gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

力の国家、知恵の国家・・人は国家に翻弄される?

2015-06-22 16:53:57 | 日記
A.緊張した国家の危険
 昨日のニュースで、日本の岸田外相と韓国の尹炳世外相が都内で会談し、関係改善へ努力することで一致した、とあった。韓国が異を唱えてきた「明治日本の 産業革命遺産」の世界遺産登録について、韓国が推薦する「百済歴史遺跡地区」とともに両国が双方の登録に向けた協力で合意。中国を含めた3カ国の首脳会談を年内の早い時期に開くことを申し合わせたという。
 慰安婦問題を中心とする歴史問題をめぐる朴大統領と安倍首相の険悪な関係が続き、冷え込んでいた日韓関係は双方にとって外交上のマイナスであることは解っていたのに、ここまで長引いていたのは両国のメディアや世論が、感情的な批難を増幅していたことが大きい。両国外務省もさすがになんとかしなければ、と工作をしたのだろう。
 外相会談では、安倍晋三首相と朴槿恵大統領が国交正常化した基本条約の調印から50年の節目を迎える22日に両国の大使館が開く記念行事に相互に出席することを確認した。日韓外相会談は3月にソウルで開いた日中韓外相会談に併せて実施して以来。尹氏の来日は2013年2月の就任後初めてで、韓国外相としては約4年ぶり。日韓両政府は国交正常化50年の節目を利用し、関係改善を目指す姿勢を明確にした。しかし、これで後はうまくいく、という状況には遠い。右翼的言論はさっそく竹島問題をもちだして、反韓反日宣伝を繰り返している。

「国家と国家が緊張関係にあるとき、おろかしい物理作用がくりかえされる。
 人類にそなわった人間的な知恵は、ここではほとんど役に立たない。
 それぞれの民族がながい歴史をかけて磨きあげた思想的な叡智も、人間に対する愛も、さらには理解も、国家がこの種の問題に直面したとき、真っ白に消されてしまう。
 代わってもたげてくるのは、未開時代、たがいに異文化をもつ部族間がくりかえしてきた争闘の原理というものである。
 それよりも次元が低いかもしれない。
 まだ未開時代には部族間の対峙や軋轢の場合、それなりに人間として相互に理解しあう気分があったのではないかと思える。
 「国家」という巨大な組織は、近代に近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識、次いで相手国に対する無用な先制攻撃、その反覆、さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理とその運動は、未開社会には存在しなかった。
 人類が、他への攻撃力に富んだ国家を持って以来の現象であり、ときにグロテスクの上をゆくものである。グロテスクならば、なお人間のレベルにあるかもしれない。近代国家の場合は、国家が人間によって運営されつつ、ときに人間としての精神を超えたものである以上、右の言葉はつかいがたい。
 やはり物理現象というべきものであろうか。
 物理現象のなかで、作用と反作用こそ、緊張した国家間でおこるもっとも始末のわるい力学運動である。
 フヴォストフ大尉の子供っぽい武力行使という「作用」が、日本側としては、当然、侵略とうけとられた。国内が騒然となり、元来、外国勢力の近海での諸運動に関しては、当然、できるだけ黙殺に近い方針をとってきた幕府でさえ、旧式の軍事体制と軍備ながら、過度なほどに北辺警備を厚くするようになった。つまりは、反作用であった。」司馬遼太郎『菜の花の沖』(五)文春文庫、2000. pp.326-327.

