来日ツアー中のチョ・ソンジンの東京芸術劇場でのリサイタルを聴いた(5/17)。
前半はドビュッシーの『子供の領分』と『ベルガマスク組曲』。
ステージに現れたソンジンはいつものように上品で、集中力を高める表情をしたのち「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」を弾き始めた。
ドビュッシーがクレメンティを練習する子供の苦心惨憺をパロディにした右手の忙しい曲で、
左手の優しい単音と右手のつむじ風のようなパッセージが溶け合って、渦巻きのような音楽がピアノから立ち上った。ソンジンのピアノを聴くたびに不思議な印象を得るのだが、それは時折ピアニストが鍵盤を「打って」いるのではなく
テルミンか何かのように不思議な触覚で音を「引き出して」いるように見えることで、ピアノという楽器から想像以上の滑らかさや曲線的な表情が醸し出されるのだ。
のっそりとしたバス音から始まる「ジャンボーの子守歌」では、音階の魔術師であるドビュッシーの、単調に見えて複雑怪奇な世界を背後にもつ曲の魔性が明らかにされた。
優しい子守歌のモティーフが、催眠術をかけられたように全音階の階段を深く下っていく。その先に「眠りの世界」があるのだろうか。
眠りから覚めた小さな子供が泣きだすのは、黄泉の国から帰ってきた恐怖からなのかも知れない。
ソンジンの思慮深い音は、色々なことを想像させた。
「人形のセレナード」と「雪は踊る」で、ピアニストの霊感は最大限に高まり、あどけない楽想から広大無辺の意識の海が広がっていった。
ふと、自分が子供の頃毎日この曲を聴き、夢中になって練習をしていたことを思い出した。
EMIから出ていたサンソン・フランソワのアナログ盤と13歳のときに出会い、そこに収録されていた『子供の領分』と『ベルガマスク組曲』に魅了されたのだった。
その頃、「どの作曲家が一番きれいな曲を書くか」という序列を作るのが私の遊びで、13歳の自分にとってモーツァルトよりシューベルトが上で、シューベルトよりショパンが上位であったが、
突然現れたドビュッシーは、そのピラミッドの階級の遥か彼方に置かれた。これはいったい何なのだろうと、寝ても覚めてもドビュッシーのピアノ曲のことが頭から離れなかった。
「小さな羊飼い」は初心者でも弾ける曲で、これを放課後の音楽室に忍び込んで弾いたことを思い出した。家にはアップライトしかなかったので、グランド・ピアノでどういう音が鳴るのか試してみたかったのだ。
ソンジンの演奏を聴きながら、秋の夕暮れの音楽室を思い出し、古い時間が一瞬で蘇り自分のすべてになったことに驚いた。
『ベルガマスク組曲』も洗練された演奏だったが、「メヌエット」がこんな奇想天外な曲であったことに初めて気づかされた。
あの出だしの寄木細工のようなフレーズは、子供の頃から「どうしてああいうふうなメロディになるのか」不思議に思っていたが、ソンジンは平然と音符を支配し、いつの間にかシェヘラザードの踊りのように官能的に高まっていくエキゾティックな楽想を聴かせた。ひとしきりエロティックな昂揚を見せたあと、あの冷酷なグリッサンドで曲は終わるのだが、美女の半裸のダンスを見せられて「これでおしまいですよ」とカーテンがおろされた心地になってしまった。
「月の光」は人を狂わせる月光が降り注ぎ、チョ・ソンジンはどこかポリーニに似ていると思った。精緻で正確な演奏の中に「危ない」感覚を忍び込ませ、聴き手を夢中にさせる。
「パスピエ」のあとの『喜びの島』は花火のような鮮やかなヴィジョンが炸裂し、前半が終了。会場の熱気がものすごかった。
後半のショパン『バラード』全4曲は、ピアニストが誰でもこう弾けたらと羨むような演奏で、イマジネーションが求めるものを技術がすべて実現し、そこには微塵の妥協も感じられなかった。
Op.23の第1番はあらゆる演奏家に「不測の事態」が起こる難解な曲だが、ミスタッチの幽霊もソンジンの前では形無しで、あらゆるカオスを飲み込んで燦然と輝くピアノの贅沢な美が実現された。
さらに度肝を抜かれたのはOp.52の第4番で、あんな理路整然とした、同時に獰猛でもあるコーダを聴いたのは初めてだった。
あの最後の四つの和音は、棺に打ち付けられる釘のようだと毎回思うが、最後の和音でソンジンは椅子から腰を完全に浮かせて、全体重を鍵盤に乗せていたのだ。何も恐れるものはないドラマティックなエンディングで、それを支えているものの強さに感動した。
アンコールはいつものように完全な「第三部」で、モーツァルトのピアノソナタ第12番2楽章、リスト「マゼッパ」、「ラ・カンパネラ」等がきらびやかに演奏された。
それらを聴いて、まったくバラバラのことをしているのではなく、ピアニストの世界観が様式の異なるすべての楽曲に一つの統一感を与えている印象を得た。内観というか内省というか、「内側からの光」を感じる解釈で、自分自身の中にある静寂やインスピレーションと恐ろしく真剣に向き合っている。
ドビュッシーはトライアドとそれに続く全音階を「発見」したが、人類の記憶の古層にある音の感覚を「発掘」したのであり、新規の発明というよりも、考古学的な作業であったと思う。チョ・ソンジンのアプローチにも、そうした「時を超えた」無限への考察が感じられた。
情緒的にも感覚的にも大いに揺さぶられ、ピアノという楽器の魔性、それを扱うピアニストの果てしない可能性にただひれ伏した夜だった。
