昨晩、お盆休み明けの渋谷富士屋本店で呑んでいて、店の小さなテレビで訃報を知った。
「パリ・コレクションなど欧米のファッションショーで活躍した日本人女性モデルの先駆けで、俳優の山口小夜子(やまぐち・さよこ)さんが14日、急性肺炎で亡くなった。57歳だった。葬儀は親族のみで済ませた。後日、お別れの会を開く予定。横浜市生まれ。杉野学園ドレスメーカー女学院卒業後にモデルとなり、高田賢三や山本寛斎のショーで注目を集めた。72年にパリ・コレにデビュー。次いでニューヨークコレクションにも参加して、おかっぱ頭に切れ長の目の容姿で日本人モデルのブームを巻き起こした。77年には米ニューズウィーク誌から「世界の6人のトップモデル」の一人に選ばれた。 俳優としても、寺山修司演出「中国の不思議な役人」などに出演するなど演劇、映画、コンテンポラリーダンスに活動の場を広げた。衣装デザインも手がけた。」(asahi.comより)
1977年の夏、初めてパリに行った時、シャンゼリゼ通りのブティックのショーウィンドウに山口小夜子のマネキンが並んでいるのでびっくりした覚えがある。後日それはロンドン・アデルー社制作の「SAYOKOマネキン」だった事を知った。70年代、資生堂が仏のクリエーターのセルジュ・ルタンスを起用して制作していた広告シリーズが大好きだった僕は、1977年2月に渋谷西武劇場で「中国の不思議な役人」に出演していた山口小夜子を初めて見ていた。(ルタンスがディレクションした広告発見できず写真は別の資生堂の広告。撮影はたぶん横須賀功光氏)

その年にリリースされたSteely Danの名盤「Aja」では藤井秀樹撮影の彼女がジャケットを飾った。その後も2001年には鈴木清順監督、音楽こだま和文、歌演奏エゴラッピンの映画「ピストルオペラ」で主演、2005年のセルジュ・ルタンス展での彼女の写真が一番最近見たものかもしれない。

19日に女優の南風洋子も亡くなった。77歳。この人、宝塚歌劇団から劇団民藝というすごい転身をしたのだが、知的なクール・ビューティー系で同じ民藝の奈良岡朋子と共に僕の好きな女優の一人だった。合掌。
「パリ・コレクションなど欧米のファッションショーで活躍した日本人女性モデルの先駆けで、俳優の山口小夜子(やまぐち・さよこ)さんが14日、急性肺炎で亡くなった。57歳だった。葬儀は親族のみで済ませた。後日、お別れの会を開く予定。横浜市生まれ。杉野学園ドレスメーカー女学院卒業後にモデルとなり、高田賢三や山本寛斎のショーで注目を集めた。72年にパリ・コレにデビュー。次いでニューヨークコレクションにも参加して、おかっぱ頭に切れ長の目の容姿で日本人モデルのブームを巻き起こした。77年には米ニューズウィーク誌から「世界の6人のトップモデル」の一人に選ばれた。 俳優としても、寺山修司演出「中国の不思議な役人」などに出演するなど演劇、映画、コンテンポラリーダンスに活動の場を広げた。衣装デザインも手がけた。」(asahi.comより)
1977年の夏、初めてパリに行った時、シャンゼリゼ通りのブティックのショーウィンドウに山口小夜子のマネキンが並んでいるのでびっくりした覚えがある。後日それはロンドン・アデルー社制作の「SAYOKOマネキン」だった事を知った。70年代、資生堂が仏のクリエーターのセルジュ・ルタンスを起用して制作していた広告シリーズが大好きだった僕は、1977年2月に渋谷西武劇場で「中国の不思議な役人」に出演していた山口小夜子を初めて見ていた。(ルタンスがディレクションした広告発見できず写真は別の資生堂の広告。撮影はたぶん横須賀功光氏)

その年にリリースされたSteely Danの名盤「Aja」では藤井秀樹撮影の彼女がジャケットを飾った。その後も2001年には鈴木清順監督、音楽こだま和文、歌演奏エゴラッピンの映画「ピストルオペラ」で主演、2005年のセルジュ・ルタンス展での彼女の写真が一番最近見たものかもしれない。

