A.選挙の投票率について
今日は、統一地方選挙後半の区長と区議会議員選挙の投票日だったので、投票所に行ってきた。投票は5分もかからないが、終わって外へ出てちょっと考えた。不在者の事前投票が認められるようになって、早めに投票する人もふえたのに、作今、選挙のたびに投票率が落ちていると言われる。国政選挙でもかろうじて50%強にしかいかず、日本の有権者の半数はもはや選挙に何の期待も意義も感じていないかのように思われる。しかし、このような政治や選挙へのアパシーは、どのような効果をもつのか。今すでに、安倍政権の登場で、戦後日本の諸前提を覆すほどの右翼革命的なことが進行しているのは、2012年の総選挙の結果なのだ。自民党の傲慢な暴走は、選挙で国民多数の圧倒的な支持をえている、だから反対するなら次の選挙で落とせばいいじゃないか、と居座る。大阪の橋下市長も、自分は選挙で勝っているのだから、有無を言わせないと居直る。選挙こそ権力の根拠であり、正義の裏付けだという論理。
でも、選挙にはいろいろ公正さを疑われる問題点がある。区割りや定数の不合理は、有権者の権利の侵害の域まで達していると司法が認めているし、選挙権・被選挙権の年齢についても議論がある。安倍政権は、若者の保守化に期待して、18歳への選挙権引下げをやるつもりらしいが、18・19歳が実際は選挙にいかなくても、有権者の母数が一気に増えることになるから、大政党に有利に働くことが予想される。ぼくには何よりも、投票率が気になるので、総務省の年代別投票率推移のデータというのがあったので、見てみた。
1980年代までは、衆議院選挙の全体投票率は70%くらいはあって、1967年の31回衆議院選挙では、20代が66.7%もあって、56.8%の70代以上より10%も高い。それが平成になったあたりからどんどん下がってきて、とくに20代の投票率が一気に40%から30%台にまで落ちる。他の年代でもじわじわ投票率が低下傾向になっていたのが、2005年、2009年と上昇する。全体平均ではさほど大きな上昇ではないが、年代別でみると20代、30代の上昇率が大きい。これは自民党政権の信頼失墜、新しい政党の輩出から政権交代の可能性が出てきたことが理由として考えられる。ところが、東日本大震災を経て民主党政権が崩壊した2012年衆院選では投票率はがたっと落ちた(69.3%→59.2%)。昨年末の選挙ではさらに52.7%まで落ちている。20代だけでみると、‘03(35.6%)、‘05(46.2%)、‘09(49.5%)、’12(37.9%)、‘14(32.6%)となっている。ちなみに参議院の方は全体が50%台、20代は30%なかばで推移していて、あまり大きな変化はない。これはどういうことだろうか?
ネトウヨ的若者の声高で匿名の叫びは、若者全体にはさして大きな影響は与えてはいなくて、少なくとも投票という行動には結びついていない、のだとすると、2009年衆院選の政権交代は20代の有権者が30%しか選挙に行っていなかった状況を、50%近くに足を運ばせるだけの意味は持っていたことになる。そして、ここが肝心だが、若者に支持されていると思い込んでいる安倍自民党政権は、全世代で投票率の低下というかたちで、民主党政権と同様にそっぽを向かれてしまったとみることもできるのだ。有権者は民主党に大きく失望したのだが、では自民党に期待したかというと、逆に投票に行かないというかたちで、どれがどれだかわからないほどの諸政党をまとめてゴミに捨てたのだ、と言えるのかもしれない。
ということは、まったく新しい理念をもったリーダーが登場したとき、20代の50%が投票所に行けば、今のような理不尽で時代錯誤な右翼政権は取り替えることができる。

B.ローマ帝国と都市国家アテネの差
氏族・部族の共同体→古代国家→古代帝国という順序で、それを西洋の歴史に沿って考えると、ヘーゲルをはじめ大方の歴史はローマ帝国の成立を、古代社会の完成形態と考える。個々の国家を超えて広大な版図を統べる「帝国」は、ローマ以前にも、中国や中東などアジアでは成立していた。しかし、ローマ帝国はトップに皇帝をもっているというだけではなく、ギリシアの都市国家にはない特徴をもっていた。そのへんの記述。
「ローマは、ギリシアに遅れて頭角をあらわした都市国家である。そのため、ギリシアの都市国家と類似した面がある。ローマ人は重装歩兵の密集戦法をはじめ、ギリシアの先例を見倣おうとしたのだから、なおさらそうだ、といってよい。だが、類似性のゆえに、それらの違いもまた際立つともいえる。
