新日本フィル×尾高忠明氏によるメンデルスゾーン、モーツァルト・プロ。この日に都内感染者が連続500人越えとなり、夕方から都知事がTVで外出自粛を強くアピールしたためか、会場であるトリフォニーホールは4割程度の入り。東京のどのオーケストラでも定期会員の演奏会離れが悩みの種となっている。
しかし、コンサートの内容は大変貴重で、忘れがたいものとなった。
オーケストラのメンバーが空席の多い会場に登場するとき、いつも「がっかりしていないかな」と心配になる。尾高先生は穏やかな表情でメンデルスゾーン序曲『静かな海と楽しい航海』を振り始めた。2年前の東京国際音楽コンクールの指揮部門の課題曲で、沖澤のどかさんが素晴らしい演奏をして優勝したことを思い出す。メンデルスゾーン19歳のときの作曲だが、ホルンや木管やコントラバスの書き方が「タンホイザー序曲」と似ていることに気づいた。ワーグナーはメンデルスゾーンのネガティヴ・キャンペーンに執心していたことでも有名だが(同じくユダヤ人マイアベーアもワーグナー禍を受けた)演奏効果の面でメンデルスゾーンの創意工夫がほぼ丸ごと使われている印象だ。もちろんワーグナーの方がだいぶ後になる。10代のメンデルスゾーンの天才ぶりと、隙のないオーケストレーション、決して止まることのない躍動的なメロディの嵐に驚く。幽玄な絵画を連想させる「静かな海」から、ドラマティックな陰影に富んだ「楽しい航海」へ続く流れが最高だった。描かれているのは情景か、心象か。ゲーテの二編の詩をもとにメンデルスゾーンはこの曲を作った。オーケストラは広大な海を表現し、太陽の光や風や香り、航海する人の心理までを生き生きと描き出した。
モーツァルトの『協奏交響曲』が始まるとき、わっとステージが明るくなった感じがして驚いた。ヴァイオリンの成田達輝さん、ヴィオラの東条慧さん、尾高先生のに3人が笑顔で登場し、その笑顔で舞台全体がスパークした印象があったのだ。前方で鑑賞していたため、眩しい光彩を浴びるような感触だったが、ソリスト二人の演奏も陽光のようだった。指揮者や共演者によってオーロラの如く表情を変える成田さんのヴァイオリンが、東条さんとの共演で生き生きとした弾力性を帯び、ソリスト同士の快活な対話が展開した。東条さんの演奏を聴くのは初めてだったが、海外で研鑽を積まれ、プロフィールによると2021年からデンマーク王立管弦楽団の首席奏者として使用期間を開始されるとのこと。つむじ風のようなアーティスト・パワーの持ち主で、彼女の演奏会なら何でも聴いてみたいと思わせた。2楽章のアンダンテは暗鬱な音楽で、ベジャールが『バレエ・フォー・ライフ』でこの部分を虫籠に自らとらわれていく夏の虫のような少年たち(?)の場面で面白く使っていたことを思い出した。
ウィーン・フィルの来日のあと、都響、読響、新日フィル、日フィル、ピットでの東フィルを聴き、在京オケの演奏会こそ聴かなければならないと思った。この状況下でウィーン・フィルを聴くことは「非日常的な」体験だったが、オーケストラの内側はつねに日常で、むしろ地味なものだ。ウィーン・フィルにしても、大部分は自分たちの劇場のピットで演奏している。派手か地味かを決めるのは聴衆からみた価値観であって、演奏家にはそれほど関係ない。そうした心境に立ち返って聴く在京オケの演奏は、尊敬に値するものばかりだった。別のオーケストラのプレイヤーにも取材する機会もあり、オケの楽員というのは凄い人たちだと思った。経験豊富で幼少期からトレーニングを積み、キャリアを決めるためのいくつもの岐路に立たされ、濃厚な人生を生きている。そうした立派な人々を「束ねる」指揮者というのは、なかなか緊張感のある仕事だと思った。
「あなたはどういう音楽人生を生きてきましたか?」と指揮者は一人一人のプレイヤーにインタビューしている時間はない。音楽家には音楽家同士の言葉にならない合意の地点がある。ジョン・マウチェリの著作『指揮者は何を考えているか』をずっと読んでいて、リアルで時に辛辣なクラシックの現実に衝撃を受けたが、マウチェリが語るように「指揮者は一種の錬金術を使っている」のだと確信する。
