ネゼ=セガンが音楽監督になって8年目・3回目のフィラデルフィア管の来日公演。11/4のサントリーホールと11/5の東京芸術劇場のコンサートを聴いた。11/4のプログラムはチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(vn リサ・バティアシュヴィリ)マーラー『交響曲第5番』。11/5はラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』(pf ハオチェン・チャン)とドヴォルザーク『交響曲第9番「新世界から」』。スタンダードな名曲コンサートのプログラムだが、両日とも新鮮な感動を得た。
ヴァティアシュヴィリとネゼ=セガンはヨーロッパ室内管弦楽とプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番と2番の録音を行っているが、今回の共演も、鮮烈で細部まで輪郭のはっきりしたソロと壮麗なオーケストラのサウンドが好相性で、今年に入ってから何度か聴いたチャイコフスキーのvnコンチェルトの中でも最も心を動かされた。改めて、とんでもない技巧が詰め込まれた曲だと思い知る。音圧の強い濃密なヴァティアシュヴィリのソロが耳に焼き付いて、しばらくこの曲の色々なメロディが頭から離れなかった。卓越したソロに、ネゼ=セガンもひざまずくポーズで敬意を表した。
マーラー5番は、総じて指揮者の強い主張を感じない演奏だったが、そのことが逆に衝撃的だった。ネゼ=セガンは透明な触媒となって、最大限に「フィラデルフィアの音」を作り上げているようで、明るく自然な音楽の中にはいくつもの啓示が含まれていた。デラックスで、ゴージャスで、癒しさえ感じられれるマーラーに、オーケストラを聴くとはどのような体験か、ということを改めて考えさせられたのだ。
フィラデルフィア管は世界でも指折りの一流オケであると同時に、地域に根付いたアウトリーチ活動を積極的に続けており、街のコミュニティ・センターや学校、病院などでも演奏会を行っている。ペンシルベニア州の人々がこのオーケストラを聴くのと、たくさんの在京オケを聴き比べている東京のクラシック・ファンとでは、恐らく聴き方が全く違うはずだ。ネゼ=セガンのマーラーは、何代も定期会員として地元のホールの客席を埋め尽くしてきた聴衆の、幸せな時間を思い起こさせた。人生の喜びや悲しみをコンサートに行くことでともに味わってきた、佳きアメリカ人の姿というものを想像したのだ。
ネゼ=セガンはもちろん、凡庸な指揮者ではない。途轍もない器の持ち主だ。ドビュッシーの「海」を指揮するにあたり、楽譜にいくつもの年代を書き込んでいるインタビュー映像を見たことがある。違うオケと演奏するたび、どのような編成でやったか、準備していた演奏効果が出せたか、反省点はどこであったか克明に記していた。刻苦勉励の人であり、過ぎ去った時間を無駄にしない人だ。そのようにして作り上げてきた音楽は、指揮者の強い主張を打ち出すものではなく、一人でも多くの聴衆の心を揺り動かすものとして再現される。
マーラーにしても、二日目のドヴォルザーク「新世界」にしても、宝石のように輝くディテールがあり、各パートの真剣な取り組みがあったが、それは知性的であるというより、ハートに響く美しい合奏だった。他の人がどう聴いたかは分からないが、知的に聴くこともできるし、心の癒しとして聴くこともできる演奏だったと思う。個人的には「共生」とか「共存」といった言葉が脳裏に浮かんだ。フィラデルフィア管の誕生以来、彼らの演奏を聴いてきた無数の人々…既にお墓に入った人も含めて…のことを考えた。彼らのサウンドを聴くのが楽しみで、コンサートを指折り数えて心待ちにしていた人々や、家族や大切な人にチケットをプレゼントしてきた人々のことを想像した。
マーラーにしても、二日目のドヴォルザーク「新世界」にしても、宝石のように輝くディテールがあり、各パートの真剣な取り組みがあったが、それは知性的であるというより、ハートに響く美しい合奏だった。他の人がどう聴いたかは分からないが、知的に聴くこともできるし、心の癒しとして聴くこともできる演奏だったと思う。個人的には「共生」とか「共存」といった言葉が脳裏に浮かんだ。フィラデルフィア管の誕生以来、彼らの演奏を聴いてきた無数の人々…既にお墓に入った人も含めて…のことを考えた。彼らのサウンドを聴くのが楽しみで、コンサートを指折り数えて心待ちにしていた人々や、家族や大切な人にチケットをプレゼントしてきた人々のことを想像した。
そうした感想は、当然クラシックのコアな聴衆とはかけ離れたものかも知れない。ネゼ=セガン自身はどのように音楽を聴いてもらいたいと思っているだろうか。彼の姿を見ていると、半分はミーハーな気持ちで「アイドルだ」と思う。エゴを超越した無私の心で、世界全体を明るくしようとする姿勢が音楽から感じられる。生きていることで、時間とともに欠けていくものや失われていくものがあり、やがて消えてなくなる自分自身というものが存在する。絶望はしたくない。コンサートの記憶というのは、香りのように一瞬で時間を飛び越え、幸福だった過去を思い出させるのだ。
11/5の前半に演奏されたラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」は、このオーケストラのためにあるような曲だった。ロマンティックでノスタルジックで、ロシアとアメリカの「大陸的」なスケール感がある。ハオチェン・チャンは強靭な指で実存主義者のソロを奏で、クラッシュするようなオケとの瞬間が劇的だった。アンコールに弾いたショパンのノクターン作品9-2は、恐らくこの日に最もふさわしい曲だったと思う。あの誰もが知る名曲が、格別にチャーミングに聴こえ、オケの何人かのメンバーが涙ぐんでいる様子が一階席から見えた。指揮台に座って、ハオチェンを微笑みながら見守っているネゼ=セガンも、寛大で優しい神様のようだった。響き渡る音楽の背後にある、膨大な世界を思った特別なコンサートだった。
11/5の前半に演奏されたラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」は、このオーケストラのためにあるような曲だった。ロマンティックでノスタルジックで、ロシアとアメリカの「大陸的」なスケール感がある。ハオチェン・チャンは強靭な指で実存主義者のソロを奏で、クラッシュするようなオケとの瞬間が劇的だった。アンコールに弾いたショパンのノクターン作品9-2は、恐らくこの日に最もふさわしい曲だったと思う。あの誰もが知る名曲が、格別にチャーミングに聴こえ、オケの何人かのメンバーが涙ぐんでいる様子が一階席から見えた。指揮台に座って、ハオチェンを微笑みながら見守っているネゼ=セガンも、寛大で優しい神様のようだった。響き渡る音楽の背後にある、膨大な世界を思った特別なコンサートだった。