goo blog サービス終了のお知らせ 

小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

日生劇場 オペラ『ルサルカ』(11/9)

2017-11-12 21:33:29 | オペラ
今年の日生劇場オペラはドヴォルザークの『ルサルカ』。難しいチェコ語のオペラに日本の歌手たちが挑戦し、指揮者の山田和樹さんと、山田さんが首席客演指揮者に就任したばかりの読響がオケピに入った。11/9の初日キャストを鑑賞。
舞台美術はごくシンプル。オケピに入りきらなかったのか、演出なのか、ステージ下手側に木管奏者が11名、上手側にホルン奏者が4名乗っていて、歌手たちと一緒に視界に入ってくる。その影響で歌手たちが使えるスペースが少なくなるのだが、演出的には問題がないようだった。転換なしでさまざまな照明によって人魚のルサルカが住む海の世界と、地上の人間界が同じ空間で演じられていく。

田崎尚美さんのルサルカは、変身前は赤毛の縮れ毛(?)でヒッピー風の衣裳をつけている。生命力に溢れた若々しい娘といった雰囲気だ。有名なアリア「月に寄せる歌」はオペラが始まって間もなく歌われるのだが、田崎さんの歌はとても清楚で、潔く、純粋な表現だった。田崎さんは二期会『イドメネオ』でのエレットラの迫力の演技や、カヴァー歌手による演奏会でのイゾルデが心に残っている。
声量豊かで、時には毒々しい女性にも変身する田崎さんが、すべての飾りを捨ててルサルカを歌っていた。色白でお顔立ちが美しいので、ルサルカはフィギュア的にも似合っている。エレットラやイゾルデにもなれるが、一番田崎さんの本質に近いのがルサルカなのではないのかと思った。

ルサルカを人間の世界へ送る手伝いをする魔法使いイェジババは、清水華澄さんが歌われた。絶妙な役作りをされていて、表情豊かで発声も鮮やか、見ていて心湧きたつ演技だった。清水さんは本気で役を突き詰めていくタイプで、これまで『ドン・カルロ』のエボリ公女でも、『アイーダ』のアムネリスでも、『仮面舞踏会』のウルリカでも、「何が正解なのか?」をご自身を苛め抜くような厳しさで追究されてきた(清水さんのブログより)。魔法使いや占い師など「この世とあの世を往来する女性」を演じさせたら清水さんに叶う人は少ないのではないか。
声楽的にも、不自然で奇妙な旋律が多く大変なイェジババだが、それが滑らかに歌われることで、逆にこの人間の世界が奇妙なものに思えてくる。
他の舞台でなじんだ歌手の皆さんが出ているだけに、全員が真剣に役作りを究めていることが感動につながった。

一度ルサルカを愛するが物言わぬ冷たい身体の人魚の娘に愛想をつかし、外国の公女に心移りする王子を、樋口達哉さんが歌われた。樋口さんが王子を演じたことで、オペラの想像界のさまざまな物語が浮き彫りになった。ルサルカの王子とは何者か…それは樋口さんが今までに歌われてきたマントヴァであり、ピンカートンであり、ウェルテルであり、ホフマンであった。一言では裏切り者とは言えない…二幕で、一言も言葉を語れないルサルカは白いドレスを着たままずっと塑像のように静止しているのだが、三幕では対になったかのように今度は王子が、机に向かって悩みながらずっとものを言わずにいる。そのときの樋口さんの表情をオペラグラスで凝視してしまったが…ルサルカを裏切った後悔と、彼女を忘れられないことの懊悩で、本当に苦しそうだった。

外国の公女は腰越満美さんが、鹿鳴館時代の貴婦人のようなファッションで妖艶に歌われた。少しサディスティックな魅力のある姫で、最初腰越さんだと気づかなかった。オペレッタの奥様役を思い出す。貴族的ですこし冷たく、生きた男のあしらい方を知っている役は、大人っぽい魅力の腰越さんによく合っていた。この公女には、モデルがいたのではないかと思うくらいキャラクターがはっきりしている。動かぬルサルカをあざ笑うように、世俗の人々はラジオ体操のような(!)運動を始めるのだが、それもすべて鹿鳴館テイストなのが面白かった。舞台の高いところには、大日本帝国の国旗によく似た旗が飾られていたのは何かの暗示だろうか。

