猟盤の日々改めDEADMAN IS ALIVE!

ヴィニル・ジャンキーの猟盤話から死んだ人の話を経て、呑み屋の話になったり、ギターの話になったり。。。

グレート草津 66歳 R.I.P

2008-06-23 | 訃報
不滅の国際プロレス DVD BOX

ポニーキャニオン

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国際プロレスなどで活躍した往年の名レスラーで、がんと闘病中だったグレート草津さん(本名草津正武=くさつ・まさたけ)が21日午後1時5分、入院先の静岡県内の病院で死去した。66歳だった。草津さんは昨年5月に食道がんで入院。肺や肝臓などに転移し療養していた。通夜は23日午後7時から、葬儀・告別式は24日午前11時から、ともに静岡県駿東郡長泉町下土狩71の11、セレモニーホールみしま平安会館で。喪主は妻智子(ともこ)さん。」(日刊スポーツ)

ルー・テーズとのTVデビュー戦のバックドロップにより失神事件、おぼろげに覚えているけどいまだシナリオかセメントが真相は謎。国際プロレスではサンダー杉山のが好き。彼は62歳で没、1964年東京五輪のレスリング代表だった。

会社名 株式会社VITA
氏名 草津 賢治
生年月日 1976年7月15日

最後は↑の会社の社長、サイト内で人生相談コーナーあり、その前は健康食品会社の営業部長だったはず。健康食品売ってもガンで死んでは。。。。。
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森山大道~坂田栄一郎~富士屋~莢

2008-06-20 | その他
恵比寿の東京都写真美術館で森山大道展。館外には植田正治の大きな写真。


丸ビルのソトコトのイベントに行ったら一階で坂田栄一郎展。


ブレ・アレ・ボケとは無縁の世界、ビヨーク、ジョディ、健。


ソトコト「ロハス・デザイン・アウォード」後のレセプション、シャンパン。


福岡伸一先生、また薄暗い六本木のロックバー行きたそう。


森山大道展のポスターが貼ってある渋谷のたちのみや、富士屋本店の鰯フライ。


渋谷のんべい横丁、莢のソウ君とイタリアのまつやに味ワイン、レッジーナ。


ということで今回は写真ブログ、RICOH GR DIGITALをモノクロ、IS0800で撮影。
でも傾けてとりゃいいってもんじゃないのに気がつく。反省。

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1966年、レッドライン7000、AUTOSPORTS、スロットレーシング

2008-06-17 | 映画
1966年は日本のモータースポーツにおいて、また僕にとっても思い出深い年だ。第三回日本グランプリレースは出来たばかりの富士スピードウェイで5/3に開催、瀧進太郎(後に11PMのカバーガールでオルガンを弾いていた高橋レナと結婚)のポルシェカレラ6とプリンスワークスのR380との戦いであった。それは翌年、伝説の「TNTの戦い」トヨタ・日産・タキレーシングとつながり、まるでプロレスのような遺恨ストーリーとなっていく。F-1ではロータスを操るジム・クラークが全盛、アメリカではCAM-NAMレースが大人気で日本でもTV放送していた。
←高橋レナのハモンド炸裂のGSカバーレコード、未入手
その年雑誌「AUTOSPORTS」創刊(上右の画像はヤフオクに出品されていた1966年6月号)当時はゴング、CG、模型とラジオを定期購読していた。その前年から日本はスロット・レーシングブームが始まり各地にレーシング場ができた。僕はいちはやくキットを買い、走らせた。コグレ模型のコルベット・スティングレイ(“スパイキャッチャー J3”<'65年10月から'66年3月まで放送されたスパイアクションTVドラマ>の主人公J3、壇 俊介(川津祐介)の愛車)に始まり、ニチモのポルシェF-1、田宮模型のジャガーDタイプと続き、マブチモーターのコイル巻き直し、ボールベアリング軸受への改造、タイヤの整形、果ては真鍮パイプによる自製シャーシに行き着いたのだった。

そんな1966年に公開されたのがアメリカのストックカーレースをテーマにしたこのB級映画「レッドライン7000」だ。監督は「リオ・ブラボー」などで有名なハワード・ホークス、主演はジェームズ・カーンで確か吉祥寺の映画館で見た記憶がある。レースシーンも迫力なのだが映画の中でレーサー達がスロット・レーシングで遊ぶシーンがあった。この映画、低予算なのでやたらタイアップ(プレイスメント)が多いのだがアメリカのプラモデルメーカー、レベル社が提供していたらしい。もう一度観たくてビデオかDVD探しているんだけどいまだ発掘できず、スロット・レーシングもやりたい!誰かレーシング場のあるバーでも作って。
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関 光徳 66歳 R.I.P

2008-06-09 | 訃報
「プロボクシング横浜光ジム会長の関光徳氏が6日午前10時52分、くも膜下出血のため、横浜市鶴見区の病院で死去した。66歳。通夜は10日午後6時、告別式は11日午後0時30分から、ともに東京都港区芝公園4の7の35の増上寺で。喪主は妻クニさん。連絡先は横浜市鶴見区佃野町29の38三晃ビル3階の同ジム。関氏は現役時代、強打のサウスポーとして人気を博した。世界王座に5度挑戦するなど、ファイティング原田氏らとともに黄金時代を支えた。引退後はジム会長として手腕を発揮し、元世界2階級王者の畑山隆則、現WBA世界ミニマム級王者新井田豊を育てた。」 [nikkansports.comより]

1960年代半ばは日本ボクシング界のピークだったような気がする。毎日のようにテレビでボクシング中継があり、世界タイトル戦の視聴率は30%を越えた。プロレスもボクシングも好きだった僕は「ゴング」を毎月兄と熟読していた。当時は前半がボクシング、後半がプロレスの記事で、兄も僕も全日本の各クラスのチャンピオンは名前もスタイルもすべて把握していた。前に触れたフライ級三羽烏とともに人気があったのがそのパンチの切れ味から名刀「正宗」「村正」とも呼ばれた関光徳だったのだ。

彼の最大のチャンスは1967年の界フェザー級タイトルマッチ、ビセンテ・サルジバル(メキシコ)との再戦だったのだが7RTKOで負けた。結局世界チャンピオンに5度挑戦しながら1度も世界タイトル獲ることはなかった不運のボクサーだ。写真はたまたまヤフオクに出品されていた「プロレス&ボクシング」の1967年3月号の表紙。「7ラウンドに散った関の野望」とあり、プロレスの巻頭記事は「打倒!馬場に殴りこむ人間発電所ブルーノ・サンマルチノ」。

関光徳 生涯成績:74戦62勝(35KO)11敗1分(6EX)、合掌。

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ボ・ディドリー 79歳、イヴ・サンローラン 71歳、ウガンダ・トラ 55歳 R.I.P

2008-06-03 | 訃報
THE BEST 1000 ボ・ディドリー
ボ・ディドリー
ユニバーサル インターナショナル

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合掌。長沼健77歳、内田 勝73歳にも。ちょっと前だけどロバート・ラウシェンバーグ82歳、塚田茂82歳 ロバート・モンダビ94歳。
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