猟盤の日々改めDEADMAN IS ALIVE!

ヴィニル・ジャンキーの猟盤話から死んだ人の話を経て、呑み屋の話になったり、ギターの話になったり。。。

酒について、または二日酔いについて

2008-09-26 | 本・雑誌
酒について (1976年)
キングズレー・エイミス
講談社

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イギリスの「怒れる若者たち」の一人、作家キングスレー・エイミスが書いて吉行淳之介が訳した本だ。この本で英国ではボルドーの赤を「クラレット」と呼ぶこと、外国はホームパーティーが多く、いかに客に高い酒をたくさん呑まれないよう苦労していることを知った。

また、二日酔を「形而下的あるいは肉体的二日酔」と「形而上的あるいは精神的二日酔」とに分類した。前者は所謂二日酔だが、後者は罪の意識と恥の意識が際立ち精神的にもひどい自己嫌悪に陥る場合を指す。当時僕はよく実感できなかったのだがその後徐々に体験するようになった。頭痛や吐き気などとは別に前夜の曖昧な記憶、酒場での浪費、不毛な議論等々が甦り、厭世的な気分の精神的二日酔である。その解決法をいくつか提示している。そのうちのいくつかを紹介しよう。

まずは肉体的二日酔の解決法。
「目が覚めたらすぐに、こんなにひどい気分になっていることはまったく幸運だ、と自分に言いきかせはじめること。これはジョージ・ゲールの逆説として知られるものであって、したたかに飲んだ夜が過ぎた後でひどい気分でないとしたら、それは君がまだ酔っぱらっているので、目が覚めている状態のまま酔いが醒めていって二日酔がはじまるのを待たなければならない、という真理にこれから気が付くことになる。

もし君の細君あるいはほかのパートナーが君の傍にいる場合は、そして(もちろん)厭がらない場合にかぎり、できる限り猛烈に性的行為を行うこと。この運動は君によい効果があり―君がセックスを好むと仮定しての話だが―情緒的にも高揚を感じることができて、君の形而上的二日酔(以下―形・酔)にたいして正面から戦いを挑む前にヒット・エンド・ラン風の奇襲を加えることができる。」

形而上的・精神的二日酔には以下の対処が有効とある。
「なんとも言いようのない、沈んだ気分と、悲しさと(この2つは、同じものではない)、不安と、自己嫌悪と、挫折感と、未来への恐れの混り合った感情がしのび寄りはじめたとき、いま襲われているのは二日酔なんだと、自分に言い聞かせはじめること。

いま自分は病気になりかけているわけでは全くないし、自分は脳に小さな傷を受けたりしたことはないし、自分は仕事だってなにもそんなに駄目ではないし、家族や友人どもが共謀して自分が人間の屑だということを聞こえよがしのようにさえおもえる沈黙で仄めかしていることもないし、自分もとうとう人生がどんなものかというその姿が目に映るようになってしまった、ということもないし、それに済んだことをくよくよしても仕方がないことだ、と。

もしこれで効果があれば、君が自分を納得させることができれば、もうこれ以上のことをする必要はない。そのあたりの事情を規定するのが、つぎに掲げるきわめて哲学的な、《自分は二日酔をしていると心から信じられれば、もう二日酔ではない。》」
 この提言には訳者吉行淳之介の脚注が次のように付されていて解かりやすい。「いま自分は二日酔をしていると、自分で感じることができるようになれば、酒の酔による妄想にたいして理性が勝ちを占めたわけだから、それはもう二日酔とはいえない」と。 
バー・ラジオのカクテルブック (1982年)
尾崎 浩司,榎木 富士夫
柴田書店

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1980年頃は原宿のはずれにあった「カルデサック」というバーによく行った。アルテックのホーンスピーカーでよくBRIAN ENOの「Music For Airport」が流れていて、その店で色々な人と呑んだ。チャーリー中田に鈴木慶一氏、佐藤奈々子嬢を紹介してもらい、松山猛氏とはライカ・カメラの話で盛り上がり、びっくりハウスの高橋章子編集長と痛飲したこともある。その地下にあったのがバー・ラジオ、値段が高いのでいつもギムレットを二杯までしか呑めなかった。オーナー・マスターの元新宿DUGの尾崎さんが出版したのがこの本。下の画像は当時のバーラジオ、天井の照明が素敵だった。

最後に、故伊丹十三は「女たちよ!」の中で二日酔をこのように表現している。
「コメカミにあいた小さな穴から、頭蓋に詰まっていた物凄く酒臭い干瓢みたいなものを ずるずると引きずり出し、全部すっかり出してしまったあと、その穴から中へ氷水を注いで、の中をよくすすぐと、二日酔いがさっぱりとして気持ちいいだろうに」
この話は後日、彼によって短編映画となりTV番組「11PM」で公開された。