 この文章は司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の中にある。ここで語られているのは、直接には19世紀初頭のロシアと江戸幕府が、千島択捉島をめぐって緊張関係に陥った事態を指している。全六巻の小説のうち、主人公高田屋嘉兵衛の北海道開拓への歩みを語ったのち、作者は第五巻にいたって長々と帝政ロシアの極東進出の歴史を書き連ね、やがてクライマックスであるゴローニン事件と嘉兵衛のロシア抑留の段にさしかかる。やがて、日露関係は緊張を続けつつ明治の日露戦争、そしてソ連時代の戦争まで尾を引き、現在の北方領土問題にまで繋がっていく。
 国家とは厄介で暴力的な性格を持っており、それが隣国への憎悪や不信に陥るとき、政治家は威勢のいいことを言うのではなく、彼我の力関係を慎重に考慮しつつ、冷静に対処することが必要だ、という司馬の言葉は今も生きる。



B.『科学の解釈学』を読む
 多少の事情もあって、これから野家啓一『科学の解釈学』講談社学術文庫版、2013,を読んでみる。まずは「あとがき」と「まえがき」の一部抜粋。

「本書『科学の解釈学』の元版は、一九九三年に新曜社から単行本として上梓された私の科学哲学を主題とする論文集である。その後、二〇〇七年に三篇の論文を増補した上で、ちくま学芸文庫(ちくま書房)の一冊として再刊された。したがって、今回の講談社学術文庫版は、三度目のお目見えということになる。初版刊行からちょうど二十年目に、このような形で装いを新たに未知の読者の前に本書を差し出すことができるのは、まことに著者冥利に尽きると言わねばならない。
(中略)
 前回のちくま学芸文庫版から今回の講談社学術文庫版の刊行にいたる数年の間に、科学と技術に関わる大きな出来事として、二〇一一年三月十一日の東日本大震災とそれに続く東京電力福島第一原子力発電所のレベル七に達する過酷事故が出来したことを特記しておかねばならない。この大震災では、仙台市若林区に住む私自身が、思いがけず「罹災証明書」を交付される被災者の一人となった。それと同時に科学論を専門としている哲学者の一人として、様々な学会や研究組織から大震災と原発事故をめぐる講演やシンポジウムの提題を依頼され、また新聞や雑誌などいくつかのメディアの求めに応じて自分の考えを述べる機会に恵まれた。これはそれを繰り返す場ではないが、興味のある読者のために、一点だけ拙論「3.11以後の科学技術と人間」(総合人間学会編『3.11を総合人間学から考える』学文社、二〇一三、所収)を参考までに挙げておきたい。
 その際に、私の考えを先導してくれたのは、「トランス・サイエンス(A・ワインバーグ)」および「リスク社会(U・ベック)」という二つの鍵概念であった。これらはいずれも、科学技術社会論(STS)や科学社会学の領域で中心的な役割を果たしている概念であり、直接に本書で展開されているテーマに繋がるものではない。しかし、大震災と原発事故を考察する際に、常に私の念頭を離れなかったのは「科学とはいかなる営みか」という根本的な問いであった。そして土壌の除染や汚染水処理などいまだに終結していない原発事故の後遺症は、私にこの問いを何度も反芻させたのである。その意味で、科学は孤立した知的営みではなく、歴史のただ中で展開される社会的実践だという本書の主張は、私の科学論の原点にほかならず、その考えは3.11以後もいささかも変わっていない。」野家啓一『科学の解釈学』講談社学術文庫版あとがき、2013,pp.463-465.

 野家氏は、哲学者として近代科学の哲学的課題を考え続けてきた人で、長く東北大学で教えてきた。ぼくは社会学の方法論というテーマを細々と考えてきたのだが、いろいろな問題を扱うたびに、野家氏の書かれたものに教えられることがあった。その立場がどういう場所から発しているかは、以下のまえがきに端的に示されている。

「吉田健一の『ヨオロッパの世紀末』(新潮社、1970年)の中に、十九世紀に猖獗を極めた「科学主義」の滑稽を揶揄する次のような一節が見える。

 ラフォルグの「わが月の聖母に倣って」を読んでゐる時に、いや、月はさういふものではなくて重量が幾らの物体で周期がかうでと説明するものがあるとあると仮定して見るといい。それは話にならないものであるが、十九世紀のヨオロッパでは科学が一般にそのやうに受け取られていゐた。その言ひ訳をするのは容易である。併しそれでもこの事態から我々が受ける印象は一口に俗悪といふことに尽きる。(九九頁)

