マーラー交響曲第4番の印象が一気に塗り替えられた印象的な演奏会だった。サントリーホール2階RB席はステージ上手に近く、コントラバスの妖艶な音がよく響いてきた。尾高先生のマーラーは一度もハズレだと思ったことはない。いつも心が大きく揺さぶられる。4番は牧歌的で楽園的で「天国へ昇天していくこどもの心」を表徴している、というイメージが覆り、もっと成熟したマーラーの愛の音楽だと思った。親しみやすいどころか、作曲家の内奥の狂おしい熱と渇望感が猛っている、熱い火のような音楽に感じられたのだ。
ちょうど二日前にカーチュン・ウォンが振るマーラー10番のアダージョを聴いていた。精神的にも肉体的にも抜け殻になった晩年近くのマーラーが、いまわの際の叫びと狂おしい生への未練を封じ込めた曲で、ひきつった悲鳴のようでありながら、醜さより美しさが勝ち、これこそが人間のすべてだと思わせる。10番で直截的に描かれる破滅のストーリーは、妻アルマとの出会に端緒を発しているようで、「アルマ以前」からもマーラーの音楽に潜在していた。カーチュンは10番アダージョの前に、番号のない「交響詩 葬送」を演奏し、始まりと終わりは円環になっていたことを伝えてきた。
マラ4は最近都響も大野さんと名演を聴かせたが、新日本フィルも凄味があった。このオーケストラの技術の高さ、コンマスが導く合奏のセンスの良さには格別のものがある。特にここ2年程は、このオケでしか聴けない名匠のすごい芸を立て続けに聴かせてもらった。崔さんは本当に素晴らしいコンサート・マスターだと思う。2楽章では2挺のヴァイオリンを弾き分け、精緻で妖しい音を聴かせてくれた。
3楽章の「やすらぎに満ちて」のアダージョが、ひどく官能的だった。サントリーから帰宅してからバーンスタインやアバド、ハイティンクの演奏も改めて聴いてみたが、尾高さんほどの濃い色気はなかった。この夜の演奏を聴いて初めて感じた感触で、柔らかい手で包み込まれるような安心感もある。チェロの精妙さは筆舌に尽くしがたく、バスとの重なり合いも非常にデリケートなのだ。これはマーラーの心であり、マーラーの愛だ、と思うと、何と魅力的で素敵な男性なのだろうと思った。
芳香を放つバラのように咲き、魔法をかける3楽章は、何かを待っている。音楽の美しさに等しい、別の世界からやってくるもうひとつの美しさを待っているのだ。霊感が完全なものになるために、この世界には自分と等しい別の美があるはずだ…そんな予感に溢れていた。弦の優しさは、マーラーの当てずっぽうな憧れではなく「これこそが私自身の精神だ」と語りかけてくるようで、そこにアルマのような若くて美しい知性ある女性がやってくるのは当然のことだった。イメージは現実化する。美しい音楽は美しい女を引き寄せた。
10番のアダージョで突然の天変地異によって曲がひっくり返る件が、4番にも似た形で出て来る。すぐに心がいっぱいいっぱいになるので、どこかで唐突に「ぶっ壊れる」ことがマーラーの曲のシステムなのだ。
尾高さんは冷静にも見えたが、3楽章ではかなり覆いかぶさっていた箇所もあった。どういうリハーサルだったのか、音楽の中の高貴さ、詩情、崇高美、喜怒哀楽を超えた浄化の表現が卓越していた。オーケストラは音で光を表現できるほぼ唯一の手段だと思う。3楽章の終わりで見える光のめざましさに、言葉を失った。
マーラーの音楽は恐れを知らないほど自由だ。神経質で超過敏な精神が、自分をまったく変えてしまうほどのインパクトを待ち構えて、すべてを押し開いて待っている。危険な美が近づいてきて、予想していなかった毒を放って自分を破滅させても、実はそれこそが待ち望んでいたことなのだ。マーラーにとっては「自分を搔き乱してくれる未知のもの」こそが霊感の源で、霊感の枯れた芸術家ほど可哀想なものはない。自分の小さな心が壊れてもいい、愛を押し広げたとき、どんな破滅が起こるのか知りたい…5番の前の4番のシンフォニーには、そんな期待が詰まっているように聴こえた。
先月の都響のマーラー4番とは、全く違って聴こえたことにも驚いた。新日本フィルのプレイヤーは、正しい意味で芝居がかっていて、表情に富み味付けが濃く、一人ひとりがオペラ歌手のようでもあった。マーラー自身がオペラ指揮者であり、感情面で芝居がかったところのある人だった。そこで、やはり違う新しい物語が見えた。「この先、作曲家は自分の心の美に相応しい者と結びつき、その毒に殺される」その物語の序章としての4番に聴こえた。
4楽章ではソプラノ歌手の砂川涼子さんが、天国へ昇天していく子供の無邪気な心を歌った。子供っぽく歌ってはいけない子供の歌なのだが、砂川さんは「これ以外にはない」と思われる、悲哀と無常観を込めた声で歌われた。華やかさもあるが、何よりも深かった。歌詞の子供への同情と、マーラーへの同情、女性から与えられる小さきものたちへの強い愛が胸に響いた。こうした歌唱は、歌手自身の普段の生き方が出るのだろう。感動的だった。
作曲家の心に美がなければ、現実の美を引き寄せることは出来ない。現実の美は不確実性が高く、時々ひどい毒をもっている。作曲家に沈潜する美とは「才能」だ。才能がなければ苦痛もないが、作品も生まれない。ヴィスコンティが描いた『ヴェニスに死す』の主人公は、芸術家の正しすぎる姿だった。
アルマ・マーラー