山田和樹さんと読響は始終息ぴったりで、人魚の物語に相応しく幻想的でありながら、人間の心の闇をのぞき込むようなミステリアスな深みも感じさせ、完璧な劇場の音楽だった。読響はワーグナーをはじめピットでの経験豊富なオケなので、ドヴォルザークもワーグナーの森や湖、岩山を幻視させる。山田さんは一階席からもほぼ全身が見える高さで指揮をされており、柔らかい動きがオーケストラの流れを導いていく様子が詳しく見えた。

ルサルカは悲恋の物語だが、これは王子の悲恋の物語でもあった。こう思えたのは初めてで、それはやはり樋口さんのお陰だった。ピンカートンもウェルテルもホフマンも、誰を愛すればよいのかわからない。女の心を傷つけた後には業罰が待っているのだが、未熟な男たちは実のところ無辜なのだ。ラスト近くで、ルサルカを追い求める王子とルサルカのやり取りは、『蝶々夫人』の書かれざる最終幕のように見えた。他の女に目がいったが、本当の妖精は君だった…そんな愚かな後悔がこのオペラにはきちんと書かれているのだった。

宮城聰氏のシンプルな演出コンセプトは、オペラ歌手たちにそれぞれの役を深く掘り下げさせた点で正解であった。一人一人が溢れるような魅力をもつ演劇人であることを知らせてくれた。「ルサルカ」はこの世と異界とが出会う物語だが、劇場の暗闇はこうした異次元のとの交流を描くのに一番ふさわしい場所なのだ。バレエもオペラも、闇と異界と変身と幽霊が出てこないもののほうが珍しい。ルサルカの父である水の精ヴォドニクを演じた清水那由太さんは、このオペラと「リゴレット」の類似性を浮き彫りにした。
華やかな魔女たちを演じた森の精1の盛田麻央さん、森の精2の郷家暁子、森の精3の金子美香さんは舞台を漂いながら魅力を振りまき、森番デニス・ビシュニャさん、料理番の少年・小泉詠子さんの掛け合いも楽しかった。東京混声合唱団も幻想的な合唱を聴かせてくれた。
チェコ語に関しては全く分からないので、ディクションについてはどう評価したらよいか分からない。私ならスペルを見ただけで縮み上がってしまう言語を、よく全幕で歌ってくれた…今後このオペラに挑戦する歌手たちへの大きな励みにもなったと思う。
(写真は森の精を演じた金子美香さんと、楽屋を訪れたときのツーショット)



ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(11/11)

2017-11-12 13:40:44 | クラシック音楽
世界最古の市民オーケストラ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の3年ぶりの来日公演をサントリーホールで聴いた。指揮は今年90歳を迎えた桂冠指揮者ヘルベルト・ブロムシュテット。オケ創立275周年とも重なり、来日ツアーのプログラムはこのオーケストラが初演を果たした曲が並び、歴史の厚みを感じさせる内容だった。
前回の来日公演でのリッカルド・シャイーとのマーラー7番では、どんな奇々怪々な曲も明晰に、オケのモットーである「真摯たれ」を貫いて演奏するこのオケの「熱量」に驚き、感服したものだが、ブロムシュテットに導かれた音楽はそれとは異なる印象だった。真摯さ、真剣さはそのままに、内面的な静けさや控えめさといったものを強く受け止めた。シャイーは60代で、ブロムシュテットに比べればまだまだ若かったのだ。先月聴いたルツェルン祝祭管の演奏は、そうしたシャイーの冒険心とパッションを受け止めるものだったと思う。

前半のブラームスの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』では、レオニダス・カヴァコスが登場。彼を見ると私はなぜかキリストを思い出してしまうのだが…精妙で献身的で、決して大袈裟にならない最良の演奏を聴かせた。先日のボストン響のギル・シャハムのチャイコンは、超絶技巧部分を非常に「演劇的に」弾いていたが、カヴァコスは立派な体格で両足を床に吸い付け、あまり大きく動かない。オケの積極性は相変わらず素晴らしいが、シャイーのときに強く感じた「びっくりするような熱気」は控えめだった。全体的にいぶし銀のようなサウンドに感じられた。ゲヴァントハウス管の名物である五弦のコントラバスも、低音をデラックスに聴かせるというより、もっと「渋い」感じなのだ。

