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〈戦前の思考〉から 8  文学批判? 

2022-12-30 19:45:51 | 日記
A.戦争への道が再来するのか?
 歴史を振り返ってみると、満洲事変(旧字体: 滿洲事變)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍がポーツマス条約により大日本帝国に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領を経て、1932年3月満州国建国。1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る。中国側の呼称は九一八事変。関東軍は約6か月で満洲全土を占領した。それから、1937年の日中戦争(日本側のいう支那事変)にすすみ、太平洋の対米英戦開始の1941年12月真珠湾攻撃まで、ほぼ10年。日本軍国主義の膨張はとどまることを知らなかった。
 柄谷行人は、この『〈戦前〉の思考』のなかで、湾岸戦争が起きた1991年を、昭和史に反復させると、満州事変にあたるといっていた。つまり戦前の日本が本格的に対外侵略戦争をはじめた年である。それから10年で世界大戦に突入した歴史からすると、1991年の10年後は2001年。この年、アメリカは9.11同時多発テロが起き、米軍主導のアフガニスタン侵攻となるが、幸いにも、2001(平成13)年の日本は、森喜朗から小泉純一郎に首相が変わり、ブッシュ米大統領と会談したが、そこではまだ自衛隊を戦地のアフガンに送るようなことにはならなかった。憲法9条の抑止はかろうじて効いていた。

 「ぼくは前から明治=昭和の反復説を唱えていて、それで見ると、1991年は、満州事変の年にあたるのです。別に客観的根拠はないけど、不思議によく当たっている(『終焉をめぐって』福武書店、1990年)。あの年表を延長していくと、今世紀末には、中国をめぐって日米の深刻な対決が生じることになる。湾岸戦争はその発端だったということが、将来はっきりするでしょう。その意味で、今度の戦争における日本の選択は重要だと思うんです。たとえば、日米の対立は、今後避けられない。どんなに湾岸戦争でアメリカに協力しようが、それは避けられない。
 アメリカは、米をふくめて、市場自由化を要求しています。それに対しては、アメリカの要求に従うべきだと思います。一方、軍事的な要求は拒否すべきです。単純にいって、それは石橋湛山以来の「自由主義」あるいは「小日本主義」の原理に立つことです。ところが、日本の政府はちょうど反対のことをやっています。戦前の歴史を反復したくないなら、日本は今の段階で、その原理的選択を表明しておくべきだと思う。しかし、そうしない。このボタンの掛け違いは、今後において、尾を引くだろうと思います。
 ぼくが平和憲法のことをいうものだから、奇怪に思う人もいますけどね。しかし、最初にいったように、反戦・平和とかいっても、それが現実的にわれわれの選択の問題になったのははじめてなんです。日本の平和は、現実的には、アメリカの傘の下にあることであり、また「平和勢力」はソ連の傘に入ればよいと考えていただけです。ぼくがこの憲法の意味を考えるようになったのは、「歴史の終焉」という議論が出てきたときからですね。フランシス・フクヤマは、コジェーヴのヘーゲル読解を使って、ソ連の崩壊とアメリカの自由・民主主義の勝利において歴史が終焉したといったわけです。今度の湾岸戦争は、経済的利害によるだけでなく、やはり「理念」の問題だと思っています。1989年の事態は、アメリカにとって、西洋の自由と民主主義の勝利に終わる「歴史の終焉」だった。湾岸でやっていることは、その総仕上げといったものでしょう。
 しかし、ヘーゲルはどうにでも読めるのです。たとえば、コジェーヴ自身がたえず世界史の解釈を変えています。ところで、同じようにヘーゲルを使いながら、世界史が日本とアメリカの決戦となり、日本の勝利に終わるだろうという見通しをもっていた戦略家が日本にいました。関東軍の参謀で満州事変を計画した石原莞爾です。彼の予測では、1960年頃に日米戦争が起こるはずでした。しかし、戦争は彼が考えていたより早く起こり、しかも日本が負けた。石原は戦後に永久平和主義を唱えました。戦前に「世界最終戦争」を考えた彼のような人間には、次の戦争などということはもうありえなかったのです。