19日に女優の南風洋子も亡くなった。77歳。この人、宝塚歌劇団から劇団民藝というすごい転身をしたのだが、知的なクール・ビューティー系で同じ民藝の奈良岡朋子と共に僕の好きな女優の一人だった。合掌。
ロックギタリストの成毛滋が3月29日、大腸がんのため亡くなった。享年60。
僕が高校時代ロックギターを始めた当時、日本にはほとんど楽器や奏法の情報がなかった中、唯一発信していたのが彼だった。ライトギターで3弦プレインの弦がまだ日本で販売されていなかったため通常のゲージをひとつずらして張る(1弦用を2弦に、2弦用を3弦にといった具合、1弦には当時で一番細かったバンジョーの弦を使用)というのも彼の雑誌の記事で教わった。その他にもアップダウン・ピッキングやクラプトンの得意なウーマントーンなど数え切れない。
最初に彼の演奏を見たのは1971年のBBキングの来日オールナイト・コンサートでのストロベリー・パス時代だった。ベースレスでハモンドとギターを同時に弾く成毛もすごかったけれどドラムの角田ヒロのパワーにもびっくりした記憶がある。ちなみにこの時の出演者はPYG、エム、増尾好秋、稲垣次郎とソウルメディア(ボーカルはヒット前の尾崎紀世彦)、などなどでBBは日本製のエーストーンの小さなギターアンプで弾いたのだが素晴らしい音だった。
写真はストロベリー・パス唯一のアルバム「大烏が地球にやってきた日」(1971年)、FIVE MORE PENNIES名曲。ライナーは大学時代の友人景山民夫、ゲストに柳譲治、江藤勲(黛ジュンと結婚していたこともある当時のトップスタジオベーシスト、ジャズベの音が心地よい)。しっかりアナログ持ってます。
あんなに長くてたくさんあった髪がほとんどなくなってからもフジテレビの寺内ヘンドリックスへの出演など活躍していたのだが1996年頃から体調が悪くなりギターも弾けなくなっていたらしい。
「Dr.Siegel's Archives」という日本のロック創世史ともいえる成毛滋の完璧なサイトがあるのでぜひご覧することをすすめる。
ここには未発表音源も多数あるのだが1977年自宅スタジオでの竹田和夫、金子マリ達とのセッション「Nobody Knows You When You're Down And Out」を聴きながら合掌。。。
僕が高校時代ロックギターを始めた当時、日本にはほとんど楽器や奏法の情報がなかった中、唯一発信していたのが彼だった。ライトギターで3弦プレインの弦がまだ日本で販売されていなかったため通常のゲージをひとつずらして張る(1弦用を2弦に、2弦用を3弦にといった具合、1弦には当時で一番細かったバンジョーの弦を使用)というのも彼の雑誌の記事で教わった。その他にもアップダウン・ピッキングやクラプトンの得意なウーマントーンなど数え切れない。
最初に彼の演奏を見たのは1971年のBBキングの来日オールナイト・コンサートでのストロベリー・パス時代だった。ベースレスでハモンドとギターを同時に弾く成毛もすごかったけれどドラムの角田ヒロのパワーにもびっくりした記憶がある。ちなみにこの時の出演者はPYG、エム、増尾好秋、稲垣次郎とソウルメディア(ボーカルはヒット前の尾崎紀世彦)、などなどでBBは日本製のエーストーンの小さなギターアンプで弾いたのだが素晴らしい音だった。
写真はストロベリー・パス唯一のアルバム「大烏が地球にやってきた日」(1971年)、FIVE MORE PENNIES名曲。ライナーは大学時代の友人景山民夫、ゲストに柳譲治、江藤勲(黛ジュンと結婚していたこともある当時のトップスタジオベーシスト、ジャズベの音が心地よい)。しっかりアナログ持ってます。
