書いてある証本ですがもうボロボロぼろです。暗記しているので持ち歩く必要もないのですが、魔よけです。事故に会いません。暗記しているのは死んだ時にも潜在意識に残り、魔戦う力にるからです。

こんなもの持っている人もいないと思いますが、今もっているのがもう古くなったので、たまたまこれが出てきましたので、これからはこれを持ち歩く事にします。

久しぶりのブログアップですが、新院長になり忙しく診療から帰ったら中国ドラマを見て、ギターを弾きながら歌を歌い癒して終わる毎日です。今日は台風が上陸したので、久しぶりにアップできそうです。2ヶ月もアップしないのに毎日アクセスが100以上ありPVが200以上有ります。特に最近高橋信次の所にアクセスしている人が多いようで、何か復活の兆しも感じます。

 自給自足農園:以前何処まで書いたか忘れましたが、今日は最終回(2回)にします。私は当時自給自足の農園に生まれました。中学生までは給食費以外はお金を使ったことがほとんど有りません。肉は大体鶏肉か豚肉、ヤギ肉、たまにイノシシやウサギの肉です。魚は玄界灘が近いので海魚も食べていましたが、個人的には大体コイかフナの寒露煮かなまずの蒲焼、ドジョウや川海老もたまに食べていました。病気の叔父が農園で花で生活していましたので、季節には四季折々の花が咲き、野草も咲いていました。果物もほとんど種類が有り、全ての果物が旬でもぎたて新鮮の美味しいのを食べていました。子供のときは農業の厳しい作業も免除され、ただ全の収穫のものを取って食べる。またそれがゲームの用に面白く退屈することは有りませんでした。

百姓の次男が医者になった理由(分け):そんな分けで高校生になっても自分は農学部しか行くところは無いと思い九大の農学部に行く事にしていました。ところが高校二年生のときのある日、「医者になりなさい!」という声が聞こえてきました。これは守護霊のことですが、誤解を招くといけないのでこれからはインスピレーションと表現します。「おかしなことが有るものだと思いましたが、その後書店に行き「職業適性の本」を見てみました。そこには医者になる3つの条件がかかれていました。1.博愛の精神を持っていること 2.健康と屈強な体力 3.勉強が好きなこと の3条件が書いてありました。私は即座に3つとも無し、ムリということで医者になることは見送りました。ところが、3年生の時の願書提出前にまたインスピレーションが下りてきました。今度は「今夜は医者になるかどうかを勉強は一切せずに考えろ!」とのことでした。今度は完全に精神がのっとられましたので、一晩中考えました。結局父親の医療の甲斐なく無残な在宅ガン死と、その後の母子家庭とガン遺児の不幸体験から、「確かに人生は厳しい、蝶や花よの生活だけではすまない。医者になったところで、この厳しいガン病や不幸の役には絶たないかもしれないが、いくばくかの抵抗にはなるかもしれない」そう思い一年留浪人する事にしました。

久々のインスピレーション:東京医科歯科大学に行くつもりが、学園紛争で東大の医学部入試が中止となり、その受験生600人が医科歯科大学を受けることになり、太刀打ちできず結局第2次希望の鳥取大学にしました。ガン遺児の母子家庭にとっては、勉学に6年も罹る事態が困難でした。片親を亡くした子供は誰もが「もう一人の親も死ぬかもしれない」という恐怖症にそれとなくなるものです。百姓なら怖くは有りませんが、今はお金のかかる医師への道で、さらに親死に経済的に絶たれれば、中途退学止むなしなのです。一刻も早く卒業し、二浪や留年は原則出来ません。6年後何んとか卒業試験にこぎつけたものの、既に20%は脱落しており、卒業試験でまた2割さらに国家試験で2割落ちますので、12月山陰の氷点下の中コタツの中で必死で勉強していました。3日猛勉強して最後の日はほぼ徹夜、試験が終わった日は一日だけ普通の日を送り、さらに3日という事が10何科目2~3ヶ月続くのです。若くないと出来ません。そんな時に久しぶりに例のインスピレーションが聞こえてきました。「お前はそんな事をしている場合ではない!今東京に偉大な人が出てきている。お前はすぐに会いに行け!」という場違いな声が聞こえてきました。「そんな事をしている場合ではない!?」とんでもない事を言って来たなと思いそのときは一蹴しました。あの世とこの世の時間間隔は大分ずれが有るようです。しかし、その後それが高橋信次の事である事が分かり、彼の死の3ヶ月前に2日間にわたる個人指導で、百姓希望の私を無理やり医師にしたインスピレーションと高橋信次に会えというインスピレーションが同じである次元のものであることが分かりました。

次回は高橋信次と会ったことが、何故私が統合医療を目指さざるを得なかったかについて、最終章その2とします。

 

コメント (2)
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