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伊丹十三という人

2008-09-11 | 本・雑誌
伊丹十三が1965年に出版した「ヨーロッパ退屈日記」ほど影響を受けた本はないかもしれない。彼の『北京の55日』(1963年)、『ロード・ジム』(1965年)の二本のハリウッド映画のロケなどでの欧州長期滞在中に感じたことのエッセイである。

僕はこの本を1972年頃、渋谷の宮益坂の途中の古本屋で買った記憶がある。ガラス木戸の古い店で、ときおり植草甚一を見かけた。近くには博多ラーメン「きんしゃい」、「ふぐ富」、フォーク喫茶「青い森」、裏通りに在ったシャンソン・ラウンジ、絨毯バー「深海魚」、桜鍋屋「はち賀」、輸入レコード屋「HONKY TONK」、安くて汚い練習スタジオ「斉藤楽器」「三浦ピアノ」、みんな無くなったけど「小川はかり店」と「志賀昆虫」、「理容室マルセル」は健在だ。

マルセルのオーナーW氏は高校の同級生、中学時代から天才ジャズピアニストと云われて、当時から渋谷の東急プラザ裏にあったジャズクラブ「オスカー」に出演していた。彼のコネクションで高校の非公式卒業パーティーを200人ぐらい集めて貸切で決行したことがあった。ダンスバンドは僕が寄せ集めたバンドで「GET READY」「ROCK'N ROll HOOCHIE KOO」、「I SHOT THE SHERIFF」などめちゃくちゃな選曲だった。 W氏はその後、ピアノを止めて理容室のオーナーを継いだ。

ヨーロッパ退屈日記 (文春文庫 131-3)
伊丹 十三
文藝春秋

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ノブレス・オブリージュ、sense of humorという言い方、アルデンテ、アーティー・チョーク、ジャギュアの発音、ミモザというカクテル、ペタンクという遊び、ムービーカメラ・アリフレックス等々、すべて本書から教わった。僕は初めて行く外国をUS West CoastではなくParis、Londonを選び、FOXの傘、DUNHILLのパイプ煙草を買ったり、夜のピガールを彷徨いカフェの立ち飲みでアブサンを呑んだりしながら本書を辿ったのかもしれない。
なぜか下の1971年発売のレコードがCD化されていた。内容は伊丹が本書と「女たちよ」に書いてあるようなことをテーマにした女性との会話とあいまに大野雄二アレンジのカンツォーネが挟まるというもの。

1.第1章 スパゲッティは「炒めうどん」ではない 「セレナータ・カプリ」(Serenata Caprese)
2.第2章 スパゲッティの正しい作り方 食べ方は 「恋の病」(Malatia)
3.第3章 牛肉は「うま?」というおかしな話 「糸」(Un Filo) 
4.第4章 目玉焼きの食べ方 「そっと、そっと、そっと」(Zitto Zitto Zitto)
5.第5章 スパゲッティ・ソースの作り方 「ジプシー娘」 (Zimgrella)
6.第6章 イタリア料理は家庭の味 「いつまでも」 (Itsumademo)

 
みんなでカンツォーネを聴きながらスパゲッティを食べよう

ウルトラ・ヴァイヴ

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1997年12月20日に彼は自殺するのだが、真相はわからないし知りたくもない。
山口瞳は当時の単行本の帯の推薦文をこう締めくくっている。
「私は、この本が中学生・高校生に読まれることを希望する。
汚れてしまった大人たちではもう遅いのである」。
十代でこの本に出会った僕は幸せ者だ。
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高橋靖子「表参道のヤッコさん」を読んだ

2008-07-09 | 本・雑誌
表参道のヤッコさん
高橋 靖子
アスペクト

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「popeyeの時代」を読んで以来、70年代アーカイブづいているんだけど、今度はこの高橋靖子さんの本、1970年代の青山・原宿の関しては写真・文ともどもこの本がいちばんすごい。忘れていた店、知らなかったこと満載である。冒頭いきなりT-REXのマーク・ボランとミッキー・フィンの間にいるYACCOのスチル写真(鋤田正義撮影)の後「イエイエ」のCM現場である。レナウンの「イエイエ」のCMはNET(今のANB)の日曜洋画劇場で毎週60秒CMが流れていた。曲は小林亜星、歌は朱里エイコ、今でも時々DJで回すグルーブ歌謡の名曲なんだけど惜しいことにアナログは存在しないらしい(下のコンピCDに収録)。それから原宿セントラルアパートの日本初のブティック「マドモアゼル・ノンノン」、荒牧太郎さんまだ元気です。マガジンハウス椎根さんもロンドンでやたら登場!というわけでしばらくはこの本を順に追っかけていくことにしよう。

昭和元禄トーキョーガレージ JAPANESE ROCKIN’PSYCHE&PUNK’65~’71*キング編~レッツゴー・ジャンジャン!