あんなに長くてたくさんあった髪がほとんどなくなってからもフジテレビの寺内ヘンドリックスへの出演など活躍していたのだが1996年頃から体調が悪くなりギターも弾けなくなっていたらしい。
「Dr.Siegel's Archives」という日本のロック創世史ともいえる成毛滋の完璧なサイトがあるのでぜひご覧することをすすめる。
ここには未発表音源も多数あるのだが1977年自宅スタジオでの竹田和夫、金子マリ達とのセッション「Nobody Knows You When You're Down And Out」を聴きながら合掌。。。
ジャズ・ギタリストの沢田駿吾が8/28に亡くなった。最近の和モノ・ソフトロックブームのリシューで彼を知った人も多いと思う。僕にとっては小学校6年ぐらいの時フジTVで放映していた「勝ち抜きエレキ合戦」の審査員で初めて知った。この番組の司会は鈴木やすし、レギュラーゲストはシャープ・ホークスとシャープ・ファイブで、バンドが一週勝ち抜くたびにテスコのエレキギターが賞品で渡されていたのを覚えている。成毛滋が在籍したフィンガーズは「荒城の月」を演奏したのもおぼろげに記憶がある。審査員は他に寺内タケシ、福田一郎だったか。もう映像残ってないだろうけど今見たいものの一つだ。
「沢田駿吾氏(さわだ・しゅんご、本名・駿五=ジャズ・ギタリスト)28日、肝細胞がんで死去。76歳。告別式は9月4日午前11時、東京都渋谷区西原2の42の1代々幡斎場。喪主は長男、俊祐(しゅんすけ)氏。日本のジャズ・ギタリストの第一人者として長く活躍、1998年には日本ジャズ界最高の名誉とされる南里文雄賞を受賞した。」(YOMIURI ONLINEより)
彼が院長だったルーツ音楽院のサイトには、
「戦後の日本に於ける、モダン・ジャズ・ギターのスタイルを確立した、ジャズ・ギター界の第一人者。かつて、ベニーグットマンが来日したとき、日本のチャーリー・クリスチャンと呼ばしめた、そのテクニックとフィーリングは、本格派ギターリストとして注目を集め、コンサート、ライブハウス等に於いて人気を博した。1957年には、チコ・ハミルトン楽団の名ギターリスト、デンプシー・ライトに師事、徹底的にジャズのセオリー、テクニックを叩き込まれる。1968年以降、ジャズの専門誌、スイングジャーナルの人気投票では、7年間ギター部門のポールウイナーに輝き、トッププレーヤーとしての地位を確固たるものにした。」とある。
「沢田駿吾氏(さわだ・しゅんご、本名・駿五=ジャズ・ギタリスト)28日、肝細胞がんで死去。76歳。告別式は9月4日午前11時、東京都渋谷区西原2の42の1代々幡斎場。喪主は長男、俊祐(しゅんすけ)氏。日本のジャズ・ギタリストの第一人者として長く活躍、1998年には日本ジャズ界最高の名誉とされる南里文雄賞を受賞した。」(YOMIURI ONLINEより)
彼が院長だったルーツ音楽院のサイトには、
「戦後の日本に於ける、モダン・ジャズ・ギターのスタイルを確立した、ジャズ・ギター界の第一人者。かつて、ベニーグットマンが来日したとき、日本のチャーリー・クリスチャンと呼ばしめた、そのテクニックとフィーリングは、本格派ギターリストとして注目を集め、コンサート、ライブハウス等に於いて人気を博した。1957年には、チコ・ハミルトン楽団の名ギターリスト、デンプシー・ライトに師事、徹底的にジャズのセオリー、テクニックを叩き込まれる。1968年以降、ジャズの専門誌、スイングジャーナルの人気投票では、7年間ギター部門のポールウイナーに輝き、トッププレーヤーとしての地位を確固たるものにした。」とある。
元カーナビーツのドラムス、アイ高野がなくなった。
