小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

トーマス・アデスの音楽(1/15)

2021-01-19 10:39:11 | クラシック音楽
オペラシティの「コンポ―ジアム2020」の一日目「トーマス・アデスの音楽」。指揮者として登壇する予定だった作曲家本人が来日できず、沼尻竜典氏に変更となり、ソリストもリーラ・ジョセフォウィッツから成田達輝氏に変更された。オーケストラは東京フィル。
コロナの時代となり、「死」を身近に感じる生活をしているせいか、生きている間に聞く音楽は「腑に落ちる」ものだけでいい、と思うようになった。現代音楽で腑に落ちるのは、究極的にはメシアンと武満くらい。メシアンには「情」があり、武満さんには「綺麗さ・可愛さ」があるから。どんどん原始人化する耳が聴いたトーマス・アデスの音楽は、意外にも大きな魅力に溢れたものだった。

演奏されたのは『アサイラop.17』(1997) 『ヴァイオリン協奏曲(同心軌道)op.23』(2005) 日本初演となる『ポラリス(北極星)op.29』(2010)。この3つのオーケストラ&協奏曲を聴いた印象は、アデスは年々聴衆との接点ということを強く考えているのではないかということだった。

現代音楽では曲目解説が力づよい解釈の味方になる。評論家のポール・グリフィスの解説(訳・向井大策氏)は知的かつ詩的で、文系の人間にもすっと入り込むような表現だ。『アサイラ』について「…はじめ水中深くテューバを聴いているようだが、やがて作品全体から流れ着いた漂流物が陰気な波の上を浮き沈みしはじめる」という文は、茫洋と聴いているこちらに何某かのゲシュタルトを想像してよいという許可を与えてくれる。沼尻さんの指揮は素晴らしかったと思う。東フィルはここのところどの演奏会でも最高のサウンドを聴かせるが、アデスの曲も大変ゴージャスで豊かなイマジネーションを喚起させてくれた。勝手な想像だが、このサウンドスケープから1947年のロンドンの偶景というものをイメージした。1947年というのは、単にデヴィッド・ボウイが生まれた年で、まだ配給制が残っていた貧しい時代で、ロンドンの教会の鐘の音、煤にまみれた建物の色などが音のふしぶしから連想された。「アサイラ」はグリフィスによると精神病棟やクラブのダンス・フロアの寓意でもあるらしいから、フーコーの『監獄の誕生』等を引用をしたほうがいいのかも知れない。

休憩をはさんで『ヴァイオリン協奏曲《同心軌道》』が演奏された。ジョゼフォウィッツが弾くはずだった恐らく難解極まるソロ・パートを、成田達輝さんが楽し気に軽やかに弾いた。成田さんが弾くと、晦渋さが消え、この曲の魂にあるあっけらかんとした朗らかさのようなものが浮き彫りになるのだ。むしろ「癒し」のようなものさえ感じられる。後でアデスの指揮による演奏をチェックしたが、こちらの方が重々しく深刻な印象。
各楽章には「輪」「軌道」「回転」というタイトルが付けられ、それが天体の軌道をイメージさせた。英国には占星学学会の本部があり、妖精学や魔女研究の発達があり、アデスが学んだケンブリッジ大学には占星学の講座もある。アデスがグリフィスが語るように「参照先の幅広さと完璧性」をもつ作家なら、多くの体系をインスピレーションの源としているはずで、天文学や占星学もそこには含まれていると思う。二楽章「軌道」はコルンゴルトのコンチェルトを思い出した。旋律は似ていないが、どちらも星空を想起させる。

日本初演の『ポラリス《北極星》』では、その印象が決定的になった。バルコニーに並んだ12人の金管奏者は、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』の金管パートを思い出させ、中世の戦隊の号令のような逞しい音を出す。それにからみつくように、ステージの上のピアノとオーケストラは無数の星を擬音化したようなカレイドスコープ的な音を奏でる。「北極星とその他の天体」を、やけにシンプルに思い出させるのだ。それがキッチュではなく、神秘的で審美的に聴こえるのが作曲家の天才たる所以なのだろう。ラストに向かって金管は王者のように存在感を増し、ペンタトニックやホールトーンスケールの切れ端が宙を飛ぶ中、我が国の「君が代」めいたアンセムが揺曳した。

アサイラ、同心軌道、北極星…と作曲家の時系列での進展を聴くことのできた演奏会だったが、音楽の印象として「どんどんわかりやすくなってきいてる」のだった。わかりやすさの定義とは何かと問われれば、「腑に落ちる」の一言に尽きる。聴いていて楽しく、満足できる。命の危機を感じる時代に「ヒーリング」として感受することが出来た。
こうした現代音楽の演奏会で、オケが「やらされている感」丸出しだったら幻滅してしまうが…時折そうした糞真面目で艶のない秀才的な演奏を聴かされることもあるが…東フィルはそうではない。贅沢な音楽であり、豊かな霊感に溢れていた。こういうことをあっさりとやってのけるのは、彼らが特別なオーケストラだからだと思う。沼尻さんの指揮はハイセンスで、途方もない世界へと聴衆を連れていってくれた。マエストロへの拍手は止まらず、私も骨折した指を庇いながらしばらく手を叩き続けた。