 むろん、このような「科学主義」の見当違いは、一九世紀とともに終息したわけではない。量子力学と分子生物学によって新たな段階を画された二十世紀科学においても、極度に洗練されているとはいえ、そうした「俗悪」さは形を変えて生き延びている。例えば、人間の「自由意思」を量子力学的不確定性によって説明する物理学者や、生物界にみられる利他的行動を根拠に「遺伝子の道徳性」を論ずる社会生物学者などの中に、われわれはまさに二十世紀的な「俗悪」さの一端を嗅ぎつけることができる。
 事情は、科学そのものの存立基盤(レゾン・デートル)をトータルに問い質すべき科学哲学の分野においても変わるところはない。十九世紀的な科学の自己理解は、「科学的実在論」や「物理主義」という形で、現代英米圏の科学哲学の主潮流を覆っている。それは、科学のまぎれもない「成功」を盾にとった議論であるかぎり、きわめて大きな説得力をもつものと言えよう。しかし、科学の「成功」を脅しの手段として哲学的主張に箔をつけようというのであれば、それは一九世紀伝来の「科学主義」の手口と選ぶところはない。例えば、大脳生理学や神経学の知見を駆使しているとはいえ、意識状態と脳状態とを同一視する「科学的唯物論」ないしは「心脳同一説」は、「思考は大脳の分泌物である」と喝破した十九世紀の機械的唯物論者K・フォークトの主張と、その哲学的射程においていかほどの隔たりがあるというのであろうか。
 本書をゆるやかに貫いている通奏低音ともいうべきモティーフは、科学を御神体として後生大事に抱え込む哲学的傾向に見られるこうした「俗悪」さに対して反措定を提出することである。むろんそれは、現代科学の目覚ましい成果を否定することでもなければ、また無定見な「反科学」の旗を振りかざすことでもない。問題はあくまでも科学の「自己理解」の次元に関わるものであって、科学理論の「具体的内容」に関わるものではない。私が目指そうとしているのは、「究極の真理」として聖化された科学的知識を頂点とする「知のヒエラルヒー」を解体することであり、そうした位階秩序を支えている「客観性の神話」を非神話化することである。それは同時に、科学哲学を「科学の婢(はじため)」の地位から解放し、それに「科学的理性批判」という本来の哲学的課題を遂行させることにつながるであろう。
 歴史を振り返れば、十七世紀の「科学革命」とともに始まる科学的啓蒙の運動は、当初は旧来の「知のアンシャン・レジーム」に対する異議申し立ての運動として開始されたものであった(そのことは、デカルトの『方法序説』やパスカルの『真空論序言』の中に端的に見て取ることができる)。しかし、十九世紀半ばの「科学の制度化(=第二の科学革命)」を契機に、科学的啓蒙の運動は大きく変質する。つまり、科学研究の「職業化」と社会的認知とを通じて(ちなみに「科学者(scientist)」という言葉は一八四〇年代の造語である)、それはフーコー的な意味での「権力」となって社会体制の網の目の中に浸透し、やがては「科学主義」という翼賛的なイデオロギーへと転化したのである。それを「科学の神話化」と呼び換えるならば、啓蒙の野蛮への転化、あるいは啓蒙の自己崩壊という「啓蒙の弁証法」のテーゼは、この場合にもよく当てはまると言わねばならない。少なくとも科学的経者の運動は、この「啓蒙の弁証法」というアポリアを内に抱え込んだまま、二十世紀へと足を踏み入れたのである。」野家啓一『科学の解釈学』講談社学術文庫版、2013,pp.3-5.

 この本の論文はおもに1980年代から90年代に書かれたもので、フランクフルト学派の「啓蒙の弁証法」や、フランス現代思想などの影響が強いのは、書かれた時代を反映してもいると思われるが、「科学主義批判」というベースは一貫していると思う。これから少し、個々のテーマに触れて読んでいくことにする。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« この国の病に効く薬はあるのか? | トップ | 科学的思考は教えることがで... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事