「アイ高野さん(あい・たかの=ザ・カーナビーツのボーカル、ドラマー、本名高野元成=たかの・もとなり)が1日、心不全で死去、55歳。葬儀は4日午前11時30分から東京都大田区西糀谷3の43の11の白蓮蒲田ホールで。喪主は母野中香寿子(のなか・かずこ)さん。後日、音楽葬を予定している。
グループサウンズのザ・カーナビーツでデビュー。67年「好きさ好きさ好きさ」がヒットした。「お前のすべてをー」とスティックを差し出すポーズで知られた。解散後、ザ・ゴールデン・カップス、クリエーションなどのバンドに参加した。」(朝日新聞より)
宮川泰よりもこっちのがびっくりした。一昨年公開した「ザ・ゴールデンカップス ワンモアタイム」テアトル新宿も本牧も映画館公開を逃し未見です。
http://www.altamira.jp/goldencups/conts/movie/intro/intro.html
↑アルタミラピクチャーのwebぜひ見てください。その中に
「アイ高野/ドラムス 在籍期間:('70~'72)
中学生のころから横浜の音楽シーンに惹かれて、15歳の時に、横浜の有名クラブ『レッド・シューズ』のハウス・バンドでドラムを叩く。アイ高野16歳の時に結成したザ・カーナビーツは、67年6月「好きさ好きさ好きさ」でレコード・デビュー。曲のブレイク部分でアイ高野のドラム・スティックを突き出す決めポーズが話題となり、一躍人気グループとして脚光を浴びた。69年秋にカーナビーツ解散後、エディ藩と出会いエディ藩グループに加入するが、同年末には解散となり、翌70年1月、エディ、ケネスと共にゴールデン・カップスに参加する。カップスには72年1月の解散まで在籍。」
とあります。なんと16歳だったんですね。「アイコ16歳」のルーツここにあり。本当にいい声していた人です。余談だけどデビューした67年頃、レーサーで「高野ルイ」という人がいてロータスエランでよくレース出ていて今は無き船橋サーキットのでよく見ました。
合掌。
「アイ高野さん(あい・たかの=ザ・カーナビーツのボーカル、ドラマー、本名高野元成=たかの・もとなり)が1日、心不全で死去、55歳。葬儀は4日午前11時30分から東京都大田区西糀谷3の43の11の白蓮蒲田ホールで。喪主は母野中香寿子(のなか・かずこ)さん。後日、音楽葬を予定している。
グループサウンズのザ・カーナビーツでデビュー。67年「好きさ好きさ好きさ」がヒットした。「お前のすべてをー」とスティックを差し出すポーズで知られた。解散後、ザ・ゴールデン・カップス、クリエーションなどのバンドに参加した。」(朝日新聞より)
宮川泰よりもこっちのがびっくりした。一昨年公開した「ザ・ゴールデンカップス ワンモアタイム」テアトル新宿も本牧も映画館公開を逃し未見です。
http://www.altamira.jp/goldencups/conts/movie/intro/intro.html
↑アルタミラピクチャーのwebぜひ見てください。その中に
「アイ高野/ドラムス 在籍期間:('70~'72)
中学生のころから横浜の音楽シーンに惹かれて、15歳の時に、横浜の有名クラブ『レッド・シューズ』のハウス・バンドでドラムを叩く。アイ高野16歳の時に結成したザ・カーナビーツは、67年6月「好きさ好きさ好きさ」でレコード・デビュー。曲のブレイク部分でアイ高野のドラム・スティックを突き出す決めポーズが話題となり、一躍人気グループとして脚光を浴びた。69年秋にカーナビーツ解散後、エディ藩と出会いエディ藩グループに加入するが、同年末には解散となり、翌70年1月、エディ、ケネスと共にゴールデン・カップスに参加する。カップスには72年1月の解散まで在籍。」
とあります。なんと16歳だったんですね。「アイコ16歳」のルーツここにあり。本当にいい声していた人です。余談だけどデビューした67年頃、レーサーで「高野ルイ」という人がいてロータスエランでよくレース出ていて今は無き船橋サーキットのでよく見ました。
