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浅見絅斎「四十六士論」って何? 戦争孤児の記録を急ぐ・・・

2018-08-19 10:51:00 | 日記
A.『丸山真男の憂鬱』は何を追及しているのか?
 橋爪大三郎氏の著書『丸山真男の憂鬱』講談社選書メチエ、2017.をこうして読んでみたのだが、第6章以下に来てようやくこれが何を問題にしているのかが見えてきた。焦点は題名の丸山眞男の政治思想史そのものにあるのではなく、むしろ山本七平の視点を介して、闇斎学派が開いた日本的尊王思想を捉え直すところにあると思う。表紙と帯にある文はこうなっている。
 「多くの弟子と信奉者を生み出した丸山眞男(1914~96年)は今日に至るまで、まだ真に読まれていない。主著『日本政治思想史研究』を精緻に読解するとき、山崎闇斎とその学派こそが丸山の蹉跌となったことが露呈する。「憂鬱」に陥り立ち止まった丸山の先を歩んだのは、『現人神の創作者たち』を発表した山本七平だった。近代日本が犯した失敗を繰り返さないために、今や丸山真男に決着をつけなければならない」(裏表紙)
「なぜひとは、分割線を引き続けるのだろう。なぜひとは、近代にこだわり続けるのだろう(ポストモダンも、字のごとく、近代への行き過ぎた固着を、裏返しの形で表している)。日本の思想は、こうした分割線をつぎつぎとひき直し、意匠を改め、前よりもましなものになったように思ってきた。けれども、そうすることで、丸山真男の憂鬱に伝染しているだけではないか。それをやめることができないのは、近代が、外からやってきたという原体験に、とらわれたままだからだ。――第7章「丸山真男の憂鬱」より」(帯)

 これを読んだだけでは、ただ「モダニスト」丸山の批判と限界の指摘なのかと思うだろう。敗れた戦争を兵士として実体験した丸山と山本にとっては、戦争の意味を考えるうえで、明治以後の日本の近代化を西洋との、つまり外から持ち込まれた異文化との流入・対決という線で考えるだけではなく、江戸期の日本の内部に思想的源流を求める必要があった。丸山の『日本政治思想史研究』は、その道を開きながら結局、闇斎学派をまともに読み切ることに失敗し、「憂鬱」に陥った、とみる。山本の『現人神の創作者たち』は、そこをさらに踏み込んで問題の核心に迫っていたが、昭和の日本が陥った「近代の超克」的隘路を鋭く抉りながらも、考察はそこで留まっているように橋爪にはみえるようだ。第7章の結論に行く前に、闇斎学派、とくに浅見絅斎の「四十六士論」の部分を読んでみる。

「浅見絅斎という人物が何を考えていたのか、あと少しだけ追ってみよう。
 絅斎は明らかに、赤穂事件に刺戟を受け、触発されている。そして、『四十六士論』を著し、そこに戦略的メッセージをこめた。それは、山本七平が言うとおりだろう。
 「戦略的」とはどういうことか。《赤穂浪士絶対支持の当時の世論》(四一〇頁)べったりではなく、実は距離を置いているということだ。柳本七平は言う、《絅斎は本当に武士が主君に絶対に忠誠なるようにと『靖献遺言』を記したのであろうか。そうではあるまい。もしそうなら自らは決して諸侯に仕えず、三宅観瀾が水戸に仕えたときこれを破門・絶交するようなことはすまい》(四〇一頁)。浅見絅斎は町人の儒者であった。武士ではない。仕えるべき主君はいない。そこで自分を「士」になぞらえた。「士」は武士ではなく、読書人階級の意味である。中国には武士などいないのだから、これでよい。そして、「士」にとって本当の主君は、天皇をおいてほかにない。そう思い定めていたのかもしれない。
 絅斎の『四十六士論』をみると、「忠孝一致」の立場に立っている。忠孝一致は、日本の儒学者たちの多くがとった考え方で、実はありふれている。忠孝一致の立場に立ちさえすれば、「現人神の創作者たち」になれる、わけではない。では浅見絅斎の、どこが特別なのか。