第一に、アテネが徹底的な民主主義に到達したのに対して、ローマではそれが不徹底であったということである。都市国家ローマも、初期のギリシアと同様に、王政から貴族政への移行が生じた。すなわち、前五〇九年に、有力な首長(貴族)らが王を追放して貴族制が実現されたのである。貴族(パトリキ)は、多数の庇護民(クリエンテス)と奴隷を擁する、一種の「封建」諸侯であった。そして、貴族出身の終身議員で構成する元老院が実権を握った。貴族政に対して中小農民からなる平民(プレブス)が対立した。前四九四年、貴族らは平民の対抗に譲歩し、プレブスだけの民会と護民官の設置を認めた。貴族が譲歩したのは、軍事的な理由からである。彼らには重装歩兵の戦力が必要だった。重装歩兵は自弁によるものだから、中小農民の経済的基盤の確立が不可欠である。それゆえ、ポリスの中で進行した階級分解を放置するわけにはいかなかったのである。
このような過程には、アテネにおける貴族政から民主制に至る過程と類似性がある。しかし、ローマでは、アテネのように僭主によって貴族政を打倒することが起らなかった。平民の中から新たな貴族(ノビレス)が出現し、旧貴族と結託したからである。彼らは租税徴収請負や土木事業などで富を蓄積し、奴隷制による大農場(ラティフンディア)をもつようになり、他方、小農民は没落してプロレタリイ(土地を失った市民)となった。
ローマ市民の中のこのような階級的分解は抑えられなかった。たとえば、それを解決しようとした護民官グラックス兄弟は、大土地所有を没収して無産者に分配する土地改革を進めたが、挫折し無残に殺された。アリストテレスはデモクラシーを貧民が優勢である政体だと述べたが、その意味での民主化の可能性がとぼしかったローマでは、階級問題の解決は、内ではなく外に向かうことでなされた。つまり、征服戦争によって、プロレタリイに土地・奴隷・富を分配しようとしたのである。それは解決にはならなかった。戦争は、かえって、貧富の差をもたらしたからだ。だが、それを解決するために、ますます征服戦争が必要になったのである。
都市国家ローマの緊急事態に際して、それに対処する特権的な地位がコンスル(執政官)であった。このコンスルは独裁者の出現を避けるために、複数任命されたが、究極的に、ここから「皇帝」が出現することになった。たとえば、ローマが征服戦争で敗北が続いたのち、マリウスがコンスルに選ばれた。彼は新たな兵制を作り、無産市民からの志願兵によって軍を編成し、退役兵に土地割り当てと植民地を与えた。その後に、スッラ、ポンペイウス、カエサルが続いた。そこから皇帝が出てきたのである。
しかし、ローマ人は、事実上、ポリスの原理を放棄しているにもかかわらず、それを維持する形式をとりつづけた。たとえば、皇帝(アウグストゥス)が出現しても、ローマの元老院に従属するかたちをとった。ゆえに、ローマの皇帝支配と元老院支配の二重システムが残り、皇帝たちはいわば「パンとサーカス」によって市民の支持を得るように努めなければならなかった。しかし、特に、皇帝クラウディウス以後は、官僚組織が整備され、皇帝の神格化が進められた。
ローマがアテネと異なる第二の点は、つぎの点である。ギリシアでは市民権は極度に限定されていて、何世代もいる寄留外国人も、植民地のギリシア人も市民権を与えられなかった。解放奴隷も数少なかった。そのような排他的結合の結果、ギリシアのポリスは、他の共同体を併合吸収するための方法をもてなかったのである。それに対して、ローマでは、他の共同体に対してより柔軟な対応をすることによって、世界帝国を築くにいたった。ローマ帝国が、たんに軍事的な征服だけではなく、ポリスの拡張というかたちで形成されたことに注意すべきである。ローマはまずイタリア半島のポリスに市民権を与え、sらに、征服した地域の有力者を市民にした。それは、被征服地の待遇に差別を設けて、彼らの団結や反抗を防ぐ「分割統治」の方法でもあった。
かくして、ローマ帝国の統治は、「法の支配」によって多数の民族を統治する方法であり、それがペルシア帝国との違いだといわれる。しかし、現実には、ローマ帝国はアジアの帝国に共通の賦役貢納(ライトゥルギー)国家を完成させたのである。ギリシアによって開かれた世界=経済は、ローマ帝国後期において閉じられた。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015.pp.189-192.
