マニュエル・ルグリがウィーン国立バレエ団の若手ダンサーと、ロイヤル、ボリショイのスター・ダンサーと踊るルグリ・ガラのBプログラムを観た。
このガラ公演、本当に観てよかった。私がルグリという芸術家に対して抱いていた印象が、誤った方向で完結するのを止めてくれた。
オペラ座現役時代、ルグリは完璧なバレエの美の具現者で、誰からも賞賛される大スターで、それゆえに個人的な思い入れを抱きづらかった。ルグリと同世代にはローラン・イレールがいて、同じ美男エトワールでもイレールのおっとりとした雰囲気に癒された。しばらくすると、ルグリより20歳年下のマチュー・ガニオが現れた。ガニオの初々しさに対して、相手役のオレリー・デュポンは「何よ、あんたみたいな若僧」といったクールな表情を見せ、ルグリと踊るときのオレリーは尊敬100%といった感じになるのだったが、そんな可哀そうなガニオがますます気に入り、ルグリは雲の上の人のままだった。
文句なしのエリートに対して怖気づいてしまうのは私の癖で、アートの第一線の世界で活躍しているのは皆エリートなのだから矛盾しているとも言えるが、ルグリに対しては一貫して畏れ多さを感じていた。2000年のバレエ・フェスティバルのときに一度だけインタビューしたが、そのときの超クールな印象も大きかった。
人の印象というのは山と同じで、見る方向によって形が変わる。ルグリは同じ人であり、その一方で大きく変わったのだと思う。今回のガラ公演で、彼の顔が以前とは別人に見えた。こんなに優しくて温かい表情をする人だったのか…冷淡な『オネーギン』そのものだったルグリのイメージが覆った。
この公演では、ルグリが往年のオペラ座のエトワール、イザベル・ゲランと踊ることも大きな話題だった。ゲランの名前を再び聞くこと自体が奇跡のようにも思える。今よりダンサーの引退の年齢が早かった時代で、40歳でオペラ座を去っていた。引退から12年後の2014年、ルグリの誘いによって復帰したという。
Bプロで二人はプティの『ランデヴー』とパトリック・ド・バナが振り付けた『フェアウェル・ワルツ』を踊った。プティのある時代の作品の「香り」を再現するのに、ゲランでなければ醸し出せないものがあった。『フェアウェル…』はルグリとゲランの実人生の延長にあるものを暗示しているようで、形ではない見えない何かを、厳選された動きで表現しているようだった。深い詩情があり、表面的なものを越えた踊り手の真髄を見せられた気分だった。二人とも完璧に美しく、その美しさの源泉にあるものは無限の豊かさだった。
ダンサーは普通の人の何倍もの客観性を求められる職業で、「もう自分を見せられない」と思ったときに観衆の前から姿を消す。その「踊る人と見る人との境界」が変化しているとはっきり感じる。そうでなければ、ルグリより一歳年上のアレッサンドラ・フェリは10年のブランクを経て復帰しなかっただろう。ただ「踊りたい」という情熱だけではない、確実にこの世界に必要とされている表現がまだ存在する。
ラストで見たルグリのソロ『Moment』は、ダンサーの凄味と存在意義を伝える、新しい次元のダンスだった。ウィーン国立バレエ団の専属ピアニスト、滝澤志野さんが弾くバッハとともに、ルグリが見せる動きは無垢で純粋で、ダンサーの長い歴史を感じさせると同時に、生まれたばかりの魂の喜びに溢れていた。時間とは重力なのではない…人間の内側にある無限の自由が、ルグリのダンスから伝わってきた。彼のことをダンサーとして心から好きになった瞬間だった。
ロイヤル、ボリショイのカップルは輝かしい演技だった。マリアネラ・ヌニェスはライブビューイング映画で頻繁に見るが、生の舞台では久しぶりのような気がする。ムンタギロフも美しさを増していて、『ジゼル』と『ドン・キホーテ』では陰陽の魅力を見せた。花火のような鮮烈さだった。
ボリショイ組は、6月の来日公演でもベストな演技を見せたスミルノワとチュージンがラコットの『ファラオの娘』とバランシンの『ダイヤモンド(ジュエルズ)』を踊った。スミルノワは若くしてベテランの境地に達していて、ストイックな美しさを湛えた身体のラインと、深い静寂を感じさせる存在感が圧巻だった。チュージンはダンス―ル・ノーブル路線をますます究め、見た目もルグリとそっくりになってきた。素朴なイメージが強かったが、ここ数年で驚くほど垢ぬけて、スミルノワとのパートナーシップには最早クラシックの「極致」を感じさせる。ムンタギロフにしてもチュージンにしても、どこか中性的な透明感があるのは、人類の「進化」のようにも思えてしまう。
ウィーン国立バレエ団のダンサーたちは個性豊かで、最新のコンテンポラリーではバレエ団のいい日常が伝わってきた。ルグリのリーダーシップも良いのだろう。抑えつけるような感じがなく、個性と自発性を重んじているように思えた。20歳の若手デニス・チェリェヴィチコの伸び伸びとしたジークフリートが印象に残ったが、やんちゃで型破りなダンサーも、ルグリは「オペラ座ではそんなふうには踊らない」などとは指導しないのだろう。親心とか父性とか、そういうものも育っているのかも知れない。
パトリック・ド・バナとエレナ・マルティンのベテラン組の気迫も素晴らしかった。
このガラ公演、休憩は一回のみで約3時間半というボリュームで、これだけ充実したプログラムを4日連続で踊るダンサーには感謝と尊敬しかない。8/25の最終日はAプログラムが上演される。卓越したダンサーのパフォーマンスと、いよいよ深まっているルグリの生き方を受け取った二日目の公演だった。
