小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京交響楽団×ジョナサン・ノット マーラー『交響曲第6番《悲劇的》』

2023-05-23 03:59:23 | クラシック音楽
衝撃の『エレクトラ』から一週間後、ノットと東響のマラ6をサントリーホールで聴く。交響曲の前に、リゲティの『ムジカ・リチェルカータ 第2番』が小埜寺美樹さんのピアノで演奏された。不安な気持ちを掻き立てる3分間のこの曲を聴くと、キューブリックの最後の映画『アイズ・ワイド・シャット』を思い出す。映画の中で、このリゲティの奇妙な小曲が何度も流れていた。虚空からもぎ取られたような音が、静かに消え行った後に、マーラーが続けて演奏された。

マーラー6番は聴くたびに、過激な自己崩壊へ向かっていくマーラーの人生の道程を想像してしまうが、尊大でヒステリックな名指揮者でもあったマーラーは、この曲で作曲家としての威光を示そうとしたのではないか…と冒頭からしばらく聴いて思った。しかし、全くそうではない。混乱と混沌が怪物的な知性によって、病に近いひとまとまりの絵巻を繰り広げている。
マーラーの交響曲すべてがそうであるように、トランペット奏者には胃痛が起こるようなプレッシャーが与えられる。軍靴がザッザッという音を立て行進するような冒頭から、懐かしい山々の稜線のような豊かな旋律へとつながっていき、それらは表面上は名曲としての威光を放ちかけながらも、奇妙に堕落した(?)展開を見せていくのだ。カウベルは二階L席側のドアの前に設置され、そこから子供が眠るときにみる夢のように鳴っていた。
マーラーは、意識と無意識、聖と俗、現世と涅槃を横断しながら曲を巨大化させていった芸術家で、聴く者を大いに当惑させ、恐らく演奏家も(慣れているとはいえ)当惑させる。ノットの指揮は、マーラーの「シンフォニーたるもの、英雄的ではありたいが、そう振舞った瞬間にそれは嘘になるのだ」とでも言いたげなこじらせ感を、当然のように自在に操っており、魔術師のようだった。

6番の中に秘められた「眠り」のようなまどろみと、それを邪魔する躁病的な音楽との相克も鮮やかだった。サイレンのように繰り返される不幸なマーチは「生きている限り安息の地など存在しない」と言っているかのようで、創造と破壊が交互に行われているような奇妙な感覚を引き起こす。弦のピツィカートがチクタクという時限爆弾の音に聴こえたかと思うと、不意打ちのような懐かしい子守歌が雪崩をうつという奇妙さなのだ。東響の多彩な色彩感、重層的なサウンド、リズム感、劇的表現が素晴らしい。

スケルツォ→アンダンテ・モデラートの順で演奏され、個人的にこの順番が好きなので嬉しかった。初版稿はこの順だが、初演の際にスケルツォが後になった。アンダンテ・モデラートの催眠的な美しさはノットの棒によって最大限に引き出され、全身が別世界へと引き込まれるようだった。バーンスタインはここで泣きながら振ったし、晩年近くのアバドは「ここは、人間皆が辿り着く場所だよ」というような清々しい表情で振った。木管のアンサンブルが野辺の送りのようで、それに応える弦と金管の大合奏が巨大な波のように思われた。アンダンテ・モデラートを聴くと、いつも黒い棺の乗った小舟が霧の中に運ばれていく映像が脳裏に浮かぶ。

生は甘い…死も甘い。生は過酷だ。愛を得て愛を奪われ、9番の終楽章を書いたマーラーの人生を想った。スケルツォでは、変形された軍隊のマーチが死の舞踏のようなワルツになる。目に見えない次元がいくつも重ねられている。6番を聴くと、終戦の年に父親の実家で「二階で眠っていると一階で軍靴が歩く音が聞こえた」という話をいつも思い出すのだが、それは戦死した叔父の足音だったのではないかというのだ。

当時のマーラーは時代遅れになりかけた作曲家で、彼自身が「弟子のシェーンベルクの時代がやってくる」と語っていた。しかしながら、マーラーのこの奇矯さは永遠に新しく、その美もまた同じなのだった。それは当然のことで、マーラーはただひとつの明解な目的を持って作曲をしていたからだ。「私は人類のために(未来永劫)、自分に与えられた知性を使う」という目的だ。

フィナーレ楽章では有名な木製ハンマーが登場する。巨大なものが使われることもあるが、この日のハンマーは比較的小ぶりで、それでも結構な衝撃があった。あのハンマーが意味するところは色んなふうに語られており、妻のアルマ自身も語っているが、アルマは結構嘘をつくので全部は信用できない。私はあの衝撃音は、幼い頃から兄弟の死を看取ってきたグスタフの、「もうたくさんだ。私は死ぬことにする」「いや生は素晴らしい。私は生きることにした」という、矛盾した決意の音に聴こえる。この世界に生まれ落ちてきたショックを引きずり続け、つねに不安に脅かされていたマーラーが、アルマ一人に救済を求めたとしても、そこには安息の地はなかったのかも知れない。

阿片窟に迷い込んだかのように始まる魔術的なフィナーレ楽章は、蛇行と未練を繰り返しながら、自滅的としか言いようのない終わり方をする。破壊的な激しさが持続し、チェレスタとハープの蠱惑的な音が、行き着く先は地獄か天国か大いに惑わせながら、一瞬大団円のように見せかけつつ、葬送音楽のような金管群のしめやかな合奏に続き、「トスカ」の処刑の銃声のような衝撃的なトゥッティで終わる。このような演奏の後では、フライングブラボーも起こらない。長い静寂。喝采はなかなか止まず、ノットへの祝福の歓声がホールに響き渡った。






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