 日本は第二次大戦を「最終戦争」として経験した。事実、それはそれ以後「世界戦争」を不可能にするような核戦争でした。その上で、あの憲法の「戦争放棄」の条項がある。ぼくはヘーゲル主義的な言い方が嫌いなのですが、西洋人がヘーゲルを使って、西洋の理念による歴史の終焉をいうのなら、本当は、日本の戦後憲法にこそ「歴史の終焉」が実現されているといってもいいんです。戦争放棄という理念はカント以来の西洋の理念であり、しかも、彼らが日本の憲法にそれを書き込んでしまったのです。それがヘーゲルのいう「理性の狡知」です。
 ぼくは、これまで平和憲法を唱えていた人たちとは、違った経路からこの問題を考えるようになったわけです。ぼくの考えでは、左翼にとって、平和憲法は、別の「目的」(終り)のための手段だったと思います。今、左翼は黙ってしまった。自分の言行を支えてきたものが崩壊して、何もいえなくなった。「社会民主主義ならいい」とか、「人間の顔した社会主義ならいい」とか、いろいろ修正してもだめなんですよ。ソ連圏の崩壊というのは、その程度の修正で収まるような事態ではない、決定的な事態です。それを認めた人は黙るし、まだ認めない人は相変わらず修正している。しかし、そんなものが信用されないのは当然です。「終り(目的)の終り」ということから出立しないような思考はだめだと思う。
 江藤淳は、戦後文学、あるいは「戦後の言説空間」を、憲法との関係において見ようとしてきました。結論は反対ですが、ぼくはその見方に同意する。日本人は戦後憲法の問題を本気で考えたことはなかったと思うからです。しかし、戦後時間が経って、忘却されてきたのは、占領軍の隠された戦略的意図などではなく、日本人の「最終戦争」をやった経験ではないかと思うのです。それは、むしろ左翼にはなかった。彼らはすぐに別の「終り」に飛びついたからです。
 しかし、たとえば、折口信夫は、敗戦後「神は破れたり」と歌い、神道の世界宗教化を考えました。これは、ある意味で、ユダヤ教がバビロンの捕囚の経験のなかから出てきたのと似ている。ふつうの宗教では、神は戦争に負けたら捨てられる。ユダヤ教の独創は、信仰者を敗北させ不幸にあわせるような神を意味づけたことにあると思います。折口もそう考えたと思うのです。やはり、これは絶対的な戦争をやった経験からきている。折口を読む人も、こういうことは忘れています。また、橋川文三は、日本には超越神も超越性もないが、この戦争の体験がそれをもちうる契機たらしめられるのではないかと考えました。それは、この戦争が、彼らにとって、絶対的な最終戦争であったからです。
 そして、これは、多くの日本人にとってけっして克服されない精神的な外傷(トラウマ)となっています。しかし、それは当然であり、そこから癒える必要はありません。歴史において、最初から予定されたものはない。ヨーロッパでは、長い残酷な宗教戦争のあとで、「寛容」を承認した。どんな宗教でも「信仰の自由」など説かれてはいません。それを生みだしたのは、歴史的経験であり、その精神的外傷です。
 ぼくにかんして、戦後派の観念に戻ったのではないかという人たちがいます。しかし、ぼくは、むしろ「戦前」の意識、今後に来るであろう「戦争」の前に立っているという意識なんです。昭和のマルクス主義者は大正デモクラシーや自由主義を軽蔑しました。たしかに、そこには軽蔑すべきものがあります。しかし、1930年代において、転向したマルクス主義者の多くは自由主義にさえも踏みとどまらなかった。つまり、多くは国家主義に転向したのです。そして、戦後はまた民主主義者に転向しました。
 戦後民主主義は、ある意味で大正デモクラシーに似ています。それは大正デモクラシーが日露戦争の「戦後」の産物であるように、「戦後」の産物です。それは、一時的に国際的緊張からまぬかれたときに成立するものです。それは試されたものではない。試されるのはむしろこれからです。