一楽章のカヴァコスのカデンツァが終わったあたりから、じわじわと心に押し寄せてくるものがあった。それは不思議な至福で、人の信条や、忍耐強い生き方が教えてくれる人生の秘訣のような閃きだった。世界にはさまざまなオーケストラがあり、魔法使いのような指揮者がいて、最初の一音から聴衆を魅了し、別世界へと誘うようなサウンドを奏でる集団もいる。この日のゲヴァントハウスは、それよりも秘められたオーケストラの本質を聴かせてくれた。ブロムシュテットは見るたびに少しずつ身体が小さくなり、動きも少なめになっていくが、サウンドは洞察的で、多くのメッセージを放っていた。アダージョ楽章は温かく寛大で、紅葉を映し出す湖面のようなオケとともに、カヴァコスも清冽な祈りのようなソロを重ねた。
ドラマティックに激昂していくことの多い3楽章も、ただの激しさとは異なる表現だった。旋律は美しく、洗練潔白で、幾重もの心の作業を経た先にある広大な次元を指さしているようだった。ブロムシュテットの生きた神様のような姿のせいもあるのだろうか…「人生は最後まで生きてみなければわからないのだ」という、思いもよらない明快な啓示を得た。

私にとってこの演奏はとても宗教的なものに感じられた。個人的に、そういう演奏を聴くことは今の自分にとってとても貴重なことであった。どうして人生に対して悲観的であることをやめられず、幾度も「この人生をもう終わりにしたい」と思ってしまうのか…ブロムシュテットは明快な答えを与えてくれた。「人生はいつ好転するかわからない。命あることに感謝して生き続けなさい」と音楽を通じて語り掛けてきた。命や時間をどうとらえ、人生に生かしていくか…という啓示は、とても宗教的なものだった。
芸術が宗教的である、ということ自体がヨーロッパでは語義反復であるのかも知れない。しかし、日本では音楽そのものを科学的に…切り離されたものとした語ることが是とされているような気がする。ゲヴァントハウス管とカヴァコスのブラームスが宗教的である、という私の解釈はこの国では孤立し続けるのだろう。

後半のシューベルト『交響曲第8番 ハ長調 ザ・グレイト』では、前半に感じられたものがさらに強調されて心に迫ってきた。長らく、この曲の魅力が分からなかったのだ。シューベルトは歌曲やピアノ曲のほうが魅力的で、ザ・グレイトの愚直さや同じことの繰り返し、生真面目さは全く好きになれなかった。先日同じサントリーで聴いたゲルネの『冬の旅』では、音楽的霊感という意味でもシューベルトは崖っぷちまで行く。ある痛点に釘を打ち付け、トンカチを叩いたらヒビ割れから予想もしない深淵が顔を出した…という世界が歌曲にはある。アンプロンプチュのようなピアノ曲にもある。それを思えば、シューベルトは和声的にも構造的にも、もっと過剰な音楽を書けたはずなのではないかと思っていたのだ。

ブロムシュテットとゲヴァントハウス管の精神性は、シューベルトがハ長調のこの曲で行おうとしていたこの本質を教えてくれた。霊感の女神に愛された放蕩者としての幸運を捨て、一人の人間として、人間の理想を音楽で表そうとする崇高さを感じた。深読みするならば、ロマン派という潮流がこの「人間的理性」を捨てて感覚の放恣にひたったなら、音楽は死に絶える…トリスタンとイゾルデとともに腐り果てて死ぬ…という予感があったのかも知れない。爛熟した和声の快楽はロマン派の寿命を縮め、音楽は調性を捨てるまでにならなければならなかったのだ。
それにしても、最終楽章でのあの同音の執拗な繰り返しは本当にユニークである。音楽に性別はないとはいえ、とても男性的なのだ。ゲヴァントハウス管は今回ブルックナーの7番も演奏するが、ザ・グレイトもブルックナーの7番も女人禁制の修行僧のストイックな世界を彷彿させる。それと比べると、モーツァルトの交響曲はどれも女性的だ。翻ることと騙すこと、一瞬で魅了することは女の領分だからだ。

ゲヴァントハウス管は聴くだけでなく見ることによっても多くを教えてくれる。ぴったりそろった呼吸感、顔つきや所作の神妙さ…木管は特にオーボエ奏者の表情が素晴らしかった。どんな物事も、「やらされている」感じほど美しさから遠いものはない。オケの積極性からは、生き方の美学のようなものも教わった。12日と13日にもコンサートが行われる。