今日は、統一地方選挙後半の区長と区議会議員選挙の投票日だったので、投票所に行ってきた。投票は5分もかからないが、終わって外へ出てちょっと考えた。不在者の事前投票が認められるようになって、早めに投票する人もふえたのに、作今、選挙のたびに投票率が落ちていると言われる。国政選挙でもかろうじて50%強にしかいかず、日本の有権者の半数はもはや選挙に何の期待も意義も感じていないかのように思われる。しかし、このような政治や選挙へのアパシーは、どのような効果をもつのか。今すでに、安倍政権の登場で、戦後日本の諸前提を覆すほどの右翼革命的なことが進行しているのは、2012年の総選挙の結果なのだ。自民党の傲慢な暴走は、選挙で国民多数の圧倒的な支持をえている、だから反対するなら次の選挙で落とせばいいじゃないか、と居座る。大阪の橋下市長も、自分は選挙で勝っているのだから、有無を言わせないと居直る。選挙こそ権力の根拠であり、正義の裏付けだという論理。
でも、選挙にはいろいろ公正さを疑われる問題点がある。区割りや定数の不合理は、有権者の権利の侵害の域まで達していると司法が認めているし、選挙権・被選挙権の年齢についても議論がある。安倍政権は、若者の保守化に期待して、18歳への選挙権引下げをやるつもりらしいが、18・19歳が実際は選挙にいかなくても、有権者の母数が一気に増えることになるから、大政党に有利に働くことが予想される。ぼくには何よりも、投票率が気になるので、総務省の年代別投票率推移のデータというのがあったので、見てみた。
1980年代までは、衆議院選挙の全体投票率は70%くらいはあって、1967年の31回衆議院選挙では、20代が66.7%もあって、56.8%の70代以上より10%も高い。それが平成になったあたりからどんどん下がってきて、とくに20代の投票率が一気に40%から30%台にまで落ちる。他の年代でもじわじわ投票率が低下傾向になっていたのが、2005年、2009年と上昇する。全体平均ではさほど大きな上昇ではないが、年代別でみると20代、30代の上昇率が大きい。これは自民党政権の信頼失墜、新しい政党の輩出から政権交代の可能性が出てきたことが理由として考えられる。ところが、東日本大震災を経て民主党政権が崩壊した2012年衆院選では投票率はがたっと落ちた(69.3%→59.2%)。昨年末の選挙ではさらに52.7%まで落ちている。20代だけでみると、‘03(35.6%)、‘05(46.2%)、‘09(49.5%)、’12(37.9%)、‘14(32.6%)となっている。ちなみに参議院の方は全体が50%台、20代は30%なかばで推移していて、あまり大きな変化はない。これはどういうことだろうか?
ネトウヨ的若者の声高で匿名の叫びは、若者全体にはさして大きな影響は与えてはいなくて、少なくとも投票という行動には結びついていない、のだとすると、2009年衆院選の政権交代は20代の有権者が30%しか選挙に行っていなかった状況を、50%近くに足を運ばせるだけの意味は持っていたことになる。そして、ここが肝心だが、若者に支持されていると思い込んでいる安倍自民党政権は、全世代で投票率の低下というかたちで、民主党政権と同様にそっぽを向かれてしまったとみることもできるのだ。有権者は民主党に大きく失望したのだが、では自民党に期待したかというと、逆に投票に行かないというかたちで、どれがどれだかわからないほどの諸政党をまとめてゴミに捨てたのだ、と言えるのかもしれない。
ということは、まったく新しい理念をもったリーダーが登場したとき、20代の50%が投票所に行けば、今のような理不尽で時代錯誤な右翼政権は取り替えることができる。

B.ローマ帝国と都市国家アテネの差
氏族・部族の共同体→古代国家→古代帝国という順序で、それを西洋の歴史に沿って考えると、ヘーゲルをはじめ大方の歴史はローマ帝国の成立を、古代社会の完成形態と考える。個々の国家を超えて広大な版図を統べる「帝国」は、ローマ以前にも、中国や中東などアジアでは成立していた。しかし、ローマ帝国はトップに皇帝をもっているというだけではなく、ギリシアの都市国家にはない特徴をもっていた。そのへんの記述。
「ローマは、ギリシアに遅れて頭角をあらわした都市国家である。そのため、ギリシアの都市国家と類似した面がある。ローマ人は重装歩兵の密集戦法をはじめ、ギリシアの先例を見倣おうとしたのだから、なおさらそうだ、といってよい。だが、類似性のゆえに、それらの違いもまた際立つともいえる。