 われわれが今「戦前」に立っているのだとすれば、それに対して何ができるのかが問われているはずです。戦後民主主義を軽蔑しそれを乗り超えるという連中は、まだ「戦後」の意識のなかにとどまっていたいんでしょう。ぼくには、「戦後」の意識はまったくありません。ぼくの書いたもの、たとえば「批評とポストモダン」を見ればわかりますが、大体1984年ぐらいから「戦前」の意識をもっており、だからまた戦前、つまり1930年代の問題をずっと考えてきたのです。

 ――「文學界」新年号に、「ナショナリズムとしての文学」(本書の「帝国とネーション」)を書かれたが、あれは、湾岸戦争を意識しておられたわけでしょうか。
 あれは昨年アメリカの大学でやった講演で、たしかに湾岸危機を意識していました。しかし、はじめにいったように、それが戦争になるとは思いませんでした。それ以前から、ソ連や中欧、あるいは世界各地で、ナショナリズムの問題が露呈していますし、もう一つ、ヨーロッパ共同体のように近代のネーションの枠を超えようとする動きがある。そして、それらは別々のものではない。つまり、ボーダーレスといわれる世界資本主義の運動が、従来の国家の枠とは別のネーションを生み出しているわけです。この現象を、旧来の言語で考えると理解できない。民主主義・民族主義・帝国主義・ファシズムなどといった概念を、根本的に考え直さないといけないと思ったのです。ただし、それは遠い過去に遡ることではなくて、むしろ身近な過去に遡ることです。
 ふつうナショナリズムというと、血と大地、あるいは言葉というものがいわれる。しかし、ネーションとは近代に作られた「想像の共同体」(アンダーソン)なのであり、ただそこにおいて地と大地というような実体化、あるいは古代への遡及がなされるようになっただけです。ネーション=ステートは、はじめヨーロッパ帝国のなかで形成されたわけですが、これもあまり古く遡って考えてはいけないと思います。特に1870年前後に形成されたといったほうがよい。普仏戦争におけるプロシャの勝利がそれを代表していると思う。それまでは、イギリスやフランスには国家があったけれども、ネーションという意識はなかったのです。18世紀のアダム・スミスだって、ネーションあるいは国民経済のことを考えていません。また、フランスにナショナリズムが出てくるのは、1870年以後、つまり、プロシャにやられてからです。
 ついでにいうと、1871年にパリ・コミューンがありましたが、これで、アナーキスト的なインターナショナリズムは終わるんです。あとは、ドイツ社会民主党のような、国家資本主義と対応するような社会主義が支配するようになります。ニーチェが『反時代的考察』で、ドイツや「社会主義」、あるいは反ユダヤ主義を批判した「時代」とは、そういうものです。彼は、自分のことを「ドイツ人」ではなく「ヨーロッパ人」と呼んでいました。
 こういう世界史的文脈に、アメリカの南北戦争も、日本の明治維新あるいは西南戦争もふくまれるんですね。このネーション=ステートは、資本主義がプロシャ型の国家資本主義に転化したことと結びついています。それらは、まもなく帝国主義に転化します。そして、この帝国主義が、非西洋の旧帝国のなかに、反作用としてナショナリズムを生み、ネーション=ステートを構成していくわけです。これはむしろ20世紀の話であって、少しも古い話ではない。ところが、ネーションは、どこでもそれ自身を古い起源をもつものとして想像=創造してしまう。
 たとえば、ハンナ・アーレントがいうように、反ユダヤ主義は、ユダヤ資本が強かったから生じたのではなく、19世紀後半に国家資本主義的経済が形成されるにつれて出てきた。ユダヤ資本が弱まるとともに、反ユダヤ主義が強まったわけです。ところが、人は、反ユダヤ主義の起源を中世から古代へと遡る。ユダヤ人自身もそうしてしまう。たとえば、イスラエルに国家を作ったシオニズムは、19世紀後半のヨーロッパのネーション=ステートに対応しているのです。ヨーロッパで国家主義が強まるなかで、ユダヤ人も国家をもたねばならないという状況があった。ところが、そのことに、旧約聖書に書かれているからイェルサレムへ戻ろうというような意味づけを与えたのがシオニズムです。本当は、イスラエルでなくてもよかったんですよ。ところが、イスラエルが建国されると、アラブとの対立は、古代から存続する宗教的な対立のように見なされてしまう。しかし、そこではそれまで宗教的紛争はなかったのです。