合掌。
本名:ビクトル・マヌエル・マル、1954年10月17日生。新日本もいろんなことが起こります。確か、たけしプロレス軍団の海賊男の一人も彼だったのでは。(写真はヤフオクに出品されていた故人のサイン色紙)
告別式 1月31日 13時半より
カトリック溝の口教会
川崎市高津区二子5-15-7
「激震の続く新日本に突然の訃報(ふほう)が飛び込んだ。20年以上も前座リングの顔として活躍したブラック・キャットさん(享年51)が28日午前3時、急性心不全のため急逝した。明け方にソファーから滑り落ちるように倒れているところを家族に発見された。02年の現役引退後はレフェリーと並行して、外国人選手の出場交渉を行うなど重要な役割を果たしていた。キャットさんは80年代の黄金期から前座戦線を支えてきた。若手の壁であり、教育係でもあった。引退後はレフェリー業務と並行し、母国メキシコとのパイプ役にもなった。昨年のCMLLとの業務提携でも大きな役割を果たした。「メ
キシコと日本で活動して、プロレス界が大きくなるように」と夢を語っていた。新日本再生へ欠かせない人材だった。 激震の続く新日本に突然の訃報(ふほう)が飛び込んだ。20年以上も前座リングの顔として活躍したブラック・キャットさん(享年51)が28日午前3時、急性心不全のため急逝した。」(日刊スポーツより)
告別式 1月31日 13時半より
カトリック溝の口教会
川崎市高津区二子5-15-7
「激震の続く新日本に突然の訃報(ふほう)が飛び込んだ。20年以上も前座リングの顔として活躍したブラック・キャットさん(享年51)が28日午前3時、急性心不全のため急逝した。明け方にソファーから滑り落ちるように倒れているところを家族に発見された。02年の現役引退後はレフェリーと並行して、外国人選手の出場交渉を行うなど重要な役割を果たしていた。キャットさんは80年代の黄金期から前座戦線を支えてきた。若手の壁であり、教育係でもあった。引退後はレフェリー業務と並行し、母国メキシコとのパイプ役にもなった。昨年のCMLLとの業務提携でも大きな役割を果たした。「メ
キシコと日本で活動して、プロレス界が大きくなるように」と夢を語っていた。新日本再生へ欠かせない人材だった。 激震の続く新日本に突然の訃報(ふほう)が飛び込んだ。20年以上も前座リングの顔として活躍したブラック・キャットさん(享年51)が28日午前3時、急性心不全のため急逝した。」(日刊スポーツより)
ジャズピアニストの本田竹広が亡くなった。リハビリ中だとは知らなかった。
「本田竹広氏(ほんだ・たけひろ=ジャズピアニスト)13日午前、急性心不全のため東京都中野区若宮2の50の15の自宅で死去しているのが見つかった。60歳。岩手県出身。葬儀・告別式は19日午前10時から東京都杉並区梅里1の2の27、堀ノ内斎場で。喪主は長男政直(まさなお)氏。
国立音大在学中からジャズピアニストとして活動。73年渡辺貞夫カルテットに参加、78年にはフュージョングループ「ネイティブ・サン」を結成して幅広いジャンルで活躍した。95年と97年に2度にわたって脳内出血で倒れ、左半身まひとなったが、リハビリに励み、コンサートを開くなど音楽活動を続けた。」(四国新聞より)
今思えばネイティブ・サンは相当人気があってポピュラーなバンドで、CM出演やTVドラマのテーマソングまで手懸けていた。80年頃ベースで在籍していたロミー木下氏と昨年末、一緒にライブをやらせてもらったこともあってこのニュースにはびっくりした。昨年の7月に紀尾井町ホールでコンサート後、心臓肥大で2ヶ月入院、今年の1月11日に都内でライブを行って13日自宅で家族に発見されたとのこと。合掌。