 浅見絅斎は、徳川幕府を、権力の簒奪者と考えていた。儒学(朱子学)の正統論に照らして、幕藩体制は間違っている。間違っているなら、正すべきである。政治社会の現実と学問とは密接に一体化しているべきで、学問の原則とのあいだに距離があるなら、直接行動によってその距離を埋めるべきである、と考えていた。その本性は、行動的原則主義者、なのである。そのスタイルは、彼の生涯を通じて貫かれている。
 そんな絅斎にとって、義(個人の行動の正しさ)とはなにか。幕藩制を成り立たせる忠の階梯か。まず、将軍←大名、の忠は、ほんとうの義ではありえない。将軍が権力の簒奪者だからである。大名←武士、の忠も、ほんとうの義であるか検証が必要である。自分の利害打算で表向き、服従しているだけかもしれない。そして、天皇←将軍、の忠は、偽りである。権力を簒奪しているのだから。このように、幕藩制を成り立たせている忠の階梯は、そのままでは、朱子学の義の正統論の批判に絶えないものなのだ。
 さてそんなとき、赤穂事件が起こった。大名←武士、の忠が、幕藩制の社会的文脈を離れ、自分の利害打算を離れて、純粋に行動に移された。このことに、絅斎は感動する。かれの行動的原則主義と合致し、儒学(朱子学)の原則を現実化する可能性を、切り開くものとみえたからである。そこで断固として、四十六士の行動を擁護することにした。『四十六士論』は、そのために書かれている。
 それに対して佐藤直方は、儒学(朱子学)の原則に照らして、四十六士の行動が全く正当化できないことを、論難してくる。それを浅見絅斎は、反論してはねのける。そうした議論の組み立て、手の内なら絅斎は熟知している。同じ論難を絅斎も、しようと思えば、もちろんできる。けれども、問題はその先にある。儒学(朱子学)を、現実に対抗し変革するための生きた知とするために、義(忠)にもとづいて決起した四十六士の行動を何としても是としなければならない。そのためには、一見、朱子学の議論がたわむように見えても、かまわない。それは、《赤穂浪士絶対支持の当時の世論》(四〇一頁)に押されたり、おもねったりしているわけではない。むしろ逆に、その世論の感情的なダイナミズムを、儒学(朱子学)的な義にもとづいた方向感覚に、通路づけようとしているのである。そのような「戦略的」な議論なのである。
 —―かどうかを、証拠(テキストの文言)をあげて、論証するのはむずかしい。なぜなら、そうした「戦略的な」議論をする人間は、テキストのどんな小さな文言にも、そんな戦略のヒントを書きつけたりはしないからである。論証できないのであれば、浅見絅斎が「戦略的」な議論をしているとしても、それは「仮説」にとどまる。山本七平は、赤穂浪士を方孝孺に比定している箇所に疑問に感じて、《何度『靖献遺言』を読み直しても暗喩か誤解か明確な結論は出ない》(三九九頁)とのべている。浅見絅斎はわれわれに、やすやすと尻尾を掴ませない。
 となれば、外堀から埋めていくしかない。状況証拠を積み重ねてみよう。
 第一に、「忠孝一致」論に乗っていること。儒学(朱子学)のテキストからは決して導けないが、日本の俗儒はこれに乗っている。そして、大事なことは「忠孝一致」論に乗らなければ、「主君の仇討」という観念が成り立たないことである。ゆえに絅斎も、儒学(朱子学)をたわめて、この議論に乗っている。その議論そのものの正当性よりも、その議論が人々に与える効果(結果)を重視しているからである。つまり「戦略的」だからである。
 第二に、喧嘩両成敗の論法に訴えていること。喧嘩両成敗は、家臣団を統率する大名が必要とするロジックで、儒学(朱子学)とは関係ない。徳川幕府が朱子学を奨励する以前に、広く武家のあいだに普及していた。
 喧嘩両成敗の論法は、喧嘩をする両当事者(武士)が、武力をもち、自力救済の権利をもっていることを前提とする。両当事者の上位に立つ当事者(主君)が、武士たちの自力救済の権利を取り上げて、紛争の裁定権を設定した。その裁定権を差し置いて、両当事者が武力で争った場合(喧嘩)に、その両当事者の主張の内実や当否を問わず、争ったこと自体に対して等しく制裁を科す、という法理である。武士はこれを、正義だと認識している。