指揮者はどんなふうにだってオケを支配できる。エキセントリックな奇想で染め上げたり、玩具の戦艦で遊ぶ子供のようにサウンドを配置し、「ずどーん」「ばきゅーん」と人柱を使うことも出来る。そんなとき忘れてはいけないのは、音を出す演奏家たちは成熟した大人だということである。
尾高先生の指揮は、オーケストラを聴き始めてからずっとミステリーだった。人生で一番感動したのは、2013年か2014年に聞いた読響とのマーラー9番で、一種の究極体験だった。あのとき何故あんなにも魂を持っていかれたのか言葉で正確に表すことが出来ない。何かをぎゅっと掴んで支配しているというより、違う錬金術があったと思う。高遠で高貴で、一人一人の演奏家の精神の中にある青い炎が大きく燃え上がってくような世界だった。それがどのようなテクニックなのか、客席から聴いていて分からない。神秘というしかないのだった。
恐らく非常に緻密に準備された後半のメンデルスゾーンの『スコットランド』は圧巻で、オーケストラの全パートから飛び出してくる情熱が凄かった。2020年という年に演奏家が晒された不条理を思い、難しいスコアから均整以上の新しい価値が飛び出してくるのを感じた。なんというか、1楽章からとてもバンキッシュな演奏に聴こえたのだ。コンサートマスターの崔さんと尾高さんのアイコンタクトに、一言では言えない合意があった感じがした。メンデルスゾーンは天才で、あんな卓越した知能の持ち主は限られた年数しか生きていられないと思う。そんな傑作を数学的に演奏するのか、一縷の隙も無い「褒められる」演奏をするのか…恐らくその日その時にしかない正解があるのだろう。翌日にも同じ演奏会があり、別のものになっていたかも知れない。
まばらなトリフォニーホールの前から12列で聴く『スコットランド』は、ほとんどロック・ミュージックだった。自分はロックのライターだったから、このジャンルを一方的に軽んじられるのは嫌だ。破壊とトラブルメーカーの精神が、閉塞した世界に風穴を開ける音楽がロックだ。
コロナで死が身近に感じられるようになった分、時間はもう余り残っていないのだから、物事を本質的に感じたいと思うようになった。うわべだけ整えられた、「凄い」と言わせて相手を屈服させようとする音楽より、何かもっと凄いものが指揮者とオーケストラの間にはある。
尾高先生の人間としての「粋」、指揮者の騎士道に感動したコンサートでもあった。
しかし、コンサートの内容は大変貴重で、忘れがたいものとなった。
オーケストラのメンバーが空席の多い会場に登場するとき、いつも「がっかりしていないかな」と心配になる。尾高先生は穏やかな表情でメンデルスゾーン序曲『静かな海と楽しい航海』を振り始めた。2年前の東京国際音楽コンクールの指揮部門の課題曲で、沖澤のどかさんが素晴らしい演奏をして優勝したことを思い出す。メンデルスゾーン19歳のときの作曲だが、ホルンや木管やコントラバスの書き方が「タンホイザー序曲」と似ていることに気づいた。ワーグナーはメンデルスゾーンのネガティヴ・キャンペーンに執心していたことでも有名だが(同じくユダヤ人マイアベーアもワーグナー禍を受けた)演奏効果の面でメンデルスゾーンの創意工夫がほぼ丸ごと使われている印象だ。もちろんワーグナーの方がだいぶ後になる。10代のメンデルスゾーンの天才ぶりと、隙のないオーケストレーション、決して止まることのない躍動的なメロディの嵐に驚く。幽玄な絵画を連想させる「静かな海」から、ドラマティックな陰影に富んだ「楽しい航海」へ続く流れが最高だった。描かれているのは情景か、心象か。ゲーテの二編の詩をもとにメンデルスゾーンはこの曲を作った。オーケストラは広大な海を表現し、太陽の光や風や香り、航海する人の心理までを生き生きと描き出した。
モーツァルトの『協奏交響曲』が始まるとき、わっとステージが明るくなった感じがして驚いた。ヴァイオリンの成田達輝さん、ヴィオラの東条慧さん、尾高先生のに3人が笑顔で登場し、その笑顔で舞台全体がスパークした印象があったのだ。前方で鑑賞していたため、眩しい光彩を浴びるような感触だったが、ソリスト二人の演奏も陽光のようだった。指揮者や共演者によってオーロラの如く表情を変える成田さんのヴァイオリンが、東条さんとの共演で生き生きとした弾力性を帯び、ソリスト同士の快活な対話が展開した。東条さんの演奏を聴くのは初めてだったが、海外で研鑽を積まれ、プロフィールによると2021年からデンマーク王立管弦楽団の首席奏者として使用期間を開始されるとのこと。つむじ風のようなアーティスト・パワーの持ち主で、彼女の演奏会なら何でも聴いてみたいと思わせた。2楽章のアンダンテは暗鬱な音楽で、ベジャールが『バレエ・フォー・ライフ』でこの部分を虫籠に自らとらわれていく夏の虫のような少年たち(?)の場面で面白く使っていたことを思い出した。