「本田竹広氏(ほんだ・たけひろ=ジャズピアニスト)13日午前、急性心不全のため東京都中野区若宮2の50の15の自宅で死去しているのが見つかった。60歳。岩手県出身。葬儀・告別式は19日午前10時から東京都杉並区梅里1の2の27、堀ノ内斎場で。喪主は長男政直(まさなお)氏。
国立音大在学中からジャズピアニストとして活動。73年渡辺貞夫カルテットに参加、78年にはフュージョングループ「ネイティブ・サン」を結成して幅広いジャンルで活躍した。95年と97年に2度にわたって脳内出血で倒れ、左半身まひとなったが、リハビリに励み、コンサートを開くなど音楽活動を続けた。」(四国新聞より)
今思えばネイティブ・サンは相当人気があってポピュラーなバンドで、CM出演やTVドラマのテーマソングまで手懸けていた。80年頃ベースで在籍していたロミー木下氏と昨年末、一緒にライブをやらせてもらったこともあってこのニュースにはびっくりした。昨年の7月に紀尾井町ホールでコンサート後、心臓肥大で2ヶ月入院、今年の1月11日に都内でライブを行って13日自宅で家族に発見されたとのこと。合掌。
作曲家の山下毅雄が無くなった。もう少し若い人かと思っていた。ここ10年の邦画・TVのサントラ・リシューブームや小西康晴がルパンのリミックスをてがけたりでずいぶん知名度が上がったとは思うけど、筒見京平と同じく顔を知る人は少ない。
「山下毅雄氏(やました・たけお=作曲家)21日、脳血栓のため死去、75歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。連絡先は東京都杉並区和田1の6の12の403、ロマンティック・テクノ・ミュージック。」(サンケイ新聞より)
「'62年『七人の刑事』の音楽を手掛け、ハミングと口笛で織りなす主題歌で刑事ドラマ音楽の雛形を築く。ビクターから離れた後は、テレビ・CM・舞台音楽の分野で活躍。
『ルパン三世』や『大岡越前』も人気作品だが、山下毅雄といえばやはり『プレイガール』。ラテンジャズの味わい濃厚なスキャット曲は、今も若者の心をとらえ、“ヤマタケ”なる愛称で親しまれている。
また、最近では、夏目雅子主演『虹子の冒険』のDVD化発売や、パチンコ・ゲーム機器で『スーパー・ジェッター』が取り上げられる等、その作品は常に話題の中心にある。」
買おうと思っていてまだ未入手の↓、みなさまもぜひ!
『ヤマタケ★デラックス』
企画・構成:山下 透&山下毅雄研究所
編集:駒形四郎、岸野雄一
寄稿:石坂浩二、大友良英、加藤剛、小西康陽、しりあがり寿、杉作J太郎
藤城清治、吉井和哉(イエローモンキー)、他。
発行:ブルース・インターアクションズ
ISBN4-938339-57-9C0073 / 2,520(税込)
「山下毅雄氏(やました・たけお=作曲家)21日、脳血栓のため死去、75歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。連絡先は東京都杉並区和田1の6の12の403、ロマンティック・テクノ・ミュージック。」(サンケイ新聞より)
「'62年『七人の刑事』の音楽を手掛け、ハミングと口笛で織りなす主題歌で刑事ドラマ音楽の雛形を築く。ビクターから離れた後は、テレビ・CM・舞台音楽の分野で活躍。
『ルパン三世』や『大岡越前』も人気作品だが、山下毅雄といえばやはり『プレイガール』。ラテンジャズの味わい濃厚なスキャット曲は、今も若者の心をとらえ、“ヤマタケ”なる愛称で親しまれている。
また、最近では、夏目雅子主演『虹子の冒険』のDVD化発売や、パチンコ・ゲーム機器で『スーパー・ジェッター』が取り上げられる等、その作品は常に話題の中心にある。」
買おうと思っていてまだ未入手の↓、みなさまもぜひ!