 裏を返すなら、喧嘩両成敗の法理が守られないなら、自力救済の権利が復活する、と考えることができる。
 「主君の仇討ち」は、家臣たちによる「自力救済」である。自力救済が正当化できるためには、たとえば、喧嘩両成敗の法が破られた、のように、不当で不法な状態が起きたのでなければならない。それを正義の側に回収する直接行動が、「主君の仇討ち」である。儒学(朱子学)から導出されなくても、導出されないことを承知していても、その論法が必要なのは、「主君の仇討ち」が義でなければならないから。すなわち、「戦略的」だからである。
 第三に、浅野長矩も、赤穂浪士らの仇討ちも、《一点一毫公上ヘ対シテノ意ニアラズ。又公義ハトモアレ、憚カルコトナキノ心有之ニアラズ》。《全ク上ヘ一点ノ怨、一毫ノ手サス存念無之コト明ナリ》(三九九頁)。《然ドモ一点毛頭君上ヘ対シテ不敬ノ意アツテスルニアラザルハ同事也》(四〇〇頁)と、絅斎は『四十六士論』で繰り返しのべている。反権力でも反体制でもない、というわけである。本当だろうか。繰り返し強調する点がかえってあやしい。
 公刊する著書に、まさか「彼らの行動は、反権力でも反体制でした」と書くわけにはいかない。しかし「主君の仇討ち」に、反権力で反体制の要素が、そもそもなくてすむだろうか。もしも幕府が情報をえて、仇討ちを妨害しようと手勢を差し向ければ、幕府との抗争になってしまうであろう。江戸市中における「主君の仇討ち」それ自体が、不法行為であって、《「上野宅エ押込、飛道具抔持参、上野ヲ討候始末、公儀不恐段々重々不届ニ候。依之切腹申附者也》(三八三頁)と、事件後の幕府の判決にある通りである。
 このことにあえて目をつぶり、仇討ちが反権力でも反体制でもないと強調することは、それが実は反権力であり反体制でありうることを含意している。つまり「戦略的」である。
 こうした状況証拠によって、浅見絅斎は儒学(朱子学)を現実に適用したその先に、反幕府の直接行動をはるかに遠望していた、と考えることができるだろう。
 明治近代化の淵源を探るため、日本のプレ近代思想のなかを分け入った丸山眞男、山本七平の探索は、中途で終わっている。丸山眞男は、荻生徂徠の「作為の契機」にたどり着き、山本七平は、浅見絅斎の「戦略的」な言論にたどり着いた。荻生徂徠は、誤認逮捕であろう。浅見絅斎は、真犯人と思われるが、捜査が完了していない。
 そこで以下、幕末に尊王攘夷思想が、人々に熱狂的に迎えられるに至る道筋を、見込み捜査でもってたどってみよう。丸山眞男も、山本七平ものべていない、空白の領域である。
  *
 山崎闇斎と闇斎学派の重要な意味合いを、改めて、確認しておくべきだろう。
 この学派は、山崎闇斎の得意なパーソナリティに起動されて始まった。朱子学は、定番のテキストを読みさえすれば、誰でも学ぶことができる。そうやって人びとは、ただの学問として、ただの知識として、朱子学を学んだ。そんななか闇斎のカリスマは、朱子学を単なる「お勉強」とは違った、日常の倫理、行動の指針として身につけることを、真剣な迫力をもって門人に求めた。それが、闇斎学派に特有の厳格な師弟関係であり、また、神道への接近である。
 山崎闇斎は、朱子学を日本に根付かせ、政治社会の原則として現実に機能させるには、巨大な困難が立ちはだかっていることをよくわかっていた。そこで生涯をかけて、朱子学を「日本化」することに全身全霊をささげたのである。
 朱子学を日本に適用するには、社会の違いを乗り越えなければならない。
 中国は、儒学(朱子学)によってカスタマイズされて出来あがった社会であると言ってよい。皇帝をトップとする官僚制も、底辺の宗族(父系血縁集団)も、儒教の原則と調和している。儒教(朱子学)の原則に従って生き、儒教(朱子学)の原則によって政治社会を運営することは、簡単だ。中国の人びとにとって、山崎闇斎が考えたような、「朱子学を自分の国に根付かせる」と言う問題それ自体が、そもそも存在しない。