前半はドビュッシーの『子供の領分』と『ベルガマスク組曲』。
ステージに現れたソンジンはいつものように上品で、集中力を高める表情をしたのち「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」を弾き始めた。
ドビュッシーがクレメンティを練習する子供の苦心惨憺をパロディにした右手の忙しい曲で、
左手の優しい単音と右手のつむじ風のようなパッセージが溶け合って、渦巻きのような音楽がピアノから立ち上った。ソンジンのピアノを聴くたびに不思議な印象を得るのだが、それは時折ピアニストが鍵盤を「打って」いるのではなく
テルミンか何かのように不思議な触覚で音を「引き出して」いるように見えることで、ピアノという楽器から想像以上の滑らかさや曲線的な表情が醸し出されるのだ。
のっそりとしたバス音から始まる「ジャンボーの子守歌」では、音階の魔術師であるドビュッシーの、単調に見えて複雑怪奇な世界を背後にもつ曲の魔性が明らかにされた。
優しい子守歌のモティーフが、催眠術をかけられたように全音階の階段を深く下っていく。その先に「眠りの世界」があるのだろうか。
眠りから覚めた小さな子供が泣きだすのは、黄泉の国から帰ってきた恐怖からなのかも知れない。
ソンジンの思慮深い音は、色々なことを想像させた。
「人形のセレナード」と「雪は踊る」で、ピアニストの霊感は最大限に高まり、あどけない楽想から広大無辺の意識の海が広がっていった。
ふと、自分が子供の頃毎日この曲を聴き、夢中になって練習をしていたことを思い出した。
EMIから出ていたサンソン・フランソワのアナログ盤と13歳のときに出会い、そこに収録されていた『子供の領分』と『ベルガマスク組曲』に魅了されたのだった。
その頃、「どの作曲家が一番きれいな曲を書くか」という序列を作るのが私の遊びで、13歳の自分にとってモーツァルトよりシューベルトが上で、シューベルトよりショパンが上位であったが、
突然現れたドビュッシーは、そのピラミッドの階級の遥か彼方に置かれた。これはいったい何なのだろうと、寝ても覚めてもドビュッシーのピアノ曲のことが頭から離れなかった。
「小さな羊飼い」は初心者でも弾ける曲で、これを放課後の音楽室に忍び込んで弾いたことを思い出した。家にはアップライトしかなかったので、グランド・ピアノでどういう音が鳴るのか試してみたかったのだ。
ソンジンの演奏を聴きながら、秋の夕暮れの音楽室を思い出し、古い時間が一瞬で蘇り自分のすべてになったことに驚いた。
『ベルガマスク組曲』も洗練された演奏だったが、「メヌエット」がこんな奇想天外な曲であったことに初めて気づかされた。
あの出だしの寄木細工のようなフレーズは、子供の頃から「どうしてああいうふうなメロディになるのか」不思議に思っていたが、ソンジンは平然と音符を支配し、いつの間にかシェヘラザードの踊りのように官能的に高まっていくエキゾティックな楽想を聴かせた。ひとしきりエロティックな昂揚を見せたあと、あの冷酷なグリッサンドで曲は終わるのだが、美女の半裸のダンスを見せられて「これでおしまいですよ」とカーテンがおろされた心地になってしまった。
「月の光」は人を狂わせる月光が降り注ぎ、チョ・ソンジンはどこかポリーニに似ていると思った。精緻で正確な演奏の中に「危ない」感覚を忍び込ませ、聴き手を夢中にさせる。
「パスピエ」のあとの『喜びの島』は花火のような鮮やかなヴィジョンが炸裂し、前半が終了。会場の熱気がものすごかった。
後半のショパン『バラード』全4曲は、ピアニストが誰でもこう弾けたらと羨むような演奏で、イマジネーションが求めるものを技術がすべて実現し、そこには微塵の妥協も感じられなかった。
Op.23の第1番はあらゆる演奏家に「不測の事態」が起こる難解な曲だが、ミスタッチの幽霊もソンジンの前では形無しで、あらゆるカオスを飲み込んで燦然と輝くピアノの贅沢な美が実現された。
さらに度肝を抜かれたのはOp.52の第4番で、あんな理路整然とした、同時に獰猛でもあるコーダを聴いたのは初めてだった。
あの最後の四つの和音は、棺に打ち付けられる釘のようだと毎回思うが、最後の和音でソンジンは椅子から腰を完全に浮かせて、全体重を鍵盤に乗せていたのだ。何も恐れるものはないドラマティックなエンディングで、それを支えているものの強さに感動した。
アンコールはいつものように完全な「第三部」で、モーツァルトのピアノソナタ第12番2楽章、リスト「マゼッパ」、「ラ・カンパネラ」等がきらびやかに演奏された。
それらを聴いて、まったくバラバラのことをしているのではなく、ピアニストの世界観が様式の異なるすべての楽曲に一つの統一感を与えている印象を得た。内観というか内省というか、「内側からの光」を感じる解釈で、自分自身の中にある静寂やインスピレーションと恐ろしく真剣に向き合っている。
ドビュッシーはトライアドとそれに続く全音階を「発見」したが、人類の記憶の古層にある音の感覚を「発掘」したのであり、新規の発明というよりも、考古学的な作業であったと思う。チョ・ソンジンのアプローチにも、そうした「時を超えた」無限への考察が感じられた。
情緒的にも感覚的にも大いに揺さぶられ、ピアノという楽器の魔性、それを扱うピアニストの果てしない可能性にただひれ伏した夜だった。