 湾岸戦争を宗教戦争として見る見方はまったくまちがっている。ネーションは、親族や宗教と別であり、それらが崩壊あるいは衰弱したのちに形成されるものです。そもそもオスマン・トルコ帝国の時代には、イスラム教徒とユダヤ教徒の争いなんてなかった。大体、キリスト教でも仏教でも歴史をとって考えたら何もわかりません。「帝国」時代の宗教と、近代国家における宗教はまったく異質です。
 現在のアラブの問題は、オスマン・トルコの「帝国」が、西洋の帝国主義によって解体されたところからはじまっている。ぼくは、この地域に、ネーション=ステートが十分に成立していると思わない。英仏が勝手に線を引いて分割しただけですから。クウェートなんか一部族に過ぎない。イラクにして見れば、幕府が長州征伐したようなものじゃないでしょうか。もともとイラクのバース党は非宗教的です。それが「イスラム」を唱えるのは、汎アラブ主義に訴える戦略にすぎない。実は、それはイラクのナショナリズムと矛盾する。イラクのナショナリズムはむしろ古代バビロニア、たとえばネブカドネザル王なんてものをもちだしたほうがいい。すると、今度はイスラム普遍主義が成立しなくなる。
 とにかく宗教戦争なんてものはない。たとえば、スリランカやインドで宗教紛争が続いていますが、根本はナショナリズムです。というよりも、経済的な格差が原因で、それが民族の対立、あるいは宗教の対立という古代的な意匠を動員するのです。そうして殺し合っている間に、それが何千年も続いてきたかのように思いこまれる。スリランカの場合は、1960年代からはじまったにすぎません。イスラム原理主義にしても、古来からあるのとはまったく意味が違う。ぼくがいいたいのは、何か根源的に遡行して考えようとすることが、実際には、身近な過去の転倒をおおい隠し、また、現実的な解決を不可能にしてしまうということです。日本の天皇制にかんしても同じことです。それは明治国家の産物であって、中世・古代に遡ることはそれをおおい隠すことになる。
――ネーションとは、『日本近代文学の起源』においていわれた「風景」のようなものですね。
その通りです。ぼくは『日本近代文学の起源』を書いた段階では、まだ近代文学をネーションの問題として考えていませんでしたが、今はそう思っています、「たとえば、風景は昔からあったけれども、われわれがいうような風景をそれ以前の人たちは見ていなかった。それは近代文学のなかで構成されたものです。そして、それがあまりにも自然になって、昔から人がそうしたように見なしてしまう。「民族」もそうですね。本当は、ネーションは、そういう地縁・血縁といった部族的・共同体的差異を超えたところに形成されたのに、あたかもネーションが昔から存在していたかのように思われる。
 しかも、その場合に最も強く働いているのは近代文学です。たとえば、日本の文学といえば、源氏から芭蕉、近松、西鶴などというけれども、これは近代文学のなかで作られた過去です。もともとあったにしても、われわれが見るようなかたちであったのではない。それは、もともと風景があったとしても、われわれが見るようなかたちで見られていなかったというのと同じです。ネーションもそうです。のみならず、文学、風景、ネーションという、この三つは相互に結びついているのです。
 ぼくは、ナショナリズムの中核は言文一致的な近代文学にあると思います。それは、文字どおりナショナリスト的であるかどうかとは関係がない。むしろそうでないほうがネーションを喚起しうるのです。19世紀ドイツの場合、「ドイツ民族」を作ったのはロマン派の文学なのです。なぜなら、ドイツは国家としては小邦に分裂したままだったからです。日本でいえば各藩に別れていたようなものです。ドイツの統一は、文学的にのみ実現されていたわけです。しかし、これは現在でも起こっています。たとえば、グルジアでもウクライナでもクロアチアでも、みなそうです。文学がナショナリズムの中核にある。
 日本のナショナリズムが昂揚するのは、日清戦争のあたりですが、そのあとに、言文一致が急速に実現され、「近代文学」ができあがる。同時に、「日本文学史」もできあがった。たとえは、この戦争の後、日本人は中国を軽蔑しはじめたわけです。長い間、特に江戸時代、中国の文学や思想でみんなやっていたのが、突然逆転してしまった。朝鮮に対してももちろんそうです。日本の朱子学は朝鮮朱子学だから、それまで尊敬していた。そういうのを一挙に否定したのが日清戦争です。つまり福沢諭吉のいう「脱亜」です。その結果として、過去が再構成された。