 日本は、儒学(朱子学)によってカスタマイズされてできた社会ではない。かつて律令制が試みられたが、いまはただ意匠(表面の飾り)にすぎなくなっている。ゆえに、日本社会に儒学(朱子学)を適用しようと本気で考えると、次の問題を考えなくてはならない。
 第一に、天とそれを祀る皇帝、の代わりに、高天(たかま)ヶ原(はら)に集まる神々と、その子孫である天皇、がいる。
 第二に、皇帝を頂点とする官僚機構/底辺の宗族、の代わりに、幕藩制がある。幕藩制の実態は、イエが重層したシステムである。
 このように、天皇に、またイエに、儒学(朱子学)をどのように適用すればよいか、研究し、解決しなければならない。闇斎学派はこの二つの課題に、最も真剣に取り組んだのである。
  *
 中国で、皇帝が天を祀る儀礼は、儒教の儀礼である。宗族のメンバーが先祖を祀る儀礼も、儒教の儀礼である。
 日本で、天皇が神々を祀る儀礼は、神道の儀礼である。イエのメンバーが先祖を祀る儀礼は、仏教の儀礼である。
 山崎闇斎は、天皇とその儀礼を、儒学(朱子学)と接続するために、朱子学の立場から神道を実践しようとした。江戸時代の儒者は多くが天皇や神道に関心を示した。その中で闇斎は、最も徹底していた。自ら神道の流派(垂加神道)を立ち上げたからである。朱子学と神道が接続しうることを示した点で、後の水戸学の地平を開いた、と言ってもよいだろう。
 イエを、朱子学の原則に連接するほうはどうか。ここで大きな役割を果たしたのは、やはり浅見絅斎である。浅見絅斎の『四十六士論』は、人びとが理解するイエの倫理が、朱子学の原則と合致することを、こじつけ気味ではあるが、ともかく「論証」している。
 このように朱子学は、「日本化」することで、人びとを動員できる実践的な思想として機能し始める。」橋爪大三郎『丸山眞男の憂鬱』講談社選書メチエ、2017.pp.244-251.

 幕末の尊王攘夷という沸騰する政治運動を導いたエネルギーは、「竜馬がゆく」的な西洋近代に目覚めた先覚者が、迫りくる帝国主義の侵略に対抗しなければという危機感から説明されることが多いが、それはのちのちまで日本の近代化を「進んだモダニスト」と「遅れたナショナリズム」という構図でみるくせがついてしまった。戦後思想をリードしたトップランナー、丸山はそれを江戸期に遡って徂徠の「主体の作為」から説明した。しかし当の丸山自身が、それを途中で放棄し「憂鬱」に陥った。山本七平は、そうした分割線を引かずに日本社会そのもののあり方を問うたのだが、「空気」「自然」の批判で停まったように思われている。現在に続く「市民主義的」近代と愚かな「皇国史観」の不毛な対立と見るかぎり、現代社会の分析に重要な政治権力の問題を解くことが難しくなる、というのが橋爪の問題意識だろう。これについてぼくなりの答えを見出したいと思うが、もう少し時間が要る。



B.戦争孤児の記録を今しなければ・・
 この国の8月は、「負けた戦争」を繰り返し振り返る年中行事のようになっているが、ただ悲惨なことを繰り返してはいけない、という言葉が、摩耗しステレオタイプになってしまって、体験者がもういなくなる時期が迫る。記録じたいがまだ残されていないこと、いやなことは忘れたいという「気分」が蔓延するとしたら、危機ではないか。戦争孤児の実態は、その典型だろう。

 「戦争孤児 秘めた地獄:放浪2年 盗んで食べて傷ついた 戦後12万人超 偏見恐れ沈黙
 戦後しばらく、各地の駅や公園には寝泊まりする子どもたちの姿があった。空襲や戦闘、病気で親を亡くした孤児たち。国が終戦直後に行った全国調査では、その数は12万人。それ以降の調査は見当たらない。焼け跡に残された子どもたちは、その後をどう生きてきたのか。〔消された戦争⑤〕
 生後3カ月、5カ月、2歳、16歳……。京都市下京区の大善院に、8人の子どもたちの遺骨や遺髪が安置されている。住職の佐々木正祥(まさよし)さん(64)が20年ほど前、本堂の裏の物置で古い木箱に入っているのを見つけた。木札には「昭和23~28年死亡」と記され、「伏見寮」の墨字。があった
