小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

カイヤ・サーリアホ Only the Sound Remains 余韻

2021-06-09 14:35:39 | オペラ

フィンランドの現代作曲家、カイヤ・サーリアホの幻想的なオペラ。東京文化会館大ホールが予想以上の客入りで、少なからず難解であるはずの現代オペラにこれだけの関心が向いていることに驚く。ゲネプロ見学の機会もあったが、結局本番のみを観ることになった。サーリアホが日本の能に魅了されて作った幽玄なオペラのダブル・ビル上演である。小編成のピットには民族楽器のような不思議な形の打楽器も見える。何年か前にナントの音楽祭で聴いた地中海音楽を奏でるカンパニーを思い出した。

題材となっている二つの能『経正』『羽衣』のオリジナルを、どちらも知らない。休憩を挟んで演じられた二つの物語は、まるっとひとつのことを語っているようにも思えた。日本の古典芸能が顕す「おもかげとうつろい」の世界にサーリアホが関心をもつのは、魂が懐かしさを感じているからだろう。何年か前にオペラシティで上演された『遥かなる愛』にも、日本の尺八や琴を思わせるサウンドが溢れていた。

能の「シテ」をカウンターテナーが担当し「ワキ」をバス・バリトンが担当する。カウンターテナーのミハウ・スワヴェツキはめざましい美声で、遠目から見るとフィリップ・ジャルスキーによく似ている。セラーズ演出のパリ国立オペラでの2018年の映像では、ジャルスキーが歌っていた。この世のものならぬ霊的な表現は、世界最高峰のカウンターテナーにしか歌えないのかも知れない。ストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」を思い出す瞬間が何度かあった。

僧侶・行慶を演じるバス・バリトンのブライアン・マリーの温かみのある声、違う次元の存在としてのカウンターテナー、そこにダンサーの森山開次さんのダンスが加わり、3人の演者による凄い幻想空間が立ち現れた。森山さんの「何にでも変身できる」魔力が、鷺のような落武者のような女性のような「存在」となって舞台に舞い降りた。体格は違うが、バス・バリトン、カウンターテナー、ダンサーは背丈がだいたい同じで、それぞれ違う役割を担っているようで、ひとつの影を描いているように思われた。たゆたうような音の帯がホールになびき、時を越えた「無限」が立ち現れた。

ピットの中で歌うソプラノ、アルト、テノール、バスの多彩な歌声にも驚かされた。ひそひそ声や擦過音のような発音も聴こえ、譜面には色々な指示があるのだろうと思われた。彼らはある瞬間にピットから舞台に上がって歌い始める。オペラの時間が満ち、「いよいよ」という雰囲気が溢れ出す感じが良かった。

後半の「羽衣」では、サーリアホが抱えている独特の心の形のようなものを感じていた。見えないものを見ようとする好奇心、あるものだけがある、と断定することを嫌悪するような厳密な美意識、つねに愛の前には不可能性が置かれる掟…といったもの。「羽衣」では、すべての瞬間に星空が見えたような気がした。歌手もピットもPAを通し拡大したサウンドを鳴らす。
「羽衣」では歌手たちの見事さにも増して、ダンサーの負担が大きかったはずだ。ほぼ非現実的といっていい課題を与えられる。「人間界の新たな喜びとなる舞い」をこの世の置き土産にする、その舞いとはどのようなものか?
振付も担当した森山開次さんの変幻自在な乱舞が、ホログラムのように舞台を埋め尽くした。この世に「ない」(ありえない)ものを肉体であらわすことの魔法を、やってのけた。

舞台では、男性たちが矢鱈と妖艶だった。装置は可動式の障子のようなもののみでシンプルを究めていたが、照明と心霊写真のようにゆらめく曖昧な映像だけで、サーリアホ好みの世界観が現れていたと思う。「羽衣」では森山さんと一緒にカウンターテナーが軽やかに舞い、バス・バリトンも最後は舞い、オケピでは細身のダンサーのようなクレマン・マオ・タカスもずっと踊っていた。この指揮者、後姿が私の知っているベジャール・バレエのダンサーによく似ているのだ。

サーリアホのオペラはこのように、シンプルで親密に演じられるのがいいのだと思った。全体として彼女のひどく繊細で壊れやすい心、微妙なバランスで成立しているカラス細工のような脆さを感じた。この世に存在するオペラはどこか油彩画的なのだが、金糸のタペストリーか、淡い色のみで描かれた古いフレスコ画のような気配が、このオペラにはあった。ピットから溢れ出す音も、舞台にいる人々の姿からも、本当に優しい心が伝わってきた。オペラのタイトルが示す「余韻」とは、私にとって「優しさ」に他ならなかった。

 

 

 

 

 


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