 日本人と朝鮮人、あるいは日本と韓国やアジアとの関係といったときに、ぼくはやっぱりネーションの問題ということからやらないと駄目だと思うんです。近代のネーションが過去を構成しているのだということに気づくべきだと思う。たとえば日本人が「神功皇后が朝鮮に行った、秀吉が行った……」というのは、日本ナショナリズムが構成する歴史ですが、「秀吉にやられた」とか韓国側も同じことをいうわけです。しかし、それは、近代以前の「帝国」時代の話です。過去をいいだせば、朝鮮半島に古代からありとあらゆる民族(エスニック)が来ているのだから話にならない。朝鮮は清朝の属国であり、それが原因で日清戦争も起こっている。
 要するに、朝鮮というネーションも、日本というネーションと同じく極めて新しいものなのです。というより、それは日本の占領下で形成されたのです。ところが、ネーションは古いものに訴える。そこに錯誤が生じる。そして、そういう過去を組織・構成するのに最も重要な役割を果たすのが近代文学だと思います。今でもそれは反復・強化されている。
 人々は、国家の問題をもっと現実的に考えるべきだといっています。しかし、近代国家を動かしているのは、実は文学です。だから「文学批判」が重要なのです。文学と無縁の政治家や実業家は、ナイーヴに文学的なんですよ。すると、文学者は何をなしうるか。文学者だけが「文学批判」をなしうるのです。」柄谷行人『〈戦前〉の思考』文藝春秋、1994年、pp.231-241. 

 明治以降の日本がネーションとして意図して構成してきた「近代」は、西洋覇権国家を追いかけながら、みずからのナショナリズムを過去に投影して美化し、近隣アジア、とくに中国と朝鮮を遅れた国、劣った民族として軽蔑する視線をつくりあげたのは、「文学」だったというここでの強調点は、忘れてはならないことだと思う。


B.年末の寒さ
 2022年が間もなく終わる。昨日が去ってあしたが来るだけなのだが、このコロナに翻弄された時代も3年。安倍晋三は銃撃されて世を去ったけれど、この国の政治は何も変わらないどころか、国会にも国民にも目を向けず、丁寧な説明といいながら、実は独断の閣議決定で、これまでの基本政策を大転換してしまう自公政権とは、いったい何なのだろう?すべてはアメリカのご意向に従っているからなのか、それとも、こういうシナリオをずっと書いている黒幕がいるのか?

 「本音のコラム: 去年今年を貫く棒  北丸雄二
 「絶対安定多数」を31も超える291議席を有していて何でも好きに決められる自公与党なのに、岸田さんはどうしてその「国権の最高機関=国会」を経ずにいろんな重要事案を閣議決定で既定路線化するんでしょうか?▼安倍さんの時もそうでした。集団的自衛権の憲法解釈変更も閣議でとっとと決められた。その安倍さんの国葬義も閣議決定で強行したせいで異論噴出。新規建設や運転期間延長という原発政策大転換も信念に閣議決定ですよ。何より反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有とか防衛費GDP2%とか、専守防衛路線大転換の安保三文書もまるで閣議で片付いたかのよう▼閣議とは本来、首相や多数派の独断をけん制する集団指導体制の機能も持ちます。中曽根内閣時代、イ・イ戦争での自衛隊ペルシャ湾派遣に後藤田正治官房長官が猛反対し閣議決定が見送られたこともありました。でも今じゃみんな上に倣えだもんなあ▼国会だって結局は数で押し切るから閣議決定でも同じさというのは訳知り顔の屁理屈です。国会論議が報じられることで世論は熟したり変わったりするから。なるほどそれが怖いから国会を経ない、世論を経ない?有無を言わさぬ閣議で国民ではなく党内大派閥の意向を先行させる限り、この内閣の支持率凋落ぶりは新年でも旧年から「貫く棒の如きもの」となるはずです。(ジャーナリスト)」東京新聞2022年12月30日朝刊17面。
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