 京都駅にはかつて親を亡くした子どもたちがあふれ、「駅の子」と呼ばれていた。市内には戦後の一時期、戦争孤児を預かる施設があった。伏見寮もそのひとつ。佐々木さんの叔父は寮の元職員だった。
 2013年、佐々木さんは供養する会を始めた。かつて寮にいて、戦後70年を経て、体験をうち明けてくれる人にも出会った。
 京都市左京区の小倉勇さん(86)は1年ほど伏見寮で暮らした。13歳だった1945年7月、福井・敦賀の空襲で母を亡くし、翌年2月、父が病死。食糧難の時代、身を寄せた伯母は冷たく、各地を転々とした。
 死んでいく子を何人も見た。8歳ぐらいの女の子。やせ細り、裸足を真っ赤に腫らして、大阪駅前で力尽きた。福井駅で出会ったひとつ年下の「かめちゃん」。盗みをしては、闇市でカレーや肉まんを分け合った。東京・品川駅近くで電車に飛び込んで自殺した。
 小倉さんは2年の放浪の末、京都駅で保護された。緑内障の適切な治療を受けられず、左目を失明した。「歯を食いしばって泣いても、世間は冷たかった。地獄でした」。社会への不信感から、黙っていようと決めた。
 那覇市の柳田虎一郎さん(80)は、孤児としての戦後を妻や子どもにも話さなかった。「何のために生まれたのかと思ってきたから、苦しんだ日々を話して心配かけたくなかった」
 6歳だった44年、パラオから日本へ向かう途中にフィリピンで戦闘に巻き込まれ、母と生後数日の弟を失った。翌年、引き揚げ船で末の妹が息を引き取った。もう一人の妹と姉は養子に。復員した父と2人、母の故郷の沖縄で暮らし始めたが、中3の冬、父が病死した。
 米軍人の靴磨き、皿洗い、港の荷役……。深夜まで働いた。市場で野菜の切れ端を拾い,水道水で腹を膨らませた。元軍人や遺族には恩給などが出ていた。役所を訪ねると「子どもが来る所じゃない」。補償を求め、琉球政府や日本政府に何度も手紙を書いたが、返辞は一度もこなかった。
 再び声を上げたのは70歳を過ぎてから。南洋群島で戦闘に巻き込まれた住民らが、国に損害賠償と謝罪を求める訴訟に加わった。「国に捨てられた。苦労かけたと認めてもらうまで、私の戦争は終わらない」
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 旧厚生省が48年2月にまとめた「全国孤児一斉調査」によると、空襲や病気で親を亡くした孤児は12万3511人。ただ、養子に出された子や米軍統治下の沖縄は調査に含まれていない。その後、国が調査したかは「把握できていない」(厚生労働省担当者)という。
 敗戦翌月、政府は「孤児育成に熱意がある善良な家庭」に保護や養子縁組を求める方針を決めた。だが、混乱期、家庭に余裕はなく、街に孤児があふれた。
 戦争孤児の研究をしている立命館宇治中高(京都府)教員の本庄豊さん(63)は「国は次第に取り締まりに傾き、救援の意識が薄れていった」と言う。48年9月に閣議決定した対策では「浮浪児根絶」が掲げられ、《浮浪児に対する安価な同情が浮浪生活を可能にしている》《保護取り締まりを徹底的に》と記された。偏見や差別を恐れた孤児たちは沈黙した。
 本庄さんら研究者は2年前、孤児の戦後を聴き取る調査を始めた。広島や長崎、愛媛、京都、沖縄……。次は東京を訪ねる。閉ざされた記憶に向き合い、記録に残す試みは始まったばかりだ。(安田桂子)」朝日新聞2018年8月18日朝刊、35面社会欄。

 焼け跡の街で、駅や公園で、死の恐怖にさらされていた子どもがいた。自分を産んでくれた親を失い、兄弟姉妹の死をなすすべもなく見て、自分がこの世にいること自体を呪うしかないような過酷な生活を生きのびた人にとって、国家とは何か?家族とは何か?考える余裕もない。かろうじて大人になり生きのびたとしても、その体験を家族にすら語れない。ただ、少なくとも、あの戦争は正しかった、日本はよく戦った、日本人は素晴らしい、といった言説に対して、戦争孤児の人たちははっきりNOといえるし、戦争を推進した人たちに憤りを感じるはずだと思う。
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