キング

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椎根和『popeye物語』を読み始めた

2008-07-01 | 本・雑誌
popeye物語―1976~1981
椎根 和
新潮社

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マガジンハウスのM氏から「前半はおもしろいよ」と薦められていたこの本、ようやく読み始めた。同じ会社にいたのに知らないことがたくさん書かれてるとM氏は言っていたのだが、とにかく面白い。登場する人も会ったことがある人も多く、ほとんど実名である。まだ半分ぐらい、読み終わったら続きを書きます。ポパイ絡みの他の本も読みたくなってきたぞ!

証言構成『ポパイ』の時代―ある雑誌の奇妙な航海
赤田 祐一
太田出版

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雲のごとくリアルに 長い距離を旅して遠くまで行ってきたある編集者のオデッセイ 青雲編 (P-Vine BOOks)
北山耕平
ブルース・インターアクションズ

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ポパイの創刊は1976年6月25日、その夏僕は大学のサークルで千葉の海岸で一ヶ月余り開いていたカフェ(それは十数年続けられているものだった)に二週間ほどいた。その店のBGM担当だった僕はレコード会社を回ってもらった膨大な量のサンプル・レコードから好きなものをターンテーブルにのせていた。村八分のライブ盤もあったけどヘビロテだったのは愛奴/二人の夏、シュガーベイブ/今日はなんだか、石川セリ/ふわふわワウワウというところだった。


平凡出版(後のマガジンハウス)からは大量のポパイ創刊記念ブックマッチをもらって店のマッチ代わりにした。今、手元にあるシュガーベイブの「SONGS」というアルバムはその時のエレックのサンプル盤だ。1969年のアンアン創刊からずっと読み続けていた僕には待望の創刊だった。それから数年僕はこの雑誌を読み続けた。(上の画像は創刊号の表紙、月刊の時はサイズがやや縦長だった)

「popeyeの時代」に意外なことが書かれている。創刊号の編集スタッフはその前に読売新聞社から「Made in U.S.A.」というムックを二冊出すのだが(今それはヤフオクで数万近くする)、それはCIAの工作員だったらしい正力松太郎が反米から親米に日本の若者を操作するために利用されたという文だ。その後のポパイを見てもアメリカという国のイメージアップに貢献したのは事実である。
日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」
有馬 哲夫
新潮社

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34年ぶりの坂口安吾評論全集

2008-01-30 | 本・雑誌
充血鬼マラキュラの時に触れた冬樹社の坂口安吾評論全集を思い出してしまったらつい再入手したくなりamazonやヤフオクで探してみた。1971年から1973年頃にかけて再刊行されたこの全集には文庫や他の全集には未収録のものも多く、文庫本は全部読み終わっていたので待望のものだったのだ。

坂口安吾評論全集〈1〉文学思想篇 (1972年)
坂口安吾評論全集〈2〉文学思想篇 (1972年)
坂口安吾評論全集〈3〉社会風俗篇 (1972年)
坂口安吾評論全集〈4〉歴史紀行篇 (1971年)

の4冊同じ古書店で送料込4831円。到着した開封時の写真が
上記のもの。装丁懐かしい!

この全集は高校の時の三日間停学に結びついている。
ちょうど二年生の文化祭の前、三つぐらいのバンドを掛け持ちでやっていた(といえば聞こえはいいがセッションみたいなのもあった)。ギターは1971年グレコSG300モデルで当時30000円、ギブソン・コピーなのにデタッチャブル・ネックという不思議なもの。高校入学してバイトと昼飯抜いて貯金、高校一年の夏の終わりについに購入した初めてのエレクトリック・ギターだった。(下の写真右は同型のもの、右は1971年のグレコのカタログ)
 
一年下のバンドにその後プリズムを結成する天才ギタリスト和田アキラ氏がいたのだが、彼から60年代のフェンダー・プロリバーブという中古のギターアンプを2万ぐらいで(!黒パネル、38cmスピーカー一発、高音は出ないけど太くていい音だった。その後アキラが買い戻した)買うこととなり、授業の始まる前の高校の正門前で受け渡しする予定であった。ところが何時になってもアキラが現れず授業が始まってしまった。

その時倫理・社会の教師Kが教員室から出て来た。僕のシャツのポケットにショートピースが1箱入っていたのを発見されてそのまま教員室へ。Kは本一冊しか持っていない僕に教科書はどうしたのかと訊き、僕は教室に置いてあると答えた。持っている本は何だと言うので「坂口安吾の評論全集です」と答えると「僕も読もうと思っていたんだ」としばし安吾話で盛り上がりお咎めなしかと思いつつ、ほっとして教室に戻った。

