小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京・春・音楽祭 モーツァルト《レクイエム》(4/11)

2021-04-12 10:19:27 | クラシック音楽

『パルジファル』『ラ・ボエーム』などオペラの目玉公演の他、計画されていたコンサートとリサイタルの多くがコロナの影響で中止となった2021年の東京春祭。そんな中で開催された「合唱の芸術シリーズvol.8 モーツァルト《レクイエム》」は逆境の中にあってこそ真価を見せる芸術の力を証明する演奏会だった。

前半のシューベルト『交響曲第4番ハ短調《悲劇的》』から指揮者のただならぬ存在感に瞠目した。この一日のコンサートのために来日を果たしたシュテファン・ショルテスは、1949年生まれのベテランだが、指揮をする後ろ姿は20代の若者のように反骨精神に溢れ、ウィーン世紀末の表現主義の絵画のように歪んでいる。エゴン・シーレのデッサンのようなのだ。シューベルトの4番から、今まで聴いたことのない死の香りが感じられた。1楽章は天国への階段をせわしなく駆け上っていく運動のよう。ぶるぶると大柄な手を揮わせて、細かく拍節をとっている。強弱の付け方も繊細だが、全体としてあの身振りが何を引き出していたのか、客席からは分からなかった。

このタイプの芸術家は、芸術をすることなど何の重苦でもないのだ。ただ生きていることのほうが辛い。苦吟する背中を見て、直観的に思った。枝のような腕は天国へと届きつつあるが、ひとつの楽章が終わるたびに投げやりといっていいほど乱暴な仕草でだらりと放り出される。「この世界では誰もが死刑囚だ」と言っているようだった。それなのに、音楽はひどく天上的なのだ。都響とは2011年に共演している(?)らしいが、マエストロの心の裏側までも読むような読むようなコンマスの矢部達哉さんのリードが流石だった。

シューベルトの「私はこの世のものではないような気がする」という言葉が好きだ。自己愛すれすれのような言葉だが、ピアノの即興曲を聴いていてもシンフォニーを聴いていても、「それは、そうだっただろうな」と思う。肉体がある、というリアリティとは別のところに、もうひとつ自己の本質がある。それが天国なのかどうかは分からないが、この世界でないことは確かなのだ。モーツァルトもそうした感覚を持っていた。

ウィーンという土地がそのような霊気を放っている場所なのだろう。ショルテスは何とウィーン少年合唱団出身なのだそうだ。2008年の来住千保美さんのルポによると、当時支配人のポストについていたエッセン・アールト・ムジークテアターが最優秀オペラ劇場に選ばれ、同年の最優秀指揮者にも選出されている。ベーム、カラヤンの助手を務めていた経歴、「オペラ支配人としてのノウハウ」はゲッツ・フリードリヒから学び(!)、あのベルリン・コーミッシェ・オーパーの面白い『魔笛』を演出したバリー・コスキーを早くから起用していたことなども記されている。指揮をする姿を見て「この人はとんでもないタカ派なのではないか」と思っていた予想は少なからず当たった。

後半のモーツァルト『レクイエム』は、生粋の「劇場の人」であったショルテスの面目躍如たる演奏で、ソリストと合唱の出来栄えも素晴らしかった。前述の来住さんの原稿によると、ショルテスは「オーケストラメンバーの嫌う分奏を徹底して行う」人で「決して好かれるタイプの指揮者ではない」そうだが、都響とのリハーサルはどのようなものだったのだろうか。勝手な思い込みだが、このレクイエムのすべてがショルテスの書いた書物のようで、演奏は指揮者が主役の映画のようだった。あまりに濃い。エゴや音楽の私物化ではなく、このように音楽とつながりあっている人がいることに驚いた。それは一種の「病」のようでもあった。

東京オペラシンガーズは全編にわたって高い水準のパフォーマンスを披露し、特に「ラクリモサ」での霧のような表現力は卓越していた。この状況で、準備も苦労が多かっただろう。合唱指揮は田中祐子さん。カーテンコールではショルテスも大満足の表情だった。ソプラノ天羽明恵さん、メゾ・ソプラノ金子美香さん、テノール西村悟さん、バリトン大西宇宙さんというスター・ソリストが並んだのも豪華なことだった。大西さんのバスの表現は驚異的で、ある種の殺気をもって音楽を引き締める。貴重な質感をもつ数少ない歌手だと改めて認識した。

反抗的な若者の背中を見せたショルテスは、横向きになると背中が曲がっていて、見る位置によって印象が全く違う。色々な意味で「この世的でない」余韻を残していった。2015年の新国の「ばらの騎士」でも色々な逸話があるマエストロらしい。その公演も観ているはずなのだが、個人的にはショルテスを初めて発見したコンサートとなった。心の傷口を思い切り押し広げて塩を塗り付けたような、思い切り好みのレクイエムだった。あまりいい表現ではないかも知れないが、自分もまた「この世のものではない」寄る辺なさをもつ聴き手として、生きるための救いや癒しを音楽に求めている。そうした願いに本質的に応えてくれるのが、このような演奏会なのだ。

都響は上野で聴くと別格の表情を見せる、ということも改めて実感した。近所なので何となくサントリーで聴くことが多かったが…この日も冴えた響きで、世界最高のオーケストラの「格」を聴かせてくれた。