小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

都響×インバル(1/13)

2021-01-14 16:32:39 | クラシック音楽
都響&インバル「都響スペシャル」二日目。ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」、後半はブルックナー『交響曲第3番《ワーグナー》』(ノヴァーク1873初稿版)が演奏された。コンサートマスターは矢部達哉さん。サントリーホール。
マエストロ・インバルは足取りも若々しく、指揮台に立つ後ろ姿も精悍。背筋がしっかりとしていて、スマートな両脚は指揮台にまっすぐ吸い付いている。『トリスタンとイゾルデ』前奏曲の懶惰な音の洪水に埋もれながら、この危機的な世界の中で大編成のオーケストラを聴く嬉しさを噛み締めていた。欧州の殆どの劇場やコンサートホールもクローズされている中、都響とインバルがいるサントリーホールが世界の中心に思えた。

「新しい日常」が訪れて、むしろ今までの方が異常な世界だったと感じられる。2000年代はテロと自然災害と病原菌の時代となったが、何より異常なのは延々と続いてきた我々の「文明生活」だったと気づいた。生きるためにひたすら働き、モノを買わされ、老後の蓄えをし、暮らしに怯えながらちびちびと暮らしてきた。
しかしオーケストラは、ご飯とご飯の合間に見るサーカスのようなものではない。何かここには特別な価値があるから、ファンはコンサートにやってくる。演奏会はむしろ、さまざまな「文明的生活様式」が終わっても、人が人である証として残り続けるかも知れない。

聴き手はクラシックに「価値」を求める。聴いたばかりの音楽について「力のある言説」を競う。そのやり取りは、しばしば道徳性や大人の節度を超えるほど逸脱したものになり、ある特定の団体…都響のコンサートではさらに熾烈になることにずっと動揺してきた。必ずしもオーケストラはそれを望んではいない(と思う)。しかし「高度なアンサンブル力をもつ都響を愛するファン」の誇りの高さは並大抵ではなく、そこに何か意見でもすれば殺人事件も起こりかねない。

そんなことを考えながら、トリスタン…の循環コードがもたらす陶酔感と、涅槃にいるかと錯覚させるような合奏の美しさに心を奪われていた。この美の本質にあるものは何だろう。退廃的というより天上的で、天と地、神と人が近かった太古の時代を思わせる。ワーグナーの才能についてなど殆ど考えなかった。インバルがここに何を込めたのか、何を思い、何をオケに語らせたいのか…すべて「インバルの音楽」として聴いた。

前半の18分間のワーグナーの後の休憩時に「インバルは…どこまでいっても謎だ」思った。このマエストロについて何かを知ったと思うと、とらえていたのは影で、次の瞬間には実体が消えてしまう。ダイソンのドライヤーのように、中は真空なのかも知れない。
指揮者とは手旗信号のテクニックで達者な「千人の交響曲」を振る人ではなく、音楽の前で哲学的立場をとる人のことだ。文明を深く識る人…インバルの卓越性は疑いようもない。
どんな思い付きの賛辞もインバルの前では無力になってしまうのだ。ソクラテスは真の知識=エピステーメーを求め、対話する相手の盲点をつき、ドクサを暴き、対する自分は無知の人だと言った。手品師のような技だが、何かの覆いをはぎ取ることには成功したわけだ。
インバルも覆いをはぎ取る。ステレオタイプや惰性の壁紙を剥がし、覆いの向こうにあったトリスタンをオケから引き出す。
それにしてもオケはなぜいつもインバルの前では順風満帆なのか。ぴーんと帆を張った「インバル号」が、向かい風で沈没しかけたことはなかったのだろうか…大昔、若い頃にはそんなこともあったかも知れない。今のインバルには追い風しかない。

ブルックナー交響曲第3番『ワーグナー』でも、前半とまったく同じことを考えていた。作曲家のことなどどうでもよかった(ましてや稿も)。全身で浴びているのはインバルの音楽で、インバルが「今このとき」生きた音楽を、その瞬間ごとに鮮やかに現出せしめているということが重要で、ブルックナーの素晴らしいスコアは媒介なのであった。指揮者が媒介であれという人もいるが、そうでない演奏のほうが面白いとも思う。

ブルックナーの多くのシンフォニーから感じる、修道院の朝のような辛気臭さはなかった。インバルと都響のブルックナーは無敵の「強さ」を感じさせ、都響はインバルが求める「高貴なる精神が選ばれた闘い」に参戦している兵士のようだった。世俗的なものと断ち切られた世界であると同時に、人間的でもあった。インバルは音楽の中の「情」を否定しない。「美」も否定しない。どちらかというと「美」はだだ洩れるほどふんだんに音楽から溢れている。

「すべては虚妄であるが、それでも命と愛は尊いものであり、この世界にニヒリストは生きられない」と思った。世界は何かの終焉に向かっているようで、生まれ変わろうとしているようにも見える。再びゼロから始めるにしても、壊れやすい価値に依存していてはダメだ。インバルの知性は、歴史の中でいかなる哲学も宗教も国家不完全であることを見抜いてきたと思う。そうした卓越性が音楽から感じられる。都響はそれを深く理解しているので、その日そのときに起こったいかなる指揮者の即興にもついていけるのだ。
61分間のシンフォニーは素晴らしすぎて、飽きているわけではないけれど、どこで中断されても未練はなかった。インバルの時間論、音楽論は完璧で、どの瞬間も惜しみなく豊かだった。服飾史家の中野香織先生風に言うなら、インバルには「グラマーがある」のだ。

音楽は巨大なのに、聴いている自分は何かこぢんまりとしてしまっている。もしかしたらこのマエストロは「フェイク」なのかも知れない。バーンスタインは泣きながら指揮をしたし、ビシュコフは怒りながらチャイコフスキーを擁護した。インバルはいつでもひょうひょうとしている。しかし、バーンスタインのほうがフェイクだったのかも知れない。もしかしたら指揮台の上では相当な芝居を打っていたのかも…。インバルの濃密で禅的なブルックナーは、目を瞑って聞いていると、バーンスタインが滂沱の涙とともに振っているようにも聴こえるのだ。
インバルと都響は大きな帆を自慢気になびかせ、風を味方につけて勇敢に進んでいた。センティメンタルな気持ちとは別の、呆気にとられるような指揮者の哲学を見せつけられた。それはほとんど、魔術のようでもあったのだ。






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