『ヤマタケ★デラックス』
企画・構成:山下 透&山下毅雄研究所
編集:駒形四郎、岸野雄一
寄稿:石坂浩二、大友良英、加藤剛、小西康陽、しりあがり寿、杉作J太郎
藤城清治、吉井和哉(イエローモンキー)、他。
発行:ブルース・インターアクションズ
ISBN4-938339-57-9C0073 / 2,520(税込)
美術評論家の東野芳明が亡くなった。20歳前後の時、シュルレアリスム文学、美術が好きでよく彼の評論を読んだ。定期購読していた写真誌「アサヒカメラ」にもよく登場していた彼の写真評論もおもしろかった。1970年代のアサヒカメラはかなり盛り上がっていて、森山大道らのプロヴォーク派や電通をやめた直後の荒木経惟と篠山紀信の誌上論争など写真誌というより総合文化誌の気配でありました。
「東野芳明氏(とうの・よしあき=美術評論家、多摩美大名誉教授)19日午後0時15分、急性心不全などのため東京都杉並区の病院で死去、75歳。東京都出身。自宅は世田谷区奥沢8の3の9。葬儀・告別式は27日午前11時から、東京都府中市浅間町1の3、府中の森市民聖苑で。喪主は弟進(すすむ)氏。
東大文学部卒。54年、「美術批評」誌の第1回美術評論新人賞を受賞し、評論家としてデビューした。マルセル・デュシャン、ジャクソン・ポロック、ジャスパー・ジョーンズら、米国発の現代美術を積極的に日本に紹介。ベネチア・ビエンナーレなどの国際展でコミッショナーを務め、日本の現代美術の海外紹介にも尽くした。著書に「ジャスパー・ジョーンズ」など。」(四国新聞より)
「東野芳明氏(とうの・よしあき=美術評論家、多摩美大名誉教授)19日午後0時15分、急性心不全などのため東京都杉並区の病院で死去、75歳。東京都出身。自宅は世田谷区奥沢8の3の9。葬儀・告別式は27日午前11時から、東京都府中市浅間町1の3、府中の森市民聖苑で。喪主は弟進(すすむ)氏。
東大文学部卒。54年、「美術批評」誌の第1回美術評論新人賞を受賞し、評論家としてデビューした。マルセル・デュシャン、ジャクソン・ポロック、ジャスパー・ジョーンズら、米国発の現代美術を積極的に日本に紹介。ベネチア・ビエンナーレなどの国際展でコミッショナーを務め、日本の現代美術の海外紹介にも尽くした。著書に「ジャスパー・ジョーンズ」など。」(四国新聞より)
また、一人プロレスラーが急死した。
「 WWEスマックダウンの人気スター、エディ・ゲレロさん(38)が13日(日本時間14日)午前7時ごろ、米ミネアポリスのホテルの自室で急死した。おいのチャボ・ゲレロがドアをノックしたが返事がなく、ホテル従業員と中に入り、確認した。エディさんはバスルームで歯ブラシをくわえたまま倒れていたという。ホテルには13日に行われる大会のため、12日から滞在していた。」(日刊スポーツより)
僕にとっては兄のチャボ・ゲレロの方が身近ではあったがエディはWWEという新たな場で活躍していた。最近の新日本のドタバタを見ていると、どんどんプロレスに興味を失っていってしまう。結局、日本のプロレスは力道山-馬場正平-猪木寛至、という三人ではじまり終わるのか。
◆エディ・ゲレロ 1967年10月9日、米テキサス州エルパソ生まれ。90年に死去した大レスラー、ゴリー・ゲレロの四男で、チャボ、アーマンド、ヘクターの兄3人もレスラーというプロレス一家で育った。87年にマスクマンとしてメキシコでデビュー。94年にECWで米進出。WCWを経て00年にWWF(現WWE)に移籍した。04年2月15日にはブロック・レスナーを破り、WWE世界王座を奪取した。172センチ、100キロ。
「 WWEスマックダウンの人気スター、エディ・ゲレロさん(38)が13日(日本時間14日)午前7時ごろ、米ミネアポリスのホテルの自室で急死した。おいのチャボ・ゲレロがドアをノックしたが返事がなく、ホテル従業員と中に入り、確認した。エディさんはバスルームで歯ブラシをくわえたまま倒れていたという。ホテルには13日に行われる大会のため、12日から滞在していた。」(日刊スポーツより)
僕にとっては兄のチャボ・ゲレロの方が身近ではあったがエディはWWEという新たな場で活躍していた。最近の新日本のドタバタを見ていると、どんどんプロレスに興味を失っていってしまう。結局、日本のプロレスは力道山-馬場正平-猪木寛至、という三人ではじまり終わるのか。
◆エディ・ゲレロ 1967年10月9日、米テキサス州エルパソ生まれ。90年に死去した大レスラー、ゴリー・ゲレロの四男で、チャボ、アーマンド、ヘクターの兄3人もレスラーというプロレス一家で育った。87年にマスクマンとしてメキシコでデビュー。94年にECWで米進出。WCWを経て00年にWWF(現WWE)に移籍した。04年2月15日にはブロック・レスナーを破り、WWE世界王座を奪取した。172センチ、100キロ。