ウィーン・フィルの来日のあと、都響、読響、新日フィル、日フィル、ピットでの東フィルを聴き、在京オケの演奏会こそ聴かなければならないと思った。この状況下でウィーン・フィルを聴くことは「非日常的な」体験だったが、オーケストラの内側はつねに日常で、むしろ地味なものだ。ウィーン・フィルにしても、大部分は自分たちの劇場のピットで演奏している。派手か地味かを決めるのは聴衆からみた価値観であって、演奏家にはそれほど関係ない。そうした心境に立ち返って聴く在京オケの演奏は、尊敬に値するものばかりだった。別のオーケストラのプレイヤーにも取材する機会もあり、オケの楽員というのは凄い人たちだと思った。経験豊富で幼少期からトレーニングを積み、キャリアを決めるためのいくつもの岐路に立たされ、濃厚な人生を生きている。そうした立派な人々を「束ねる」指揮者というのは、なかなか緊張感のある仕事だと思った。
「あなたはどういう音楽人生を生きてきましたか?」と指揮者は一人一人のプレイヤーにインタビューしている時間はない。音楽家には音楽家同士の言葉にならない合意の地点がある。ジョン・マウチェリの著作『指揮者は何を考えているか』をずっと読んでいて、リアルで時に辛辣なクラシックの現実に衝撃を受けたが、マウチェリが語るように「指揮者は一種の錬金術を使っている」のだと確信する。
指揮者はどんなふうにだってオケを支配できる。エキセントリックな奇想で染め上げたり、玩具の戦艦で遊ぶ子供のようにサウンドを配置し、「ずどーん」「ばきゅーん」と人柱を使うことも出来る。そんなとき忘れてはいけないのは、音を出す演奏家たちは成熟した大人だということである。
尾高先生の指揮は、オーケストラを聴き始めてからずっとミステリーだった。人生で一番感動したのは、2013年か2014年に聞いた読響とのマーラー9番で、一種の究極体験だった。あのとき何故あんなにも魂を持っていかれたのか言葉で正確に表すことが出来ない。何かをぎゅっと掴んで支配しているというより、違う錬金術があったと思う。高遠で高貴で、一人一人の演奏家の精神の中にある青い炎が大きく燃え上がってくような世界だった。それがどのようなテクニックなのか、客席から聴いていて分からない。神秘というしかないのだった。
恐らく非常に緻密に準備された後半のメンデルスゾーンの『スコットランド』は圧巻で、オーケストラの全パートから飛び出してくる情熱が凄かった。2020年という年に演奏家が晒された不条理を思い、難しいスコアから均整以上の新しい価値が飛び出してくるのを感じた。なんというか、1楽章からとてもバンキッシュな演奏に聴こえたのだ。コンサートマスターの崔さんと尾高さんのアイコンタクトに、一言では言えない合意があった感じがした。メンデルスゾーンは天才で、あんな卓越した知能の持ち主は限られた年数しか生きていられないと思う。そんな傑作を数学的に演奏するのか、一縷の隙も無い「褒められる」演奏をするのか…恐らくその日その時にしかない正解があるのだろう。翌日にも同じ演奏会があり、別のものになっていたかも知れない。
まばらなトリフォニーホールの前から12列で聴く『スコットランド』は、ほとんどロック・ミュージックだった。自分はロックのライターだったから、このジャンルを一方的に軽んじられるのは嫌だ。破壊とトラブルメーカーの精神が、閉塞した世界に風穴を開ける音楽がロックだ。
コロナで死が身近に感じられるようになった分、時間はもう余り残っていないのだから、物事を本質的に感じたいと思うようになった。うわべだけ整えられた、「凄い」と言わせて相手を屈服させようとする音楽より、何かもっと凄いものが指揮者とオーケストラの間にはある。
尾高先生の人間としての「粋」、指揮者の騎士道に感動したコンサートでもあった。