小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

都響×インバル ベートーヴェン・プロ(1/19)

2021-01-20 16:12:39 | クラシック音楽
都響スペシャル、マエストロ・インバルとのベートーヴェン・プロ。東京芸術劇場でのマチネ公演で、久しぶりに芸劇の一階席で聴いた(後方)。何の符牒か、年末から続けて旧約・新約聖書と関わり合いのあるオペラやオラトリオを聴いていたせいで、インバルがエルサレム出身の指揮者であるということを強く思い出していた。BCJの『メサイア』『エリアス』、二期会の『サムソンとデリラ』…それらと、この1月の都響の二つのプログラムは、自分の中ではひとつのストーリーとなっている。
『エリアス』は、英名でエライジャ、東方教会系でイリヤとなる(『エリアス』のプログラムより)が、一番響きが似ているのは「エリアフ」ではないかと思った。「インバル」は芸名だが、エリアフは本名のはずで、もしかしたら「預言者」という意の男子の名なのでは…ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の3つの聖地であるエルサレムに生まれ育ったインバルは、親戚縁者にも宗教関係者が多く、自身も宗教的な環境で教育を受けた(『カディッシュ』上演時のインタビュー記事に詳しい)。

ベートーヴェンの『田園』は、自然な音楽だった。インバルは悠々とした姿で、オーケストラに全面的な信頼を置き、ところどころ激しい身振りも加えながら振っていた。一人ひとりのプレイヤーが真剣に「指揮者の意図のひとつも漏らさずに表現しよう」と取り組んでいた様子がうかがえる。インバルは地上の時間を超えたようなところにいる人だが、「高齢で足腰や耳が衰えているのでは」などという「誤解」が少しでもあってはならない…とオケが水をも漏らさぬ真剣さで演奏している。奇矯なところはなく、優美な広がりを持ち、全パートが隅々まで正確に鳴らしていた。インバルからつねにエキセントリックな「綺想」を聴こうとしていた時期もあったが、そういう心を見透かすかのように、表面的には「ノーマル」なベートーヴェンだった。

「瞑想的なベートーヴェン」だと思った。すべてがインバルの呼吸の中にあり、一人の人間の広大な意識の中に包まれていた。先日のブルックナー3番《ワーグナー》でもそのような感触を得たが、音楽そのものは勿論異なる。異なるが、どちらも時を超えた内的な結晶を保っている。時間とともに流れ出す「偶発的な多彩さ」を作っているのはオーケストラだ。宇宙創成からただ一瞬たりとも同じでない「今このとき」をインバルはどう創造したいのか…コンサートマスター矢部氏をはじめとする都響メンバーは高度な形で具現化していた。

インバルの指揮する姿が、改めて「美しい」と思えた「田園」でもあった。遠い場所にいる管楽器奏者にチャーミングに注意を促し、楽想が変化するくだりでは、地の神様を鎮めるような抑止的な動きをする。「私はすべての時間を愛していた」と、シルヴィ・ギエムは引退時のインタビューで語ったが、インバルもそのように時間を愛している。楽譜は石のように不動で、実演の音楽という時間芸術は無数の不確実性を孕むが、この日の都響の演奏は音楽の核にある「不動のもの」に触れていたと思う。

音楽の評論をやりたいと、それらしきことを始めてから久しいが、偉大な演奏からは毎回こちらの立場の「不確定さ」を思い知らされる。音楽の方は、不動で確信的なのに、自分は曖昧で現象的なことばかり追跡しようとしている。相手とは精神の大きさが違うのであって、こちらはまるで小さい。何かをかすめ取ろうとする泥棒のように思えることがある。
 
後半の7番は、苦悩する世界を前に、音楽が巨大な楽観を示していた。指揮者の矢崎彦太郎さんの著作『指揮者かたぎ』で、エルサレムの街角で迷彩服を着て自動小銃を持っていた兵士が、昨日一緒に演奏していたオーケストラのクラリネット奏者だったことが書かれている件があるが、エルサレムとはそのような場所であり、インバルはそうした複雑な都市で育った。敵対する軍に脅かされ「相手に信頼を置く」ということが、最もハードである環境で、宗教や神について内省を行っていた芸術家なのだ。人間がやがて行き着く場所を、人間の立場で、神のように考えた。(こう思うことがインバルを「神格化」しているのとは別だ、と認識する)

都響のインバルに対する尊敬と感謝の念は、オケの個性としてあるノーブルな気品を高め、時間とともに崇高さを増し、尋常ならざる空気の振動を創り出していた。「そのとき」に感じた感情はやがて揮発する…と今までニヒリスティックになっていた自分がいたが、もうそういう無意味な場所からは去らなければならない。ベートーヴェンは現実を描いたのではなく、今ここにはまだない、この先に訪れるべき黄金の夜明けを記したのだと実感した。

(東京都交響楽団のホームページより画像転載)