次の日学校から家に帰ると母親がその日学校に呼ばれたという。
三日間停学の処分だった。というわけで坂口安吾と停学は僕の中で通底しているのだ。
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34年ぶりの充血鬼マラキュラ

2007-12-05 | 本・雑誌
1973年発行の唐十郎責任編集「季刊ドラキュラ」というA5版雑誌の創刊号を34年ぶりにネットで1000円にて購入。創刊号といってもその後、発行された形跡はない。

「アルチュール・乱暴氏は17歳まで海を見たことがないのに、『酔いどれ船』を書いた。あそこに現れる壮大な海洋は即視の海である。(中略)さて、私・唐十郎は、城に住んだこともないのに、ドラキュラ伯爵のマントを羽おった。たかだか、ガラスで指を切ったほどの血しか吸ったことがないのに、夜の巷を急ぎ往く善男善女ののどに糸切り歯をたてる夢想に、今、浸っている。いささか色あせたドラキュラ伯爵のマントは静脈と動脈で縫い合わされており、これが風に羽ばたくと、アジアの魔都・東京はまさに新しき中世に見えてくる。(後略)」

と冒頭にあり、内容といえば唐十郎×沼正三の対談、
天沢退二郎吉増剛造若松孝二らがドラキュラをテーマに様々な文を寄せているものだ。当時気にいっていたのが赤瀬川源平の連載漫画「充血鬼マラキュラ」の予告篇、「愈々本誌次号に登場!」とあるのだが次号は残念ながら永遠に発行されなかった。「夜になると歯グキが充血して隆起、二本のマラ状となって口唇の外に突出し、ハケグチを求めて夜の街をさまよう。」といったキャラクターで「GNPの大東京を恐怖のドン底に叩き込む」はずだったのだが。

よくある話で当時のガールフレンドにこの雑誌と冬樹社「坂口安吾評論全集」を貸したままで別れてしまい、どうしても、もう一度読みたかったのだが、34年ぶりに片方だけ入手できたわけだ。表4広告は当時の怪しいエロ雑誌でおなじみの東洋時計の通販広告、驚異の価格1600円より、とあり。

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ハッピー・エンディングって

2007-08-24 | 本・雑誌
新聞は一番先に訃報を読むものだ、と昔ある人が書いていたが最近になってやっとその意味が判ってきた。「はつぴいえんど」という名前のバンドが昔あったが、そのネーミング、正に慧眼である。センスのいい名前のバンドは音も素敵なことが多いと思う。

先日、以前に仕事をしたことがある元某自動車会社宣伝部の若尾裕之さんからメールが来た。本を出版したので読んでほしいとのこと。「ハッピーなお葬式がしたい!」という本だったのだが、あまり期待せずに読み始めると、これがなかなか面白い。amazonの僕のレビューを転載しておくで興味のある方はぜひ。

「書店で見かけた時は葬式のHow Toモノかと思ったのですが
読んでみるとなかなか哲学的なエッセイであることがだんだん分かってきます。

僕自身がこの三年間で両親の葬式を二回、僕より若い同じ会社の社員の
葬式が二回、異なる葬儀業者との打合せも何回も経験したため
この本はもちろん実務的な部分で参考になります。

しかし著者がいいたいのはもっと別の部分にあるのではないかと
思います。あとがきにもあるようにこの本を書くきっかけは著者が生存率2割の
病気にかかったことです。

それまで他人事だったことが突然、自分にふりかかってくる恐怖は
想像できないほどの事だったと思います。
そのきっかけがこの本に哲学的な側面を持たしているような気がします。

「人間、いつかは死にます」
「葬儀をしない選択」
「夫と同じ墓に入りたくない女性たち」
「モノより思い出」
「大いに泣くことが大事です」
「一ヶ月後に死ぬことがわかっていたら?」

役に立つ実務的な話の間には上記のようなタイトルの著者の主観が入った文が
挿入されていて興味深い内容となっています。

それにしても著者の博識には感心しました。
葬式と告別式の違いからセカチュー、釈迦の六波羅蜜から白洲次郎
死後の世界、子供と死の問題まで話は及びます。

これほどの内容の本なのですが、装丁・本文のデザインで単なる葬式How To本としてみられてしまうかもしれません。もう少し違う装丁デザインができると、より差別化ができたのではないかと思います。

ところでこの三年の葬儀を行う側、列席する側ともずいぶん多かったのですが
あることを始めました。
それは自分の葬儀用のコンピレーションCDの選曲です。
60分ぐらいにまとめて、葬儀のBGMと列席していただいた方へのお礼として
CDを進呈するのです。

僕のipodにはそれ以来「Funeral」というファイルができて
日々さまざまな曲が候補として収納されています。
曲リストをみながらこれは違う、こっちのがいいと悩むのもハッピーエンディングに
向けた楽しみのひとつとなったのでした。」
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