このガラ公演、本当に観てよかった。私がルグリという芸術家に対して抱いていた印象が、誤った方向で完結するのを止めてくれた。
オペラ座現役時代、ルグリは完璧なバレエの美の具現者で、誰からも賞賛される大スターで、それゆえに個人的な思い入れを抱きづらかった。ルグリと同世代にはローラン・イレールがいて、同じ美男エトワールでもイレールのおっとりとした雰囲気に癒された。しばらくすると、ルグリより20歳年下のマチュー・ガニオが現れた。ガニオの初々しさに対して、相手役のオレリー・デュポンは「何よ、あんたみたいな若僧」といったクールな表情を見せ、ルグリと踊るときのオレリーは尊敬100%といった感じになるのだったが、そんな可哀そうなガニオがますます気に入り、ルグリは雲の上の人のままだった。
文句なしのエリートに対して怖気づいてしまうのは私の癖で、アートの第一線の世界で活躍しているのは皆エリートなのだから矛盾しているとも言えるが、ルグリに対しては一貫して畏れ多さを感じていた。2000年のバレエ・フェスティバルのときに一度だけインタビューしたが、そのときの超クールな印象も大きかった。
人の印象というのは山と同じで、見る方向によって形が変わる。ルグリは同じ人であり、その一方で大きく変わったのだと思う。今回のガラ公演で、彼の顔が以前とは別人に見えた。こんなに優しくて温かい表情をする人だったのか…冷淡な『オネーギン』そのものだったルグリのイメージが覆った。
この公演では、ルグリが往年のオペラ座のエトワール、イザベル・ゲランと踊ることも大きな話題だった。ゲランの名前を再び聞くこと自体が奇跡のようにも思える。今よりダンサーの引退の年齢が早かった時代で、40歳でオペラ座を去っていた。引退から12年後の2014年、ルグリの誘いによって復帰したという。
Bプロで二人はプティの『ランデヴー』とパトリック・ド・バナが振り付けた『フェアウェル・ワルツ』を踊った。プティのある時代の作品の「香り」を再現するのに、ゲランでなければ醸し出せないものがあった。『フェアウェル…』はルグリとゲランの実人生の延長にあるものを暗示しているようで、形ではない見えない何かを、厳選された動きで表現しているようだった。深い詩情があり、表面的なものを越えた踊り手の真髄を見せられた気分だった。二人とも完璧に美しく、その美しさの源泉にあるものは無限の豊かさだった。
ダンサーは普通の人の何倍もの客観性を求められる職業で、「もう自分を見せられない」と思ったときに観衆の前から姿を消す。その「踊る人と見る人との境界」が変化しているとはっきり感じる。そうでなければ、ルグリより一歳年上のアレッサンドラ・フェリは10年のブランクを経て復帰しなかっただろう。ただ「踊りたい」という情熱だけではない、確実にこの世界に必要とされている表現がまだ存在する。
ラストで見たルグリのソロ『Moment』は、ダンサーの凄味と存在意義を伝える、新しい次元のダンスだった。ウィーン国立バレエ団の専属ピアニスト、滝澤志野さんが弾くバッハとともに、ルグリが見せる動きは無垢で純粋で、ダンサーの長い歴史を感じさせると同時に、生まれたばかりの魂の喜びに溢れていた。時間とは重力なのではない…人間の内側にある無限の自由が、ルグリのダンスから伝わってきた。彼のことをダンサーとして心から好きになった瞬間だった。
ロイヤル、ボリショイのカップルは輝かしい演技だった。マリアネラ・ヌニェスはライブビューイング映画で頻繁に見るが、生の舞台では久しぶりのような気がする。ムンタギロフも美しさを増していて、『ジゼル』と『ドン・キホーテ』では陰陽の魅力を見せた。花火のような鮮烈さだった。
ボリショイ組は、6月の来日公演でもベストな演技を見せたスミルノワとチュージンがラコットの『ファラオの娘』とバランシンの『ダイヤモンド(ジュエルズ)』を踊った。スミルノワは若くしてベテランの境地に達していて、ストイックな美しさを湛えた身体のラインと、深い静寂を感じさせる存在感が圧巻だった。チュージンはダンス―ル・ノーブル路線をますます究め、見た目もルグリとそっくりになってきた。素朴なイメージが強かったが、ここ数年で驚くほど垢ぬけて、スミルノワとのパートナーシップには最早クラシックの「極致」を感じさせる。ムンタギロフにしてもチュージンにしても、どこか中性的な透明感があるのは、人類の「進化」のようにも思えてしまう。
ウィーン国立バレエ団のダンサーたちは個性豊かで、最新のコンテンポラリーではバレエ団のいい日常が伝わってきた。ルグリのリーダーシップも良いのだろう。抑えつけるような感じがなく、個性と自発性を重んじているように思えた。20歳の若手デニス・チェリェヴィチコの伸び伸びとしたジークフリートが印象に残ったが、やんちゃで型破りなダンサーも、ルグリは「オペラ座ではそんなふうには踊らない」などとは指導しないのだろう。親心とか父性とか、そういうものも育っているのかも知れない。
パトリック・ド・バナとエレナ・マルティンのベテラン組の気迫も素晴らしかった。
このガラ公演、休憩は一回のみで約3時間半というボリュームで、これだけ充実したプログラムを4日連続で踊るダンサーには感謝と尊敬しかない。8/25の最終日はAプログラムが上演される。卓越したダンサーのパフォーマンスと、いよいよ深まっているルグリの生き方を受け取った二日目の公演だった。