第一に、アテネが徹底的な民主主義に到達したのに対して、ローマではそれが不徹底であったということである。都市国家ローマも、初期のギリシアと同様に、王政から貴族政への移行が生じた。すなわち、前五〇九年に、有力な首長(貴族)らが王を追放して貴族制が実現されたのである。貴族(パトリキ)は、多数の庇護民(クリエンテス)と奴隷を擁する、一種の「封建」諸侯であった。そして、貴族出身の終身議員で構成する元老院が実権を握った。貴族政に対して中小農民からなる平民(プレブス)が対立した。前四九四年、貴族らは平民の対抗に譲歩し、プレブスだけの民会と護民官の設置を認めた。貴族が譲歩したのは、軍事的な理由からである。彼らには重装歩兵の戦力が必要だった。重装歩兵は自弁によるものだから、中小農民の経済的基盤の確立が不可欠である。それゆえ、ポリスの中で進行した階級分解を放置するわけにはいかなかったのである。
このような過程には、アテネにおける貴族政から民主制に至る過程と類似性がある。しかし、ローマでは、アテネのように僭主によって貴族政を打倒することが起らなかった。平民の中から新たな貴族(ノビレス)が出現し、旧貴族と結託したからである。彼らは租税徴収請負や土木事業などで富を蓄積し、奴隷制による大農場(ラティフンディア)をもつようになり、他方、小農民は没落してプロレタリイ(土地を失った市民)となった。
ローマ市民の中のこのような階級的分解は抑えられなかった。たとえば、それを解決しようとした護民官グラックス兄弟は、大土地所有を没収して無産者に分配する土地改革を進めたが、挫折し無残に殺された。アリストテレスはデモクラシーを貧民が優勢である政体だと述べたが、その意味での民主化の可能性がとぼしかったローマでは、階級問題の解決は、内ではなく外に向かうことでなされた。つまり、征服戦争によって、プロレタリイに土地・奴隷・富を分配しようとしたのである。それは解決にはならなかった。戦争は、かえって、貧富の差をもたらしたからだ。だが、それを解決するために、ますます征服戦争が必要になったのである。
都市国家ローマの緊急事態に際して、それに対処する特権的な地位がコンスル(執政官)であった。このコンスルは独裁者の出現を避けるために、複数任命されたが、究極的に、ここから「皇帝」が出現することになった。たとえば、ローマが征服戦争で敗北が続いたのち、マリウスがコンスルに選ばれた。彼は新たな兵制を作り、無産市民からの志願兵によって軍を編成し、退役兵に土地割り当てと植民地を与えた。その後に、スッラ、ポンペイウス、カエサルが続いた。そこから皇帝が出てきたのである。
しかし、ローマ人は、事実上、ポリスの原理を放棄しているにもかかわらず、それを維持する形式をとりつづけた。たとえば、皇帝(アウグストゥス)が出現しても、ローマの元老院に従属するかたちをとった。ゆえに、ローマの皇帝支配と元老院支配の二重システムが残り、皇帝たちはいわば「パンとサーカス」によって市民の支持を得るように努めなければならなかった。しかし、特に、皇帝クラウディウス以後は、官僚組織が整備され、皇帝の神格化が進められた。
ローマがアテネと異なる第二の点は、つぎの点である。ギリシアでは市民権は極度に限定されていて、何世代もいる寄留外国人も、植民地のギリシア人も市民権を与えられなかった。解放奴隷も数少なかった。そのような排他的結合の結果、ギリシアのポリスは、他の共同体を併合吸収するための方法をもてなかったのである。それに対して、ローマでは、他の共同体に対してより柔軟な対応をすることによって、世界帝国を築くにいたった。ローマ帝国が、たんに軍事的な征服だけではなく、ポリスの拡張というかたちで形成されたことに注意すべきである。ローマはまずイタリア半島のポリスに市民権を与え、sらに、征服した地域の有力者を市民にした。それは、被征服地の待遇に差別を設けて、彼らの団結や反抗を防ぐ「分割統治」の方法でもあった。
かくして、ローマ帝国の統治は、「法の支配」によって多数の民族を統治する方法であり、それがペルシア帝国との違いだといわれる。しかし、現実には、ローマ帝国はアジアの帝国に共通の賦役貢納(ライトゥルギー)国家を完成させたのである。ギリシアによって開かれた世界=経済は、ローマ帝国後期において閉じられた。」柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015.pp.189-192.
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